新しい一箱

秋村 和霞

新しい一箱

 

 ラジオから流れる猫撫で声の甘ったるい音楽を聞きながら、人の道を踏み外しかねない危うい心持ちで電車が通り過ぎるのを待つ。


 このままアクセルを踏み込めば、私を巻き添えに隣に座る彼女を亡き者にできる。それは復讐心やニヒリズムから沸き上がる感情ではなく、ただ在るべき物を在るべき場所へ戻すような、自然な事のように思われた。


 しかし私にそんな度胸はなく、踏切の音が消えてから車を走らせる。道端に放置された、溶けたバイロンの赤さが妙に眩しくて網膜に焼き付く。


 アイドルの曲が終わり、代わりに週末のラジオ番組の宣伝が流れ始める。有名な語り手による怪談話が行われるらしい。


「ねえ。幽霊っていると思う?」


 彼女は無言の車内が気まずいから、というよりは本当にただ思いついた疑問を口にしたという様子で呟くように尋ねた。


「いないと思う」


「どうして?」


「君がいないと思ってるから」


 期待以上のつまらない回答に呆れたのか、深いため息が車内を満たす。


「じゃあ私が幽霊の存在を信じれば、あなたの答えも変わるわけ?」


「不確定な存在の有無は主観的な感情によって決定付けられる。つまり、君が幽霊の存在を信じれば、それは存在する事になる」


「気色悪い。令和にもなって即物的でない哲学者は流行らないわよ」


 私は会社の上司に向けるような、感情の介在しない笑い声を上げた。 


 

 雨に覆われた景色はアナログテレビのように荒い色彩で、何回も見ている同じ景色の記憶を、より一層美化させた。前に来たのは、彼女の命日だったはずだ。いや、去年の盆だっただろうか。

 

 人里を離れ、田舎道を走らせる。緩い坂道を上がった先に、重苦しい雰囲気の一角が見える。墓地だ。


 私は路傍に車を止め、エンジンを切る。


「着いたぞ」


 彼女は無言で車を降りる。私は後ろの座席に置いておいた黒い傘を取り、慌ててその後に続く。そして、彼女の元に追いつき傘をさす。


「別にこれぐらいの雨ならいいのに」


 二人で一つの傘の庇護下に入り、目的の墓石の前へと向かう。


「お久しぶり。元気にしていた?」


 目的の場所に着いた彼女は、墓石に向けて声をかける。ここに眠っているのは、彼女の姉であり、私の家庭教師だった人だ。


 既に亡くなっている方に向けて、元気にしていたか尋ねるのは、どうにも可笑しいように思われたが、姉に対し生きているかのように声をかける事が、彼女なりの向き合い方なのだろう。


 腰をかがめ、手を合わせる彼女を見下ろす。この細い首筋を絞めれば、彼女はあるべき場所へ帰せるのだろうか。


「さあ、随分間が空いちゃったけど、今回の分。楽しんでね」


 彼女は懐から新品の煙草の箱を取り出し、フィルムを剥がして中身を一本取り出し、線香立ての中に入れる。この場所に来る度に行っている儀式。彼女は毎回、愛煙家だった先生の気に入っていた煙草を、一本だけ供えている。


 私は肩に傘をかけ、手を合わせる。私の人生において、とても重要な人。恩師であり、姉のような存在であり、初恋の人。ともに過ごした時間は掛け替えのないものでも、長い時間の中で次第に風化してゆく。しかし、その姿見は色褪せることなく鮮明に覚えていた。


「行きましょうか」


 立ち上がって私に向き合って彼女が言う。傘という狭い空間の中、互いの息遣いを感じられる程の距離。


 私を上目遣いに見る彼女の姿は、この墓石の下で眠っているはずの先生と瓜二つだった。まるで、先生の幽霊がその場に立っているかのように思える。私の脳が不良を起こす。


 どうして貴方がここに居るのですか。

 どうして私にこんな悲しみを背負わせたのですか。

 貴方は私の事をどう思ってくれていたのですか。


「ああ、そうだな」


 感情を飲み込んで墓石の前を後にする。彼女は幽霊ではない。姉妹のなのだから、容姿が似るのは当然だ。


「そういえば、煙草。新品だったな」


「ええ。前のヤツは使い切ったわ。つまり、この場所に来たのは二十一回目って事ね」


 そうか。煙草は一箱二十本入り。毎回のお供えは一本だけ。つまり、新しい箱を開けたという事は、この場所を訪れたのは二十一回目という事か。前に来た時期ですら曖昧な私と違い、彼女はその一本一本を心に刻んでいるのだろう。


 私は車のカギを開け、中に入る。私も彼女も、傘をさしていたとはいえ肩をびっしょりと濡らしていた。


「この煙草も一箱二箱と増えていって、いつか数える事も忘れてしまうのでしょうね」


 その頃には、彼女と先生を見まがう事は無くなるだろうか。

 いや、そんな事は無い。二十一回まで同じことが起きたのだ。百回も千回も、きっと私は変わらないだろう。


 しかし、それは間違っている事だ。彼女の存在を死者に重ね合わせ、まるで生きている事が不自然のように感じてしまうのは、二十一回も死者に向き合った彼女に対する冒涜だ。


「なあ、来るときの話だけどさ」


「なに?」


 私は自らを律するように、言葉を紡いだ。


「やっぱり幽霊はいないと思う」

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新しい一箱 秋村 和霞 @nodoka_akimura

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