肆 (――あるいは、アシッド・ブラック・チェリー)


≪――永き世の遠のねぶりの皆目覚め、波のり船の音の良きかな――≫

 

 サカキが言うなら『マチ』、そしてヒイラギが言うなら『シティ』。その東部に控える、小さな港。

『外』の世界と地続きながらも、ロクに手入れもされていないそこは、言わばかつての港町の名残。

 しるべとして、闇の海を照らす灯台。漁から戻った船が着岸する、離れた波止場。廃れながらも、いちおう今も港町としてやっている外の町。


 湾を挟んで離れた空に、天へと伸びる建造物。

 通称、煙突山の大煙突。小山の上にそびえるソイツは外の世界のランドマーク。地続きで連なるそこが、かつて銅鉱製錬の地であったその名残。


 だとして、ここいらの連中はそれを『搭』と呼ぶ。

 

 頂へと登りつめし者はこの地を統べる王となるだろう――誰が言いだしたかも曖昧な口伝。こんな場所にはお似合いの、バカげた王様の伝説。言うなれば、バカバカしいまでの都市伝説。その象徴。


 雲が晴れ、満月が姿を現す。建造物の頂きへと。まるで塔に冠した宝飾のように。

 栄光を求めるのは老いも若きも男も女も、そして悪党だとて同じこと。

 いや――悪党だからこそに。なおさら高みを目指すのだ。やがて失速し、いつか墜落すると分かっていても。

 イカロスの翼にもなり得ない、サイバァな装具ギヤで着飾って。太陽を、月を目指すのだ。跳ねるのが関の山の――掃きだめの――虫には、けして辿り着けぬと承知の上で。

 それは童話の青い鳥を追いかけるようなもの――だから、ここでは誰もが都市伝説のてのひらの上で躍り続ける。

 

 数瞬だけ雲間から差した月明かり。ぼんやり照らされた都市伝説。ソイツが再び闇に隠されていく。闇雲のままで、闇雲に。


 三年前、港町を襲った大津波。それを機に、さして有用性もなく切って捨てられた港の一端は、今じゃあこぎな商売の一役を担う。良くも悪くも切り捨てられたはずの港は再活用リサイクル。それは悪党どもが手に入れた利益の循環サイクル

 港の管理を請け負うのは、刈り上げたショートヘアーがいかにも男勝りな女傑――通称、〝大渦ザ・メイルストロム〟のエンシノ。そして彼女が率いる『三叉ノ矛トライデント』。

 港のすぐ近くには、用途も不明な大小さまざまのコンテナが並ぶ。通称、コンテナ街。そこもまた三叉ノ矛トライデントの所有物。


〝死の猟犬〟の追走劇。真っ黒な獣毛ファーをなびかせながら。

 その優れた嗅覚をつく潮の香りも色濃くなる頃合い。まばらに立つ街路灯とコンテナのまにまに、目印には過ぎる黒の斑点が散った真紅のショートボブ――テントウムシの背中を捉える。


≪――赤裸々に、背キララ――≫


 視界の先のコンテナで折れる女の姿に、なおさらに加速。ヒイラギ。低空飛行のような姿勢を維持して突き進む。

 コンテナに挟まれた直線が途切れる。さながら断崖。底なしの暗黒にも似た。

 それは、漆黒の夜の一部と化したような海。凪いだその水面。


「詰み、だ。灰皿女ぁ」


 女が逃げ込んだ先。住み慣れて、見慣れたシティの地理。それを頭に浮かべて、口端を緩ませるヒイラギ。


 その先――行き止まり。


 指ぬきグローブに握られたナイフの柄にも、おのずと力が籠る。


 三方をコンテナと海に囲まれた文字通りの、詰み。かつての船着き場、その荷下ろしの区画。今も残るのは、造りかけの搭にも似たむき出しの鉄筋と崩れかけのコンクリート。まさしく廃墟。逃げる場所も、隠れる場所も――ない。


 ゆえにヒイラギは舌なめずり――獲物の喉笛を噛み千切る牙を研ぐかのごとく。


 完全なる『キープアウト』。今回はヒイラギの側の。

 

 だが、次の瞬間にヒイラギの顔に浮かんだのは焦燥。勢い勇んでコンテナを曲がりしな、青ざめる。突如向かえた光景に。

 

 断たれた退路――ゆえの余裕。つまりは油断。


 断たれた退路――と思わせた呼び水。つまりは誘い込むための罠。


 右ストレート、とは世辞にも呼べない轟音は――ショベルの一撃。ソイツをカウンター気味に。

 軽量級の体躯は容易く飛ばされ、したたかコンテナに背を打ち付けて。ヒイラギはズルリと落ちた。


「いひひ、バッカバッカ、バカで間抜けなクズ豚の末路ォー」


 ピクリとも動かないヒイラギ。歩みながら眺める女は愉悦にまみれて。ヒイラギの右手から零れ落ちたナイフを拾い上げる。

 腕には新たなる装飾、レース飾り付きのラバー製手袋グローブ――純白の花嫁ウェディングドレス風。純真無垢な纏いの内側で、ナナフシたちが毛細血管のように不規則に蠢く。

 女が見下ろす。テントウムシの毛先が零れる。はらと。そのまにまに歪んだ唇を震わせる。


「いひひ、ようやく『洗礼バプテスマ』を受けられるよ。彷徨える憐れなクズ豚ァ」


 純白の手袋グローブの中で身を強張らせるナナフシ。力の籠められた右手。項垂れた首筋に狙いを定めて、振り下ろすその刃先。


 と。


「――ちゃお」


 ヒイラギの左手が動く。弾かれたように。その反射、まるで早撃ちクイック・アンド・ドロウ。振り下ろすだけの女の所作を軽々と凌駕。

 まるで手品。左の指ぬきグローブの中に突如として現れたスイッチナイフ。そして飛び出した刃先。泡を食った女が飛び退った瞬間には、鈍色のナナフシ――最新鋭の筋力繊維――が切り裂かれる。


≪――虫が跳ねても、はねをむしるな――≫

 

 常人離れした跳躍。ヒイラギから距離を置いて女は着地。それを可能にしていた外装、左足の能力を失ったことに舌打ちしながら。

 糸が切れた人形の如き死にテイ。そこから瞬時にしての蘇生。左腕を伸ばしたままのヒイラギがゆっくりと立ち上がる。


「なんで動けるクズ豚ァ!」


 女の上げた声。

 それを探し求めてゴーグルは軽く左右に。そしてうはっと笑った。


「そんなモン、衝撃の瞬間に自分で飛んで衝撃を殺したからに決まってんだろぉが」


 真紅のひかれた唇。ぷっくりとしたそれを、なおさらに染める血の色。口端から流れる赤を、真っ赤なネイルの右手で擦るヒイラギ。


「強がり言ってんじゃねェ、いひひ、衝撃殺せてねェじゃねェか、バカが」


「うっせ、灰皿ぁ。どのみち関係ねーんだよ、オレのサイバァな肉体カラダにはよ。そんでテメーはブチ殺すからな。本当だったらほとばしるレーザーメスのエジキにしてやりてぇとこだが、仕方がねえ。オレがまだそこまでのサイバァ化を果たせてねぇことに感謝しながら、切り刻まれろッ」


 コートの内側を漁り、出てきたナイフをスイッチング。「ちゃお」右にもう一本のナイフを握りながら、ヒイラギは眺める。

 コンテナに囲まれた旧船着き場。断絶された退路にも、じりじりと後退する女。その背を照らすもの――漁火の如く燃え盛る炎。

 ドラム缶から上がる炎に、すべてはオレンジ色に満ち、揺れていた。


 タールのようにうねる波間が。


 骨組みだけの鉄筋が。


 そこからぶら下がる、巨大なかぎ針にも似たクレーンが。

 

 錆びたショベルカーが。

 

 そして、男の巨躯が――。


 クロツチの手下よりも上背の男。全身を包むのは、コートとは世辞にも呼べないズタズタの外套マント。こけた頬。伸びざらし、張り付いた黒髪から覗く、それよりも色濃い闇のような双眸――


「――〝墓堀人アンダーテイカー〟見っけ」

 

 弾む声を置き去りに、駆けだすヒイラギ。


 同時に、女がドラム缶に両手を突っ込む。クルリと一回転した女。その両手。指と指の間に挟まれた刻印棒。先端の刻印に灼熱を点した本数は――六。

 鉄製のそれを容易く持ち上げる。鉤爪と呼ぶにはおよそ不格好に。構えて。女は「いひひ」と地を蹴る。失われた機動性、だが膂力りょりょくはいまだ維持する最新鋭兵装サイバーギミック


 離れて立つ灯台の灯りが横断。束の間、闇夜を切り裂く中――口元を歪めた両者が、真っ向からぶつかる。


 金属音。


 火花。


 その明滅。


 手数で押され始めた女が後退バックステップ。と、瞬間的な思わせぶりに、右足に残った出力ブースターを開放。跳躍。追撃のヒイラギを飛び越えて、その後ろを取る。

 頭から落下していくそのまにま、十字に組んだ刻印棒――六の灼熱。


「エイメェン」


 執行の時。


 しかしそれは容易く防がれる。反転したヒイラギは、たかだか二本のナイフで女の裁きを絡み取る。


 左右に三本ずつ、合計六本の刻印棒。だとして、それを繰りだすのは二本の手。女の手の間近、生え出た刻印棒の根元を制圧したヒイラギ。

 なおかつ女を力づくに持ち上げた上で、刻印の十字を引きちぎる。潜在能力までも完全に操作スナークされた肉体、ソイツを完全に掌握コントロール最新鋭兵装サイバーギミックの怪力を凌駕するヒイラギの剛力。トリガラみたいな腕のくせして。


 落下の速度はコンマ数秒遅らせられる。女。真っ逆さまの姿勢のままで、わずかに顔に恐れが浮かぶ。

 愉しげに眺めたヒイラギは、うはっと声を上げて、ゴーグルをめり込ませた。

 声にならない呻き。ぐしゃという音――潰れた鼻。愚者というさま――女は後頭部から地面に叩きつけられる。


 バラバラに弾け飛んだ刻印棒。ヒイラギは宙で一本を器用に掴んで。間髪入れずに女へと棒の先端、いまだ熱せられたままの灼熱を――


「豚はおまえだったなぁ」

 

 ――伸ばす。後頭部から沈んだ女、そのだらしなく広げられた両足の付け根、レオタードの鋭角へと。白百合の受粉にも似た一連の所作。


 だが。


 その間際でヒイラギはそれを放り投げた。


 音も無く忍び寄っていた巨躯。ズタズタの外套マントは灼熱を苦も無く弾いて。


 しかしその時には、既に緊急離脱しているヒイラギ。脱兎のごとく。切った張ったの最中に、恰好なんて二の次、三の次。


 しばしの距離に、幾許かの休息。ヒイラギは構えを直し、〝墓堀人アンダーテイカー〟は落ち窪んだ眼窩に感情もなく。

 それでも巨躯は女の身を案じるように、膝をついた。だか女は怒り心頭。振り払うように外套マントを弾く。

 最初ハナから〝墓堀人アンダーテイカー〟のことなど眼中にないように。女。憎悪の言葉を吐きながら、もたもたと起き上がる。

 止め処なく鼻から溢れる赤。それでも一本ずつ左右に刻印棒を握って、女は巨躯の隣へと立つ。


 左右のナイフを腹ペコばりに叩き鳴らしながら、軽く跳ねる。ヒイラギ。準備運動の終了は唐突に。前触れもなく飛び出して、第三ラウンドのゴングを鳴らす。

 

 怒号と絶叫。混じりあった女の声。正面からぶつかる。

 だが三つめの金属音と共に女の体が傾ぐ。明らかな反射速度の劣化。女はもはやヒイラギの速度に追いつけない。真っ白なレオタードに深々と。突き刺さるショートブーツの踵。


 辛うじて支えるのはプライド。女。白目を剥きつつ、頬を風船のように膨らませ、小鹿の足取りにも、なおダウンは固辞。

 が、戦えないことは一目瞭然。眼前に迫るナイフを十字で防いだまでが最後の足掻き。


 防がれた――という感触もあるなしの刹那。既に刃の軌道は修正済み。やすやすと女の両手の甲をナイフで貫いて、ヒイラギはうはっと笑う。

 コンマ一秒。離した右手を力任せに振り下ろす。風を切るピッチャーフォームにも似たその衝撃。弾いた掌。撃鉄のように叩かれたナイフは信管で――女の額で、炸裂。


 額からは赤色を水鉄砲のように。口からは胃液を噴水のように。撒き散らしつつ、女は場外でくずおれる。


 それを選手交代の合図のように、〝墓堀人アンダーテイカー〟がリングイン。圧倒する巨躯。


 しかしヒイラギは動じもせず。宙を薙いだ外套をかわし楽々と懐に迫る。その時にはスイッチング。「ちゃお」すでに右手で光る新たな刃。振り上げる。


 縦に裂かれる外套マントの胸元。だが、巨躯はヒイラギの追撃をかわす素振りも見せずに、やや体を斜めに落としただけ。後退なぞ微塵も考えていないという風に。


「いぃーい心がけだぜ、インファイトにこだわるのはよ。でっもー、その左手はもらい、だけどなッ」


 後を引いて消えるヒイラギの言葉。その頃には響き終える金属音。その数、七。上半身を八の字に回転しながらの左右の連撃。ほくそ笑むヒイラギ、とその時になって。


「て、なんで金属音?」


 ナイフに切り裂かれた外套マントが宙で散る。そしてヒイラギがもらった、と早合点した左手が突き出される。轟音にはお似合いの重量で。


 バク転であわや逃れたヒイラギは、


「あっちじゃなかったのかよ」


 錆びたショベルカーをちらと見つつ、着地。その後で上げる驚嘆の声。


「うわ、サイバァ」


 上半身を露わにした〝墓堀人アンダーテイカー〟の両手には――一対のショベル。フォーク状をしたくちばしグラップル

 長い手足にイビツな筋肉の発達。逆三角形のような体に巻き付くのは、使途も用途も不明なケーブル。

 無論、改造人間なんてお門違い。パワードスーツにしちゃ不出来すぎる。さながら双椀式の油圧ショベル、そのイカシタ擬人化コスプレ。

 それは重量をひとえに、ただの筋力で持ち上げているだけの。よく言うなら自分との戦い。そうでなければ、ただの痩せ我慢。


 だが、だからこそに――


「――あんた、サイバァだぜ」


 感動に満ちた言葉を紡ぐ。


「ならオレも、このままでってわけにはいかねーよな」


 モッズコートを脱ぎ捨てるヒイラギ。

 漆黒の獣毛ファー、だがそれは温い風になびくことなく地に沈む。無数の金属同士が重なる音と共に。

 ズタズタのタンクトップ。肘まで覆ったバンテージ。曝された肢体は死体にも似た――トリガラみたいなカラダが露わになる。


 そして。


 ゴーグルを外した。


 橙の明滅に照らされるヒイラギの素顔。短い眉と、吊り上がりぎみの瞳。透き通る青色アイス・ブルーをした双眸は次第に変化していく。

 やがてその双眸に宿ったのは、彼女のルージュ以上の真紅。そこにふたつの文字が浮かび上がる。


 右の瞳に――UTOPIA


 左の瞳に――DYSTOPIA


 理想郷と暗黒郷。その狭間に立つ存在。

 それすなわち、分け隔てなくすべての者に『必然』を与える存在。

 黒い毛をなびかせ、赤き瞳を輝かせる――死の犬ブラックシャック。顕現せしそれを迎えるように、遠くの空で野犬の遠吠えが響く。


 そして〝墓堀人アンダーテイカー〟が感嘆の声を上げる。


「……サイバァ」


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