第8話 泣かないで
「隠れる、ですか?」
「そう!桃倉さんも用事を済ませれば帰っていくはずだ」
「なるほど…」
「その後改めて壁ドンをしよう。じゃ、水瀬さんから先にどうぞ」
「わかりました!」
水瀬さんは掃除道具入れを開け、中へと入った。幸い中に道具は入っておらず、俺が入ることもできそうだ。
「じゃあ俺もー」
「誰かいるの?」
「まずい、桃倉さんがきた!入るね!」
「は、はい」
慌てて掃除道具入れの中に入り、扉をガチャリと閉めた。閉まると同時に、図書室のドアが開けられる音が聞こえる。
ドアの隙間から伺うと、桃倉さんがキョロキョロとあたりを見回していた。
「って、いるわけないかぁ。この図書室人気ないしね。さて、忘れ物はっと」
すぐに離れていき、姿は見えなくなる。まだ図書室にいるようだが、いずれ出ていくだろう。
作戦は成功だ。
いや、失敗だ。
「あわわ…」
西洋人形のように整った顔と、さらさらとした銀髪が目の前に。
さっき見たイラストのように、もう少しで唇が触れ合ってしまいそうだ。
「矢崎くんに、潰されちゃいましゅ…」
水瀬さんとの距離が、近すぎる!
****
「あ、あったあった」
アタシは図書室の机の上に置かれた髪飾りを拾った。今日の昼、返し忘れていた本を返す時に落として行ったもの。
「あれ、でもさっきもここに来たような…気のせいかな」
いわゆるデジャビュってやつ?
誰もいないと思って扉を開けたら、顔見知りの誰かが2人がいて、1人があわあわして、爆発して…爆発?うーん、夢だから仕方ないけどはっきりしない。
ただ、はっきり覚えていることが1つある。
怖がっていた自分の手を、誰かが握って安心させようとしていた。
その手はとても暖かくて、アタシは何かを言おうとしてー、
「って夢なのに何言ってるのアタシ」
なんだろう。
なんだか、顔が熱い。
熱でもあるのかな?
「はあ。最近のアタシ、アタシっぽくない。それもこれもきっと、あいつのせいだ」
頭をぶんぶんと振って雑念を振り払い、図書室を出ようとした。
ガタン。
その時、後ろの方で物音が聞こえる。何か大きな物が動く音。
「え?誰かいる?」
恐る恐る室内を覗いてみたが、誰もいない。
「…ダレカイマスカー?」
念のため、もう一度確認することにした。
なんだか、隅に置かれた掃除道具入れが怪しい気がする。
****
「まずい、近づいてきた。水瀬さん、声を抑えて!」
「そそそ、そう言われても。逃げ場がないですよ?」
がさがさ、ごそごそ。
桃倉さんが接近しているにも関わらず、俺と水瀬さんは動きを抑えることができない。
いや、仕方ないのだ。
冗談抜きで、少しでも動いたらくっついてしまいそうな距離しかない。
方向を変えようとしても、どこかしらが当たってしまう。
「ひゃん…!」
まずい。
肘が水瀬さんの胸を掠めてしまった。
敏感な所に触れられた水瀬さんが甘い声を出す。
「ごごごごめん!?不可抗力で」
「だ、大丈夫です。亜里沙、準備はできてましゅ…」
「何の準備!?」
そうこうしているうちにも、桃倉さんは徐々に距離を詰めてきた。
「うーん…何かこの辺りで声が聞こえるなぁ。アタシの女の勘がそう言ってる」
掃除道具箱を開けられるのも時間の問題。
『リア充タイマー』の数値は一旦『0』に戻ってるけど、おそらく、見られたらまた爆発してしまうだろう。
(いや、待てよ)
冷静に考えれば、特に爆発することにデメリットはないのではないだろうか。
またやり直せばいいのである。
今度は別の場所に隠れてー、
「…ごめん、なさい」
その時、俺は水瀬さんの姿に変化が起きたのに気付いた。
「亜里沙のせいで、矢崎くんに迷惑をかけちゃいました。やっぱり、亜里沙はリア充になっちゃいけないんです」
涙を流している。サファイアのように青い瞳から、清らかな水滴が一筋流れ出していた。
「水瀬さん…」
「すみません。何度も体験してることなのに、世界が大きく変わったりしないのに、リセットされるのはやっぱり苦手で…」
そうか。
その時、俺はようやく気づいた。
リセットされる恐怖を、水瀬さんはずっと感じてきたんだ。俺の前でも大したことないように振る舞ってきたけど、本当は震えるほど怖い。
当然じゃないか。
誰かと心通わせた時、仲良くなりそうになった時、それが無かったことになるなんて、想像するだけで恐ろしい体験に違いない。
軽々しく、簡単に『リセットすればいい』なんて思っちゃいけないんだ。
「ごめんね、水瀬さん。怖かったね、苦しかったね」
焦っていた心がすーっと落ち着くのを感じる。たとえ幼馴染に振られた冴えない男でも、今彼女を救えるのは俺だけだ。
「でも、俺が何とかするから」
だからー、
「泣かないで」
彼女の頬に手を伸ばした。
****
「あ…」
ぽかぽかする感触を頬に感じます。
矢崎くんが、亜里沙の涙を拭ったのです。
ぎこちないですが、しっかりと、優しく、拭ってくれました。それと同時に、ゆっくりと顔を近づけます。
少し背をかがめ、亜里沙と対等の目線で見つめられました。
そしてー、
「もし何かあっても、俺が付いてるから。絶対に水瀬さんのこと忘れないから」
耳元で声をかけられます。息を吹きかけられ、全身を心地よい感覚が貫きました。
「大丈夫?」
「ひゃ…はい。もう落ち着きました。亜里沙、静かにします。ただ…」
「ただ?」
「このまま、そばにいてください」
ああ。
なんと心地よいのでしょうか。
信頼できる男の子に守られて安心できる頼もしさ。
ギリギリまで密着しているのに、不快さはなく、むしろずっとこうしていたい。
むしろ、矢崎くんが嫌でなければ、積極的に触れ合いたいすら思える。
これが、壁ドン?
****
「うーん…やっぱ気のせいか。帰ろ」
桃倉さんがスタスタと去っていき、扉を閉める音が聞こえた。
なんとか危機は去ったらしい。
ゆっくりと水瀬さんから離れ、掃除道具入れの扉を開けた。
銀髪の少女はぽかんとした表情を浮かべ、立ち尽くしている。
「はー、何とかなったか…ごめんね、いきなり密着しちゃって」
「…」
「壁ドン、どうしようか。とりあえず仕切り直してー」
「…合格です」
「え?」
水瀬さんが微笑みながら、掃除道具入れから出てきた。
「亜里沙、世界で一番幸せな壁ドンを体験しました。リア充に一歩前進です♪」
「そうなの!?」
よく分からないが、合格らしい。
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