第14話

 夕方頃、母からメールが届いた。「今日は夕食を食べにきてください。話があります」。私は彼らの食卓へ向かった。




 父と兄がテーブルに座っていた。「お母さんは?」と聞くと、今ちょうど帰ってきたくらいだと兄がいった。母はまもなくあらわれた。なにか怒っているような態度だった。「来いって言われたから来た」と言うと、母は目で見てわかるくらいはっきりと怒った。

「夕食は食べに来るのが当たり前でしょう。それなのに電話もしないで。予備校から連絡が来ている以上、親にも関係があるのだから、ちゃんとしなさい」

 私はいったん席に着いた。母は私に「もう辞めたら?」と言った。「あわないなら仕方ないんだから」。

「それが正しいとは思わない」

 私は答えた。

「あなたの様子を見る限りでは行けません。今までのことがあるからわかる」

 ああ、怒ったら駄目なんだったねと、母は兄に言った。この二日の間に私のことについて兄と何か話したのだろう。

 私はシーソーのごとく不安定な精神状態にあったため、その程度の会話ですら目の奥が痛くなった。

 これからどうするつもりなのかと聞かれ「高校とは違うのだから休んでも単位を失うわけではないし、休みながらでも行けそうなときには行くようにしたい」と言った。

「でも」と母は言う。

「じゃああなたは予備校にどうしても行きたいの? そうじゃないでしょう? 行きたいのなら行けているはずだもの。つらくないはずだもの。つらいということは、いやなんじゃないの? 本当は」

「行きたくて予備校に通っている浪人生などまれだと思う」と返す。

「受験することが目的なら、無理に合わない予備校にこだわらなくてもいいんじゃないの?」

「予備校を辞めることが正しい選択だとは思えない」私は繰り返す。

「お金のことを気にしているの?」

 このあたりで父が私を庇った。

「本人がそう言っているのだから、もうそれでいい。お前はどうしてもこの子に予備校を辞めさせたいのか?」

「本心で言っているようには見えないんだもの。こんな、夕食もまともに食べられないような状態で無理に行かれても、こっちは嬉しくない」

 父に言われ、母はますます感情的になった。

 夕食を食べにこなかったのは食欲がなかったのではなく、こういう会話をするのがいやだったからだと私は言った。

「親とは話さないといけないでしょう!」

 やっぱり駄目、どうしても怒ってしまう。母はまた兄に言った。

 母は明らかに冷静さを欠いていた。当然私も冷静ではなかったが、冷静であるように努めることはした。母は私に同じような話を幾度も繰り返した。

「逃げるのは悪いことじゃない。ほかの方法も探せばいいじゃない」

 おかあさん。

 お母さん。私は、逃げられないと思っているんじゃない。逃げちゃダメだと思っているわけでもない。ただ。

 逃げたくないと思っているんです。

「たった一日しか行ってない状況で、すぐ辞めるとか決めるのは早いと思う」

 私が反論すると母は声を荒げた。

「でも今、実際に行けていないじゃない!」

 父は母をいさめた。

「本人が言っているからもういいだろう。お前はなんでそれを覆そうとするんだ」

 かなりきつい言い方だった。

 それをきっかけに、父と母はしばし言い争った。兄がそれを止めるまで。

 この状況の原因は私なのだなあと思った。もういい。言うべきことは言ったし、帰ろう。コップを片付け「もう帰る」と告げた私に、母は言った。

「お父さんは私にこんなことを言うの。お前は出勤してしまえば家のことは何も知らずにいられるが、自分は自営業でずっと家にいるから、ずっと心配しなくちゃいけなくてつらいって。そういうことを言われると責められている気がして、お母さん、すごくつらい」

 絶句した。

「それを言う必要は、あった?」

 そう言い残し、答えを聞かないまま私は帰った。

 あらゆる矛盾と怒りは全て自己嫌悪に収束される。安全な部屋の中で、狂気のごとく笑ったり泣いたりしながら、私の行動がここまで両親に影響してしまうことに気持ちが悪くなった。

 兄が私の部屋の前まで追って来て、なぜか謝った。

「俺は母づたいにお前の様子を聞いていたから、平等な意見を言うことができなかった。あの場の空気を煽ったのは自分だ。ごめん」

 兄は何も関係ない。しいて言うなら、そうやってなんでも自分のせいにして謝ってしまうところが好きじゃない。負担だ。でもそんなこと言えるわけがない。血を分けたたった一人の兄弟だから。私は扉を隔てた兄に向けて「大丈夫」と繰り返した。




 結局、私の行動で全てが決まるのだ。私が苦しんでいると両親が心配する。心配した両親が苦しむ。それを見て兄や祖母も不安になる。その事実に私は吐き気がする。元をたどれば私のせいになるからだ。

 両親はなんとか私の問題を解決しようと、助言や行動をおこす。それが何より私の負担になる。彼らの助言、彼らとの会話で、私は精神の均衡を崩す。二次被害とでもいおうか。苦痛がさらなる苦痛を招く。ならば根源をつぶさなければならない。

 私が幸せそうにしているしかない。嘘をつく。自分を偽る。得意なことだろう、きっと。

 そして、私はこの部屋以外の居場所を失った。家族の前でも自分を偽らねばならない。痛みを隠さなくてはいけない。私の新たな日常の中に、これを晒すことのできる人間は、誰一人存在しなくなった。

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