03話.[それなら行くか]

 私は少し楽観視していたのかもしれない。

 そう、相手が紅葉さんだとか、その人とお出かけするとか、そんなことはなんにも問題じゃなかったんだ。

 じゃあなんで? と問われればひとつしかない、それはこの、


「凄え汗だな」

「す、すみません……」


 汗っかきなところしかない。

 八月に近づく度にどんどんと暑くなっていく。

 だというのに私はテストが終わったということと、どうやって楽しもうかな~なんて考えるだけで対策をしていなかったのだ。

 馬鹿だ、今ばかりは馬鹿だと言われても仕方がない。


「店に入るか、休憩しよう」

「ごめんなさい……」

「気にするなよ、行こうぜ」


 ちなみに休憩これ、三十分前にもした。

 そのときも同じで汗が止まらなかったから紅葉さんがそう言ってくれたんだ。

 店内は涼しいだろうからとね。

 これじゃあ介護みたいなものになってしまう。

 お詫びをするために、私としてはお礼をするために出てきたのに意味がない。


「家に帰るか?」

「えっ、い、いいですよっ、紅葉さんが行きたいところに行ってくださいっ! あ、汗臭かったら……ごめんなさい」

「夏は暑いから汗ぐらいかくだろ。俺だってほら、普通に汗かいてるし。だから気にしなくていいんだ」


 ……こんな体質じゃ恋愛なんて無理だ。

 いまこうして出かけてくれている紅葉さん――彼は稀有な存在だ。

 その先に進むことはできないけど、男の子とお出かけなんて多分この先できないだろうから味わっておかないと。

 謝る回数も減らさないといけない、何度もすれば気持ちが伝わるというわけではないから。

 逆にその言葉がどんどんと軽くなって、相手を苛つかせてしまうかもしれないからね。


「なあ」

「は、はい、どうしました?」

「無理するなよ、俺はこうして土曜に付き合ってくれただけで感謝しているんだぜ? 今更遠慮するような仲でもないだろ」


 感謝って……これじゃあ寧ろ出かけなかった方が彼にとってはいいことだっただろうに。

 優しいのは嬉しいけど、なんか気を使われているようで複雑だった。


「気を使わないでください、それに迷惑なら迷惑だと言ってくれればそれでいいですから。本当は面倒くさいんですよね、分かります、自分でもやっぱり毎回こうなるんだって思っていますから。だからいいんですよ、いつものように真っ直ぐに指摘してくれればそれで。そういうつもりがないということなら気にせずに行きたいところに行ってください。私は付いて行きますから、逃げたりはしませんから。これはこの前、紅葉さんに無自覚で良くないことをしてしまったことに対するお詫びなんです。それなのに私のことを考えて帰るなんておかしいですからね」


 やばい、凄く早口になってしまった。

 あと、恩を仇で返すようなことをしてしまった。

 マイナス思考をしてしまうのは自分の悪いところだ。

 相手が真面目な顔で話しかけてきたときはそういうことなんじゃないかって勝手に考えてしまうところを直さないと。


「無理しているわけじゃないんだな?」

「はい」

「よし、それなら行くか」

「はい、最後まで付き合いますよ」


 それにそうなってくれないと困るのだ。

 なにかを買って贈る、それが達成できなくなってしまう。


「倒れられても困るから腕を握っておくぞ」

「あ、汗が……」

「どうでもいい、倒れられるよりもマシだ」


 タオルで拭いてもどんどん出てくるから気持ち悪いだろうな。

 そもそも彼はどうして私に優しくしてくれるんだろうか。

 普通だったら気持ちが悪いとか言って距離を置くような人間だと思うけどな。

 ひとりだけアホみたいに汗をかいているんだし……。

 それだけならともかく汗臭さだって絶対にあるはずなのに、あくまで距離を空けたりすることなく彼は……。


「椛」

「え? あ、はいっ」


 そっか、今はもう名前で呼ばれていたんだった。

 依田とばかり呼ばれ続けてきたから違和感しかない。


「やっぱり帰ろう、このまま付き合わせるのは苛めをしているように見られるからな」

「え……」

「また涼しくなってから行こう、そのときは最後まで付き合ってもらうから不安にならなくていいぞ」


 腕からも手を離して今来た道を引き返そうとする彼。

 大人しく付いていくしかなかった。

 本音を言えば涼しいところに留まっていたいと思っているから駄目だった。

 でも……いまはその優しさが私の心を抉っていく。

 お詫びすらまともにできないって、また過去と同じようになるんじゃないかって不安がどんどんと増していく。


「そんな顔をしている人間を連れて歩けるかよ」


 多分、彼は聞こえていないと思っているはずだ。

 だけど全部、今の私には聞こえていたのだった。




「羽目を外しすぎないようにしてくださいね」


 ああ、高校に入ってから初めての夏休みが始まる。

 みんなはわいわいと楽しそうだった、けど、こっちは空気の読めない感じで教室に存在している状態だった。

 苦手な学校にも行かなくて済むというのになんだろうこの感じは。

 普段であれば美味しい物や行事を前にハイテンションで家に帰っているところなのに、こんな放課後の教室に残ったりはしないでアイスでも食べながら帰るところなのになにをやっているのか……。


「椛? 帰らないの?」

「うん、ほらっ、外は暑いから」

「だねえ、なんかめらめらしているもんねー」


 あれから紅葉さんは一度も来ていない。

 いや、細かく言えば翼ちゃんには会いに来ているけどこちらには話しかけてこない、といったところか。

 そりゃそうだよなあ。

 行きたいところにも全く行けず、ただ暑い思いをしただけで終わりだったんだから。

 しかも同行者はただ歩いているだけなのに汗だくだ。

 そんな人間と一緒になんかいたくないよねって自嘲した。


「そういえば紅葉くんがさ――」

「やっぱり帰ろうかな、いいよね?」

「あ、うん、帰ろっか」


 こんなところに残っても意味はない。

 考え事をするのなら自宅のリビングで涼みながらすればいいんだ。

 誰にも邪魔されないで延々にすることができる。


「汗臭かったらごめんね」

「いいよ、私だって汗はいっぱいかくから!」

「うん、ありがとう」


 苦しくなってくる。

 桜庭兄妹としかいられていないけど、その桜庭兄妹といることが今はただただ苦しかった。

 いいよって自分が保険をかける度に言われることが、絶対に嫌がっているのにってどうしてもそんな風に考えてしまって。

 私には眩しすぎるんだ、私の近くにいていいような人達ではないんだ。

 どうせなにかをしてくれてもこちらはなにも返せないから駄目なんだ。

 だったら、


「翼ちゃん、ありがとう」

「え? あ、うん、どうしたの?」

「だから、さ、もう来てくれなくていいから、あなた達の時間を無駄に奪いたくないからさ」


 こうやって自分から言わなければならない。

 また逃げているだけだ、結局なにも変われていないんだ。

 でも、これでいいんだ。

 少なくとも相手からすればこれが一番なんだと思うから。


「も、椛?」

「帰るね、また夏休み後に会おうね」


 まあなにもかも想像というか妄想で勝手に言ってんじゃねえって紅葉さんなら言ってくるかもしれないけどさ。

 いいんだ、夏休みはとことん引きこもってゆっくりすればいい。

 九月からひとりで頑張るために今の内にしっかり捨てておかないと駄目になってしまう。

 そうしたらもう醜い存在になってしまうから今はただ楽しんでおくんだ。


「ただいま」


 大丈夫、惨めな思いを味わうことはないだろうから。

 私にできることはこれぐらいだった。




「あ……なにもないや」


 ご飯はちゃんと食べていたからやっぱりなくなるよなあと、完全に引きこもるのは不可能だと分かった瞬間となった。

 だから仕方がなく汗をかいても目立たないような服を着てスーパーへ向かった。

 流石に死ぬわけにはいかないからしょうがない。


「「あ」」


 スーパー店内で桜庭兄妹と遭遇。

 露骨に避けると問題になるから挨拶をして自分が欲しい食材を選びに移動する。


「よう」

「どうも」


 翼ちゃんに任せてしまっていいのだろうか?

 過去にこうして三人でお買い物に来たことがあるけど、翼ちゃんに任せていたらお菓子ばかりになった、なんてことがあったんだけど。


「家に引きこもっているのか?」

「はい、汗をかいてしまいますからね」


 そうすると洗濯物も増えてしまうしこれでいい、なるべく動きたくないんだ。


「携帯の電源が入っていないみたいだったからさ、少し心配だったんだ」

「ごめんなさい、だけど夏はいつもこんな感じなんですよ。外との繋がりを絶って自分が構築した世界に浸るんです」


 エアコンの使用は許可されているから一切気にせずに使用させてもらっている。

 そのかわりにお小遣いを貰わないようにしているからまあ多少は……、電気代の方が遥かに高いだろうけどマシだと信じていた。


「この後、食材をしまったら行ってもいいか?」

「いや……なんにもないのでやめた方がいいですよ」


 夏休みが終わったらひとりになるんだ。

 誰かといたらそのときに弊害となるかもしれないから許可はできない。


「駄目だ、行かせてもらう」

「え、別にご飯を食べていないとかそういうことじゃないですよ?」


 なにかを食べることは大好きだから欲求を無視することはできない。

 そもそも死にたいわけではないんだからそんなことをする必要がないのだ。


「それは見てれば分かる、普通に元気そうだしな」

「はい、それなのに……ですか?」

「ああ、余計なことを考えているのも分かるからな」


 ……まあいいや、今日ぐらいは許可しよう。

 というか、どうせ紅葉さんは聞いてくれはしない、いつもいきなりこうだから。

 ある程度食材を選び終えたらやはりお菓子を見ていた翼ちゃんと合流し、お会計を済ませてお店をあとにする。


「椛のばか」

「いきなりだね」

「あんな言い方をされたら不安になるじゃん……」


 でも、結局夏休みに入ってから一度でも来たとかではないんだから私の存在はどうでもよかったんじゃないかって片付けることができてしまう。


「よし、翼、俺は椛の家に行ってくるから」

「私も――」

「いや、大事な話をするために行くんだ、今日は待っていてくれ」


 だ、大事な話ってなんだろう……。

 なんか怖い、わざわざ翼ちゃんを来させないようにしたところもあるから余計に。


「はーい、椛、またねー!」

「うん」


 またはない、話すのはこれが最後だ。

 夏休みが終わったら私はひとりで生きていくんだ。

 大丈夫、どうせ家でもひとりなんだから寂しいとかは一切ないんだから。


「どうぞ」

「おう」


 食材を冷蔵庫にしまって、それから自分と紅葉さん用の飲み物を用意。


「どうぞ」

「ありがとな」


 エアコンは点けっぱなしだったからここは冷えていて本当にいい。

 ここにいるだけで色々な複雑さも片付けられる気がする。


「さてと、どういうことか説明してくれ」

「なにがですか?」

「どうして翼にあんなことを言ったんだ?」


 それはお詫びすらまともにできなかったからだ、紅葉さんがあんな終わらせ方をしたからだ、なんにも複雑なことじゃないんだ。


「結局、無駄だったってことですよ。どこに行こうが人間がすぐに変われるわけがないんです、私が馬鹿だったというだけで終わる話なんですよ」


 だけど今回はひとりになることができるんだ。

 今度こそ誰にも支えられることもなく自分だけで頑張って生きていく必要があるんだよ。

 誰ににもお世話にならないなんて不可能だろう。

 それでも、なるべく避けることでいちいち引っかからずに生きていくことが可能になると思うんだ。


「この前までありがとうございました、本当にあなた達がいてくれたおかげで不安に押しつぶされることもなく過ごすことができましたから」

「つまり、もう変わる気はないんだな」

「そうですね。変わろうとすればするほど、自分以外の人を巻き込んでしまいますから。返しもしないでしてもらうだけしてもらって、自分勝手なんですよ。だから、被害に遭いたくなければあなた方の方から離れてくれればって思っています」


 表も内側も落ち着いていた。

 なにかから解放された気分だった。

 そして、彼や彼女だって言うことを聞いてくれると思っていた。

 誰だって面倒くさいことに巻き込まれたくはないんだから。


「はい、離れたぞ」

「え?」

「お前は馬鹿だな、いちいち思考が暗すぎだ」


 多分、ここに翼ちゃんがいても同じようなことを言われると思う。

 兄妹でよく似ているし、まるでふたりでひとりみたいな感じだし。


「というわけで聞き入れられない」

「えぇ……」


 そっちでも期待した自分が馬鹿だったか。

 素直に「おう、それじゃあな」となるわけがなかったんだ、なにを考えていたのか。

 私はこの三ヶ月で彼のことを一応少しは知ることができたと思う。

 そして◯◯してと頼んだら「じゃあしない」となるのが彼だったというのに……。


「簡単に諦めんなよ、まだこっちに来てから三ヶ月しか経っていないんだぜ?」

「……紅葉さんのせいでもありますからねっ? いいって言っているのに途中で帰ったりするから……」

「だって汗がすごかったしなあ、あのままだと水分不足で倒れていただろうからさ」


 汗をいくらかこうがその度に摂取しておけば大丈夫だ。

 その証拠にこれまで一度も倒れたことがないんだから。


「ほら、手を貸せ」

「はい、あ」


 こっちの手を力強く握りながら「俺はこれからもお前のところに行く、翼だってきっとそうだ。これでも信じられないならこれからも一緒にいることで見極めてくれ」と言ってくれた。

 最高に彼らしい考え方だ、まるでこうなることを望んでしたかのような展開になった。

 でも、断じてそういうことはない。

「そんなことはねえよ」って言ってもらうためにしたわけじゃないことは分かってほしかった。

 だからどうしてそこまでしてくれるのか。

 もうこれは妹の友達だからとかじゃ済ませられないレベルだと思うけど。


「か、勘違いしてしまいますよ?」

「は? ああ、そういうことか」


 こっちの手を握るのをやめて「腹減った、なにか作ってくれ」とあくまで自由な紅葉さん。


「それじゃあ素麺でもいいですか?」

「おう、それでいい」


 茹でて冷水に突っ込んだら完成。


「美味いな」

「はい、美味しいです」


 ネギもいい、麺つゆが冷たいのもいい。

 でも、紅葉さんがいることは本当にいいことなのだろうか?

 ずずずと食べている私よりも大きい人を見て考える。


「ごちそうさま」

「はい、食器は置いておいてくれればいいですから、それじゃあ気をつけてくださいね」

「は? まだ帰らねえけど」


 気にしないでおこう、細かいことを気にしていると胃が痛くなるから。


「ひとりで暮らすのってどんな感じだ?」

「うーん、色々と適当になることがありますよ、あとは少し寂しい……ですかね」

「行ってきますとかただいまとか、それに対する返事ってのがないしなあ」

「はい、でもわがままを言ってこっちに来られているわけですからこれ以上は言えませんが」


 これも言ったところで意味がないことだ。

 だけどなんだろう、こうして吐けただけでなんかすっきりできたというか……。


「結局寂しいんじゃねえか」

「あ、当たり前ですよっ。……それでも、おふたりにこれ以上迷惑をかけないようにって考えてひとりで……」

「勝手に俺達のことを決めるなよ」


 そう言われても根本的なところが変わっていないから難しいというか。


「あと、また髪を適当にしてやがって」

「あー……ほとんど出なかったので」


 ドライヤーで乾かすこともしていなかったし。

 確かに紅葉さんが言っていたように他人はこっちのことなんて気にしていなかった。

 だから先程も全く気にせずぼさぼさ髪のままでスーパーへ行けたということになる。

 所詮、一億人以上いる日本人の中のひとりだ。

 なんでそれなのに他人の目を必要以上に気にしていたのか分からないけど。

 

「紅葉な、ほら呼んでみろ」

「こ、紅葉」


 自分の名前が好きなんだろうか?

 私はこの椛って名前、可愛い響きだから好きでいるけど。


「あと、翼も呼び捨てでいいだろ」

「そ、そうですかね?」

「おう」


 直接は怖いからまずはメッセージアプリを使用して実行してみよう。


「あ、どうしたのって聞かれてしまいました」

「はは、急に変わったらそうなるかもな」


 会うのが怖いからやっぱり夏休みが終わるまでは引きこもっていた方がいいのかもしれない。

 それを紅葉……が許可してくれるのかは分からないけど。


「肩を揉んでくれ、なんか疲れた」

「はい、分かりました」


 うーん、硬い……ようなそうではないような、お母さんのがちがちになっている状態のやつを揉んだことがあるからなんとも言えない感じだった。


「よし、礼として髪を結ってやる」

「本当に好きですね」

「ああ。好きだぞ、綺麗になっていくところを見るのがな」


 誰かにやってもらえるのはこちらとしても好きだから任せておくことにする。

 ……にしても、いい匂いだなこの人は。

 なんでだ? なんでそうなるんだろうか。


「まあ、後ろでまとめておくぐらいがいいよな」

「そうですね」


 気になるものは気になるからそれぐらいで留めておいてほしい。

 三編みとかでも可愛いかもしれないけど私ではちょっとね。


「プールに行こうぜ、人が多いのが嫌なら海でもいい」

「あ、今からですか?」

「今日でもいいし、もうちょい後でもいいぞ」

「それなら今日行きましょうか、明日からは課題を頑張ろうと決めていたので」


 少しずつやっていたけど一気に終わらせたいと思う。

 そこで彼や翼ちゃ……がいてくれたら捗るはずなんだ。

 ……もうどうせひとりでいるなんて彼のせいでできないんだから素直になろうと決めている。


「分かった、翼も誘って行くか」

「はい、行きましょう」


 せっかくの夏休みなんだから楽しまないと。

 それが今ならできる気がしたのだった。

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