第15話



 私が初めて予備校の職員室の扉を開いたとき、そこにいる講師は皆一様に暗い顔をしていた。毎年受験生の世話をしなくてはいけないのだから大変だろう。毎日授業の準備をして、授業をして、生徒の質問に答えて、事務的なこともこなさなければならない。それが仕事。そこまでが仕事。裏を返せばそれ以上のことはしなくていい。しなかったからといって給料が減るわけでもないし、誰かから責められることもないだろう。だからそれ以上をするかしないかは、各自が決めること。予備校の講師には、それ以上の部分で生徒に関わる理由も余裕も必要もない。


 説明会のとき、すなわちその予備校に入学金を振り込む前、彼らはとても愛想がよかった。明るいイメージとか、予備校生一人ひとりに丁寧に対応していることをことさらアピールしているように見えた。だが入学後の講師の印象はその時と大きく違った。だから私は戸惑った。社会とはそういうものだと理解した。講師は皆、とにかく色々と、手いっぱいなふうに見えた。これ以上面倒なことはお断り。立ち入らないし、立ち入らせないという壁が見えた。それに、よりにもよって私のような面倒な生徒にかまって、優秀な生徒へのケアがおろそかになったら、それこそやりきれないだろう。だから、講師に頼ることは出来ない。


 その時私は自分の高校生活がいかに恵まれたものだったか、再確認した。あの学校にはちゃんと、いつも、私の席があった。私の居場所は、なにもしなくてもそこにあった。私は幸せだった。恵まれていた。なぜそれに気づけなかったのだろう。

 高校を卒業したら、色んなことを一人で処理していかなくてはいけない。その覚悟が足りなかった。だからその事実に気づいて、思い知らされ、立ち上がる気力すら失った。


 私の日常で起こることは、私の日常の中で解決しなくてはならない。誰かに助けを求めるなら、その中にいる人間でなくてはいけない。そうでなくては現状の解決にならないからだ。それがあるべき社会の形だろう。

 間違いなく確実に、私には友達、いや、誰でもいいから、を渡せる存在が必要だった。なのに、私はその事実に目を背けて自分の力を過信し、ひとりでも大丈夫だと思い込んだ。

 たとえ相手の負担になろうと、私がいないところで存在を疎ましがられても、一緒にいることを受け入れてくれる誰かを見つけること。そして今度は頑張って、少しずつでいいから私の鍵を渡してみること。もしかしたら誰か一人くらい、受け取ってくれる人間がいるかもしれない。今まで友人関係に負担が大きかったのなら、これからは負担の少ない関係を作るようにすればよかった。

 私が高校生活から学ばねばならなかったのは、何よりこのことだったのに。

 気づくのが遅すぎた。それに、いざとなったらそんな勇気はないだろう。やり方がわからない。失敗したら私は高校一年の時のようになる。嘲笑される。いずれにせよもう遅い。

 講師に精神病だと話してしまった以上、彼らは私を極力刺激しないように努めるだろう。予備校を連日休んでも、来いとは絶対に言わない。小学校や、中学校の時の教師と同じ。「無理はしないように。自分が出来る範囲でなるべく」と、同じことを繰り返す。「学校に来てくれたら嬉しいけど、自分がしてあげられることは少ないし、無理に来させてもつらいだろうし、本人しだいだな」と思うのが当然だ。私を叱ることは絶対にない。説得することもない。そんなところに労力はかけない。あの子はそういう病気なのだから仕方ないと、。それが社会の、こういう人間に対する当然の対応だ。


 誰もいなくなってしまったのではない。私が全ての人を拒絶したのだ。ひとりになるのは当然だった。

 それを望んだのではなかったのか。

 なぜ今になって、こんなことに気づいてしまった? 気づかなければ、少なくとも被害妄想に浸る猶予が与えられたのに。

 完全に自業自得。中学生のときから、私は何も変わっていない。自分が招いたことで自分が苦しんで、それをなんとか上手い言い訳をつけてほかのもののせいにしようとする。そうまでして自分を守りたいか。ならば勝手にすればいい。他人を巻き込まず、ひとりで後悔に塗りつぶされた人生を送ればいい。

 なぜ他人を拒絶しておいて他人を求める。

 矛盾しているのは社会ではない。何よりも私の意志と行動が矛盾している。

 誰も必要ないなら誰も求めてはいけない。誰の助けも借りず、誰にも頼らず、ひとりで生きなくてはいけない。

 それがいやなら、誰かが必要なら、自分から見つけにいかないといけない。見つけられた誰かにたとえ嫌われようが裏切られようが、決して人間そのものを拒絶してはいけない。欲しいものがあるなら、必ずそれに見合うリスクを背負わなくてはいけない。その覚悟がある人に、世界は優しい色を見せるのだろう。


 どちらも選ばずに都合のいい時だけ人を求めるなんて、あまりにも自分勝手だ。社会は何よりも自分勝手な人間を嫌う。そんな私に救済を望む権利などはじめからなかった。

 権利はない。許されない。それでもこの気持ちは消えない。まぶしい陽射しには目が眩むと言ったくせに、暗闇の中では性懲りもなく光を探している。浮上したところでまた突き落とされるとわかっていても。望まずにはいられない衝動。鳥籠の中で私が生きながらえてしまう理由だった。

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