第16話

 私は懸命に、私以外の誰かに手を伸ばそうとしていた。今、手が届く距離にいる誰かは一人しかいない。この手をとってくれる可能性があるのも、その一人だけだ。

 でもあの人はもう、私の日常には存在しない。あの人と連絡をとることは、私のなすべき習慣の中に入らない。今、私があの人に会いたいと思ったら、本来あるべき生活の流れを組み替えなくてはいけない。

 私の日常の中にいない人に、私の不具合を伝えても、相手の負担になるだけだ。非日常の中で前向きな希望を見つけても、単調な日常があっという間にそれを掻き消してしまう。非日常を日常に繋ぎとめる手段は、記憶しかない。私は束の間見えた光の色を懸命に思い出して、それに縋って、それだけを糧にして進まなければならない。

 そんなことが私にできるだろうか。

 しようとしたじゃないか。最後に会った日に。

 前向きに頑張ろうと思った気持ちも、与えられた言葉も全て、日常という膨大な量の時間に押し潰されてしまった。これじゃああの人だって報われないだろう。私が前に進めるように、今までどれだけたくさんのことをしてくれたか。

 こんなくだらない喜劇に、これ以上あの人を付き合わせてはいけない。この手を離してあげなくては。私のいない日常で、幸せに生きてほしい。それは本当に本心だった。

 何かあった時にあの人を思い出すような回路は、断ち切らなくてはいけない。ひとりでちゃんと決めないといけない。どんな結論でもいいから、ひとりで出さないといけない。

 だから例えば、拒絶をくれたら。

「もうお前なんか知らない」

 その一言を聞けたら、私は一人で生きられる。全てを諦める勇気をもらえる。ずっと鳥籠の中で生きるなら、ひとりで充分だ。外で生きようと思ったら、ひとりじゃとても難しいけれど。


 予備校という、あくまでも受験勉強を中心においた環境で、この状況を改善するのは難しい。今の私が新しい人間関係を築くのは受験勉強よりはるかに重労働だ。勉強のように何をすればいいのかが明白ではない。その中で私は、泥水を啜ってでも変わらなければならない。

 きっとほかの事など手につかなくなるだろう。私の最大の義務であるはずの受験勉強ができなくなる。受験勉強に力を注ぐなら人間関係は希薄なものにせざるを得ない。予備校の大半の人間がそう思っているだろう。

 だが私は彼らのように健やかでない。勉強と平穏な人間関係。それを両立しようとしてどちらも失くしかけたのが一年前だ。

 二兎を追うもの一兎をも得ず。一兎すら追えない私が何を言っているのか。どうしようもない。どうにもならない。

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