第二声

著:恋猫なつき



  目覚まし時計はうまく機能しなかったらしく、母の呼び声で目を覚ます。布団の中は温く、まだ起きるには早すぎると感じた。二度寝を考えたが、母の声がさっきより強く聞こえたので渋々体を起こすことにする。寝坊しないためにと目覚まし時計をいつもより早くセットしたが、そんな対策は無意味だった。軽い決意では布団には勝てないことを再認識させられる。

  リビングへ行くと見慣れた朝食が並んでいた。いつもと変わらない朝食のはずが、今日は特別に感じる。食事を済ませ支度をする。歯を磨き、顔を洗い、髪を整える。いつもと違う髪型でも良かったが、今日は私を強調したかった。新品のカバンを持ち、玄関へと足を運ぶ。母の忘れ物チェックは今日も念入りに行われた。


「行ってきます」


  春の訪れは、恐らく大半の人にとって気分をウキウキさせるものだと思う。新しい環境が始まれば、今までとの違いに新鮮さを感じるものである。その中でも、学校というものはより一層変化を感じさせる。暖かい風は人々の髪を靡かせ、桜の花吹雪は新しい通学路のカーテンとなる。皺ひとつないブレザーには花弁がつき、革靴から上履きに履き替える時には踵に少し痛みを感じた。一階の教室は新鮮な空気で、見たことのない人たちで溢れている。自分の席を探し着席する。ちょうど窓側の席で、校庭がよく見える位置だった。机に置かれた教科書は傷一つなく、輝いて見えた。新しいことが沢山あり、気分が良くなる。ウキウキするのは私も例外ではないらしい。


       不安だな


 教科書は思った以上に重く、机に擦りながら自分の膝まで持ってくる。クラスメイト達の口数は多くない。そのせいか、少し不機嫌に見える。


       自信がない


 何も入っていない机の中に教科書を入れて窓の外を見る。春を告げる蝶がひらひらと舞っていた。華麗に飛ぶ姿を見て思わず言葉が漏れる。


「私に出来るのかな」


 蝶は肯定も否定もしなかった。






 桜のカーテンはなくなり、日差しが良く通るようになった。新鮮だった空気は身近なものになり、先生のいなくなった教室には話声が溢れている。入学当初はさすがにみんな緊張していたらしく、話し合う余裕などなかったらしい。だからみんなの変わり様には少し驚いた。最初はだんまりだった子も、今ではクラスのムードメーカーである。今も新しい友達と話しあっている。さっきまでのホームルームで配られたプリント用紙とにらめっこをしている私からは、少し鬱陶しく感じた。普段の連絡用紙が配られただけならば、鬱陶しいなんてことは思わない。周りの話なんて気にも留めず、一度目を通したらすぐに鞄に入れるだろう。でも、今回配られたのは入部届だった。この学校生活を左右する大きなことだから、普段のものとは重要性が違う。それに、考えていたこともある。

 陸上部に入りたいと思っていた。私の中学にも陸上部はあって、彼らの頑張る姿を下校する際にいつも見ていた。自分の足でどこまでも挑戦する姿は輝いて見える。まるで悩みが何もないかのように進む姿勢に、私は憧れを抱いていた。その憧れを叶えるチャンスが巡ってきたのである。今この用紙に書いてしまえば、私の憧れは―――――――――――


       出来ないよ


 入部希望欄で手が止まる。いつの間にか、周りの声は聞こえなくなっていた。いつまで止まっていたのかは分からない。机には夕日が差し込んでいる。


       憧れなんて叶いっこない


 書くはずだった空白の横に名前を書く。職員室へと足を運び用紙を提出する。今までと同じことをした。






  最近の春は直ぐに過ぎ去ってしまう。寒い冬からやっと暖かくなったと思えば猛暑である。夜は熱帯夜で暑苦しくて。朝早くならまだ涼しいかと思ったけどそうでもなかった。

 ただ、いいこともある。暑さで狂いそうな朝の日差しに耐えながらやっとの思いでたどり着く学校の教室は、格別だった。教室に入った瞬間に体を覆うように冷気が飛び出してくる感覚は忘れることができない。学校の授業は嫌いだが、エアコンが効いた教室に居られることに関しては素晴らしいと思う。それとは反対に、今いる陸上部の倉庫は赤道付近にいるような感覚だ。道具を黙々としまっていると頭から汗が頬に伝ってくるのが分かる。流れてきた汗を半袖の短い袖で拭うが、すでに何回も汗を拭っているからあまりすっきりしない。マネージャーとしての仕事だからやるしかないのだが、いくらなんでも暑すぎる。エアコンの効いた教室が天国なら、ここは地獄の窯の中である。倉庫にもエアコンが付いていたらと叶うはずのないことを考えていたら、片付けが終わっていた。

 倉庫から外に出てみると、外の方が圧倒的に涼しく感じる。一瞬朝の教室に入った時の感覚と同じものを感じたがやっぱり暑かった。カラスが鳴いていたが、暑さに嘆いているように聞こえ、私の暑いという感覚が間違っていないことを確信する。いつの間にか校庭は夕日の赤い光に包まれていた。

 陸上部の部員のほとんどはすでに帰っていた。どこの部活の部員もそうだが、大体の部員は、学校で決められた活動時間が終わると我先にと帰ってしまう。部活が楽しくないようにも見えるが実際はその通りなのではないかと思う。私の学校は部活に加入することが必須であった。学校生活をよりよくするためにと作られた校則があるのだが、かえってそれが学校生活に合わない生徒もいる。校則で決まっているため、入学してから一か月ほどで入部届を出さないといけないのだ。だから自分に合わない部活を選んでしまう生徒も少なくない。夏の大会前になると練習が厳しくなり、やめてしまう部員が結構いるらしい。やめてしまった後にどこに行くかは分からないが、文化系の部活の部員が多い理由はそういうことなのいだろうか。

 そんな寂しくなった校庭に一人、生徒が残っていた。ハードルを何度も飛んでは何度も失敗を繰り返していることからだれかは分かる。少し近寄ってみてみると、服が泥だらけになっていた。


「またですか?」


 声をかけると、息を切らしながら先輩がこちらを振り向く。顔にも泥がついていた。


「やあ、お疲れ様。マネージャー君も、いつもこんな遅くまで大変だね」


 先輩はいつも遅くまで練習している。私が仕事を終えても校庭で練習をしているのだ。部活のマネージャーになってから帰りが遅くなったのだが、大体はこの先輩が理由である。仕事の一つとして、部員がいなくなった部室の戸締りをしなければならないのである。だから部活がある日は通学路が同じこともあり、一緒に帰ることがほとんどだ。先輩の練習が長引くと、私の下校も長引くのである。このことは先輩も気にかけているらしく、下校途中で色々おごってもらったりする。そういう人を気遣うことのできる一面は素敵だと思う。でも、それだけ練習しているなら色々とうまくできるのかと聞かれると、お世辞にもうまいとは言えなかった。私が見ている限り、いつも失敗ばかりしていた。足が速いわけもなく、高跳びができるわけでもない。さっき見たハードルの練習も、うまく飛んだところはいまだに見たことがない。ほかの先輩たちの間でも色々話されていることは私も知っている。


       無駄だよ


 なぜ続けるのか分からなかった。なぜ続けられるのか分からなかった。自分では解決できない疑問を先輩に問いかける。


「なんでそこまでするんですか?」


 先輩は迷いなく答えた。


「言い訳をしたくないんだ。自分の好きなことに対して、叶えたいことに対して言い訳をしたくないんだ」


 先輩の言葉の一つ一つが私の中で大きく反響する。自分の好きなこと。叶えたいこと。それに言い訳をすること。今までの自分の姿が思い起こされる。挑戦することに対して言い訳を重ねていたことがずっとあった。自分には出来ない、自信がない、やっても無駄だと思ってきた。思おうとしてきた。そうやって言い訳を作って逃げてきた。怖かったんだ。どうなるか分からない未来が。

 でも、もう大丈夫な気がする。挑戦した未来の姿は思っていたものとは違っていた。だからそうなんだ。怖がらなくてもいいんだ。挑戦し続けている先輩はこんなにも輝いて見えるのだから。


「そろそろ練習に戻るよ」


 そういって先輩は練習に戻っていった。私も挑戦したい。


       不安だな、自信がない


 もう、怖くない。


       出来ないよ、憧れなんて―――


「うるさい!」


 自分の声が校庭に響く。先輩は驚いていた。


「ど、どうしたんだい?」

「先輩!私も一緒に練習します!」


 町の明かりは点きはじめていた。

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