第9話
そして、その日の授業は終わった。週を通して、五時間目に授業はない。昼休みが十分長引いたために、帰宅の電車まで時間がなかった。すみやかに荷物をまとめ、階段を下りる。
校舎を出ると、街は薄暗い灰色に染まっていた。重い雲が太陽を隠している。朝あれだけ晴れていたのに。信号を待つ間に、空と同じ灰色の建物から次々と人が吐き出されてきた。自転車のタイヤがからからと回る音が、遠くで響いた雷鳴に重なる。電車の時刻のこともあるが、時おり頬にあたる雫がさらに私の足を速くさせた。まさか来たときよりも速く歩くことになるとは思わなかった。
駅には帰路に着く人が多数いた。
紺色のセーラー服を着た少女を見ると、自分はもう彼女たちと同類ではないのだと
実感した。失くしてから気付くもの。かつての自分にも確かにあった、何か。それがなんなのか、上手くあらわす言葉はどこにもないのに。
私は急いで改札を抜けた。これだけ広い駅舎のくせに、なぜひとつも自動改札がないのだろう。階段を上りホームへ出ると、軽く息があがっていた。
予想できたことだが、ホームには長い列ができていた。帰宅ラッシュの時間。私が列の最後尾にならんで間もなく、列車は到着した。
「この列車は二両編成で運行します」
駅員の声が聞こえた。私が乗り込んだ後にも、続々と人が入ってくる。
「つめてください。もっと奥にお進みください」
駅員がホームに立って声をあげる。石川県にも満員電車は存在するのだと変に感心した。大きな荷物を肩に下げていると当然邪魔になる人口密度だ。私は鞄を下ろし、床に置いた。
重い音をたてて、列車は動き出した。
その日に限って私は本も音楽プレーヤーも持ってきていなかった。若い人間が電車やバスに乗っているとき、何かしら時間をつぶす行動をしていないと不自然だということを、私は高校のときに学んでいた。窓の外を眺めるのは、せいぜいで座っている人間に容認されることだ。いつもならば私は携帯電話を開いていただろう。メールなど誰からも来るはずがないし、わざわざ携帯で調べたい情報もない。ただ携帯電話を開いて、何かしているふりをするのが常識だと思うからするだけ。しかし、画面の右端にうつるアイコンは、携帯電話の充電があとわずかであることを示していた。おまけに私は優先席の前に立っていた。ちょうど、アナウンスがかかる。
「優先席付近での携帯電話のご使用は……」
「電源をお切りください」
「ほかのお客様のご迷惑に……」
「おひかえください」
断片的な情報。
私は窓の外を眺めることにした。自分の顔が、何も表情を浮かべないと他人には不機嫌だととられることを知っている。それが、何か行動をしていればある程度ごまかせるということも。
でも、だから、なんだというのだ。その時の私はとても疲れていて、自分を取り繕う気すら起きなかった。肉体の疲労もさることながら、精神が重い。睡魔とはちがう、ただ何も出来なくなりそうな黒い波が押し寄せてくる。
左隣に立っていた女子高生は、携帯電話を開いていた。髪の隙間から覗く耳には、白いイヤホンが入っている。私の右隣に立つ若い女性はおそらく学生で、大きなリュックを背負っていた。彼女もまた携帯電話を開いていた。「優先席付近での携帯電話のご使用は」ノイズ交じりの駅員の声が頭の中で繰り返し流れる。あの声が聞こえていたのは私だけだったのか。いや、自分だって充電がわずかでなければ彼女たちと同じ行動をしただろう。車両の中の果たして何割の人間が携帯電話を開いていたか。それを咎めるような空気はどこからも漏れていなかった。では駅員によるあのアナウンスにはなんの意味がある?
矛盾しているがこれが常識というものなのだろう。正しいのは周りの人たちだ。何もせずにただ突っ立っているだけの私のほうが、異質。論理的な思考力が低迷した私は、この矛盾に苛立ちを覚えた。ぼんやりと、しだいに闇に染まっていく景色を見ながら。
各駅に止まるごとに、車両には学生が増えていった。それにつれて車内の音も大きくなった。姦しい会話が聞こえる。女子高生の声。ここに居ない誰かの話をしていた。
「三人以上で居るときはぁ、なんかフツーに、騒ぐ感じの子なのに、二人になると全然喋らない。急にだまるよね」
「うん」
「そうだ、聞いて! この前もさあ」
少女は急に声を高くして、話題に上っている誰かの口調を真似た。笑いがおこる。
「似てるう。きゃはははは」
「あの子はなんか……なんかなぁって、感じだよね」
「うーん」
「はあ、おなかすいたあ」
彼女たちはとても楽しそうだった。暗くなっていく車窓の風景に情緒なんてものを感じてしまう状態の私は、幸福そうな人間が煩わしくてしかたない。それとも声が聞こえるだけで、本当は誰もいないのか。
その車両の中には、同じ予備校の生徒もいた。狭苦しい中、小さな参考書を開いている。熱心なことだ。私とちがって。
日が沈み暗くなるにつれ、車両内の像が窓に反射して見えるようになった。透き通った私の像と重なるように、町の灯りがちらつく。これから毎日この電車に乗って、この風景を眺めるのだ。一年間、ずっと。
K駅を過ぎると乗客はかなり減って、声もほとんど聞こえなくなった。最寄り駅に着いて改札を出ると、本格的に雨が降っていた。気温も下がって、かなり肌寒い。バスを待つ間に雨は激しさを増した。バス停の脇のベンチに、制服の違う二人の女子高生が腰かけていた。私は彼女たちと同じバスに乗った。
雨音が小さくなり、彼女たちの会話が耳に届くようになった。別々の高校に進学した友達という関係らしく、互いの新しい環境について感想を述べていた。
「うちの学校、授業が七限目まであってさあ」
「ふうん、大変だね。あたし絶対やだぁ」
「しかも授業のたびに点呼とるの。高校だよ? ありえなくない?」
「えー。小学生みたいだね」
「そう、マジで面倒くさい。馬鹿みたい」
ああ、そうか。なるほど。
制服を見て納得した。誇らしき我が母校の新入生ではないか。世界は中途半端に狭い。全てが予定調和かと思うほど、よく出来た話。
なぜ今日。なぜ今。
聞きたくなかった。見たくなかった。もう自分は高校生ではないという事実を、これ以上痛感したくなかった。
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