第8話

 三時間目の授業を受ける教室は四階にあった。私が上る階段を、二、三人の女生徒たちが笑いながら下りていく。一階にある自販機で飲み物でも買うのだろう。


 教室にはまだ昼食をとっている生徒が大勢いた。なんとか後ろのほうに席を見つけ荷物をおろしたが、授業が始まるまでにはまだ三十分もあった。ここでずっと座っていることはとても出来ない。人が多すぎる。それだけで眩暈がしそうだ。私は目に付いた参考書とシャープペンシルを片手に教室を出た。

 職員室へ行こう。

 生徒ではない立場の人ならば、少しは気楽に接することができるかもしれない。何よりも今は、昼休みの時間をつぶすことが最優先だ。




 職員室の扉を開くと中は薄暗く、机や棚が窮屈に収められていて、とても狭く見えた。さすがに浪人生が集う場所だけあって、一日を通して質問に来る生徒の数は相当なものだろう。私が訪ねたのは授業初日だったため、室内にいた生徒はほかに一人だけだった。

 一番手前の机に座っていた講師は英語の担当で、私はわからないままにしておいてもなんの差し支えもないような質問をした。温厚そうな印象の講師で、先月の説明会のとき、微笑みながら私にテキストのサンプルを見せてくれたのを覚えている。

 講師は突然の質問に、というよりは初対面に等しい私の存在に戸惑いながら、ぎこちない返答をくれた。的確で、無駄のない簡素な回答。私のとってつけたような用事は、ものの三分たらずで終了した。

 私はあらかじめ用意しておいた些細な疑問を手当たりしだい口にした。それは主に授業の予習と、ノートのとり方についての質問に集約され、英語の講師は上手くまとめて答えてくれた。

 私は納得を示す言葉をあれこれ工夫して述べながら、ひとつの話題に手を出した。この前まで私の担任だった高校教師から聞いた話では、この予備校には彼の知る講師がいるらしい。私の目の前にいる英語の講師は、入学式で教頭だと紹介されていたから、校内の人事は把握しているだろう。ちょうどいい。

 事情を話すと、何人か名前をあげてくれたが、聞いていた名前はなかった。最終的に「去年まではいたのだが」という言葉が結論になった。これ以上思いつく話題もなく、私は笑顔で礼を言って退室した。


 見えないほど細い針。指でつかむことも難しいそれを、私は手に入れた。

 職員室の中であったわずか数分の出来事で、私の過剰な想像力は大いに刺激された。

 かつての担任が教えてくれた人間は、予備校に存在しなかった。

 いくら私が脆弱とはいえ、この事実だけで嘆くほどの余裕はない。コップ一杯の水にほんの一滴、絵の具を薄く溶かした液体が落ちた程度のこと。

 ただ、いやな予感がした。

 絵の具を含んだ水は、たった一滴。コップの中をぐるりとかき混ぜれば見えなくなる。コップの水は限りなく透明に近いままで、一見なにも変わらぬ姿をさらしている。しかし、拡散されて見えなくなったところで、絵の具の成分は確実に存在する。かき混ぜることで全体に散らばって、もう二度と取り除くことはできない。次の一滴が落とされても水の色は変わらないだろう。ただ確実に、絵の具の質量は増えていく。ゆっくりと、ただの水は水でなくなっていく。色が変わったと思う頃にはもう、最初の一滴がどの程度それに影響しているかわからない。

 色が変わる瞬間がいつになるのか。

 心に霞がかかる。

 水を入れ替えることが出来れば。

 あるいは、コップをバケツや大きな水槽に変えることが出来れば、色は変わらない。それができればいい。この日常の中で。




 ここで、私の想像は一旦中断される。チャイムが響き、私が受けるべき最初の授業が始まった。予想通りその内容の半分は授業の概要説明だった。残りの時間で、古文の読解問題の解説と解答があった。第一講ということもあり、内容は予習で充分把握できていた。

 九十分は長い。座りっぱなしで体が痛くなるくらいには長かった。

 続けて同じ教室で英文法の授業があるから、席を動かない。二つ前の席に座っている女生徒は、固まった肩をほぐすようにぐっと腕を伸ばした。栗色の髪が背中で不規則に揺れる。あまり丁寧ではないが、アイロンで巻いたあとがある。後姿だけで顔は見えないから可愛いかどうかはわからないが、姿勢や足首の形から推測するに「タイプじゃないなあ」と下賎なことを考える。疲労が蓄積され、思考が荒みはじめていた。

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