弱者(かいじゅう)
著;廃棄物
「大川令です! まだわからないことだらけですが頑張ります!」
パチパチと拍手が鳴る。あと何回同じことを言えばいいのか、次はどこに出向くのか、誰がいるのか、彼女はそんなことを考える隙も無かった。
「いろんなとこ行って、れいちゃん大変だったでしょ。わかる、あたしの時もしんどかったなー。特に今年は新入社員一人だけじゃん? 一人だけ10歳も下だし、しんどいんじゃないの?」
「はい、正直疲れちゃいましたね」
「やっぱそうだよね! まあよろしくってことでお昼あたしが奢るから」
「は、はい! ありがとうございます! 迷惑かけると思いますが、よろしくお願いします! 小倉先輩!」
「もうそれ何回も聞いたってー。それよりれいちゃん何頼む?」
おぐらかこ、小倉佳子、小倉佳子。私より15は年上の、これから先輩になる人。名前を忘れてはいけない。
本格的に出社しだした今日までにも何度か話したが、勝手によく喋る人だ。現に氷を弄りながら仕事の大変さを語っている。主導で話すことは得意でないので、相槌さえ打てば良いやりやすい人で安心している。
「それでね、さっき言った湯川ってやつのせいで──」
彼女のいうところの無能社員のやからし話に差し掛かっていた。
「お、佳子!」
「あ、楠木さん! お疲れ様です!」
中年と言って差し支えないであろう男性、令にも見覚えがある。目尻に目立つ黒子があり、やや太り気味。狭い額はテカテカと脂で光っていた。
「新人の大川さんもいるじゃないか」
「そう、あたしが話したくて連れてきたんです!」
「あの、これからよろしくお願いします!」
「いやーそれにしてもあの挨拶! 元気があってよかった。頑張るって言い切れる子は伸びるっ!」
令の肩を揉みながら楠木は目尻の皺に黒子を隠した。
***
朝、令は電話の音で起きていた。
「──ほんとうに大変ね、令ちゃんまだまだ若いのに」
「いいえ、血のつながった兄弟ですし、まだ少し父の遺産もありますから」
「そーお? ならいいのだけれど。あ、またお線香立てに行くから!」
「ありがとうございます」
「あ、かいくんも電話出る? 令ちゃん」
「あ! ごめんなさい、お兄ちゃん起きてきちゃった。では失礼します。はい、はい……」
ガチャと受話器を元に戻す。半分は嘘で本当のことを口実にした。
まさか平日の朝っぱらからかけてくるなんて。ふだん一人で暮らす親戚のおばさんは、自分の息子がいる時だけ私に電話をよこすようだ。時折電話口から『ママ』とおばさんを呼ぶ声がし、気持ち悪さすらある。ただでさえ少ない父の遺産だっておばさんにいくらか持っていかれてしまい、思ったほどの余裕はない。偶然私が働ける年齢でなければ、一体私たち兄弟はどうなっていたのだろう。
しかし頼れる伝手はおろか、知っている範囲の親戚は彼女たちしかいない。母方は両親が結婚したころにはもう誰も生きておらず、当の母も私の出産で命を落としている。体が弱い人たちだったのだろう。
「あー! あー!」
喃語と成人男性の声帯が合わさったうめき声。ごんごんと鈍い音も響く。
時計を見ればいつもより15分ほど早い起床だ。
「おはよ。お兄ちゃん、ほら、このパン焼いてくれない?」
手は髪を握りしめ、水揚げされた魚のごとく暴れる、まごうことなき彼女の実兄だ。畳んだ洗濯物は蹴散らし、卓上の調味料はすでに倒れている。
彼女が袋に入った6枚切りの食パンを渡してやると、大人しくトースターに向かう。封は食卓のトースター側の端に置く。二枚の食パンは縦横平行垂直に並べる。ゆっくり蓋を閉め、3分ぴったりにつまみを合わせる。
兄がトースター内部を見つめる3分間。彼の鼻歌が響くだけの静かな時間。
その隙に洗濯物を畳み直し調味料を立てる。きっちり整頓しなければまた暴れまわることを令は18年で理解していた。きっと今日は聴きなれない電話の音に驚いたのだろう。
チン、とトースターの音が鳴ると、彼は内部が冷たい色になるまで見守り、それから食器棚へ向かい、白い皿を取り出しパンを乗せる。
「ありがとう、じゃあいただきます。ん、美味しい」
一度食べて見せれば兄もパンを齧る。
「ねぇ、今日は何する日だっけ? カレンダーはねぇ──」
新生活が始まって数日、大川令は忙しかった。
***
朝の騒がしい駅。色とりどりの看板に目を引かれる彼を引っ張り、ごった返す人の間をぬい、毎朝なんとか着く。そして3駅ほど乗り行先につく。
「じゃ、行ってらっしゃい!」
「はい!」
おおきく頷き一人電車に残る兄。扉が閉まった後もじっと私を見つめ、そのまま横にスライドしていった。
去年の暮れに父が死んでからというもの、兄は落ち着きがなくなった。自らの髪を抜くようになったし、できていた排泄だって失敗するようになった。私にはよくわからない。あんな父親がいなくなってどこに悲しむというのか。
平日の昼間は一駅離れた作業所に行ってもらっている。駅には作業所の職員が待ってくれているし、電車に乗っていてくれさえすれば何とかなった。
人ごみをぬい、令はその場を後にした。
***
「失礼します。お疲れ様でした」
「はい、お疲れ様でーす」
一礼しブースを出る。ここ一週間ほど基本的な仕事内容を教わることが大半だった。まだ慣れないが、忙しさを感じる暇もないほど令は一生懸命だった。
建物の玄関口で令は自身の二つ折りの携帯電話を開き電源を入れる。チロチロとドットが動く画面を見て呆然とする時間は、楽しくもなく辛くもなく、ただ無になれる一息の時間だった。
しばらくお待ちくださいの文字列と白い背景が切り替わった直後、けたたましい着信音が響く。社会に慣れかけた彼女は反射的に電話を取る。
「はい大川です」
人ごみの音とともに声が入る。嫌な予感がする。
「あ、〇〇電鉄です。ご兄弟の方ですか?」
何故そこから電話がかかってくるのだろうか。あまり信じたくなかったが、心当たりは一つしかない。
「はい。……兄がどうかしましたか」
「実はお兄様がですね、その……車内で取り乱してしまって、ええ。一時間ほど前に保護という形で警察に届けたのですが。一応手帳の連絡先にこちらからも連絡を入れさせていただいた次第でしてね」
帰りは家まで兄一人だ。ただ、電車に乗るぐらいはできたはずだった。緊急連絡先に電話がくるほどの事件は起こしたことがない。
「そうでしたか。わざわざすみません」
「はい。失礼しますー」
ツーツーと電子音を二度鳴らしプツと切る。何をしたのか、怖くて聞けなかった。オブラートに包まれた『取り乱す』には何が含まれているのか。備品を破壊したのか、他人にちょっかいをかけたのか、その他人が居たとしたら何をしたのか、もしや弁償もあり得るのだろうか。様々なことが予想できてしまった。
ぶらりと下げた手はあまり力が入らない。出てゆく社員に目もくれず、もう一通の電話が来るまで薄暗い空を見上げていた。
***
「ちょっとれいちゃん、これで発注した?」
「は、はい……」
「これじゃあ──」
そこまで言うと、小倉はため息をついた。
「午後から会議あるから、お茶淹れといて。20人分。そのくらいはできるよね」
「わかりました、あの、すみません……」
この声が聞こえているのかいないのか、彼女はすたすたとどこかへ行ってしまった。
ここ最近、令は失敗続きだった。
「やだなぁ……」
昼休憩の屋上から街に向かって呟いていた。
「大川さん?」
背筋に電流が走る。令のポニーテールがフェンスを叩いた。
よ、といい、楠木は令の隣に立つ。囲むように一段高くなったそこに並んだ。
「……すみません、全く気付かなくって」
「元気ないね、もしかして五月病ってやつか?」
「えへへ……そうかもしれませんね……」
令は頭を掻いて見せたものの、ひとつため息をつき言葉を続けた。
「実はけっこうやばいミスしちゃったみたいで。今回以前にもいろいろやっちゃっていて、私のせいで何度も小倉先輩に迷惑かけてるんです」
あ、しまった。ヘラヘラと笑って見せてから令は思案する。社内の立ち位置はまだよくわからないままだ。一端の新入りがこんな風に話してよい人だっただろうか。また怒られてしまうのだろうか。また評判を下げてしまうのだろうか。
おびえる彼女をよそに、楠木はあまりにも普通に返答した。
「うんうん、ミスって続くよね、あれなんでだろう」
「楠木さんでもそうなんですか?」
わははと笑い続ける。
「大川……いや、れいちゃんでいいよね。オレや佳子だって人間だよ。誰でも失敗する」
「そういうものですか……」
「そう! 少なくともオレは今言えないようなとんでもないことやったし。それにれいちゃんはまだ20にもなってないだろう? まだ若さで許されるから」
つってね、と付け足しおどけて見せた。
令は外から視線を外し、楠木を見る。
「あの……」
そう言いかけた時、楠木の胸ポケットがバイブレーションする。しかし彼は下を一瞥もせず令を見つめ続ける。
「いいよ」
令を映す目はじっと見つめる。口だけは弧を描くが、面白くて笑ってはいない。彼女の薄くて細い肩を叩く。
「れいちゃんのつらいこと、オレに言っちゃいなよ」
令の足元には水滴が染み込んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます