第6話
昨夜念入りに選んだ服を着て、慣れないながらもワックスで髪を整える。あまり変わらない。寝癖がましになる程度。父が卒業祝いに買ってくれた腕時計を巻いて、参考書が入った鞄を肩にかける。予想以上の重さに、気持ちまで重くなる。階段を駆け下り、居間の扉を開くと、父と祖母と従兄弟がいた。
おはよう。
呆れるほど暗い声で言うと、爽やかな返事がぼんやり聞こえた。義務的に朝食をとる。父は私の隣で新聞を読んでいる。従兄弟は教育番組を見ている。祖母は台所で忙しく立ち回っている。一日の始まりは、高校三年間と変わらない。私が、いやでたまらなかった朝の光景と、何ひとつ変わらない。私を気づかう、妙に明るい父の声。祖母の言いつけで騒がないようおとなしくあそぶ従兄弟の声。シンクを叩く水の音。全てが不自然だった。何よりもそう、その場にいる私の存在が不自然。
家を出ると、歩いて三十秒程度の場所にバス停がある。先日買ったばかりの定期を見せる。駅の売店で昼食用の、なるべく質量の少ないパンを買って、ホームで電車を待つ。高校生が乗るには遅い電車で、ホームに立っているのは会社員か、学生らしき私服の男女だけだった。授業の初日にもかかわらず、電車は十分ほど遅れていた。十分程度なら問題はない。駅についてから少し速く歩くことになるだけだ。
通勤ラッシュをすぎた電車内は適度に空いていて、座ることが出来た。車内改装でむしろ勝手が悪くなったのではと思われる座席配置。隣に座ったのは、同じ予備校の生徒だった。小奇麗な服を着た、おそらくは可愛らしい女性。当然、その時は同じ予備校生だと気づかなかった。
眩しい春の光の中走り出した列車の中で、私は二日かけてつくり上げた新たな計画表に基づき、勉強することにした。移動の時間を有効に使うようにと、父にも言われていた。私立文系コースにもかかわらず膨大な数になった参考書をなんとか六月中に全て消化するために、かつ以前のように負担が大きすぎないように、綿密に計算された完璧な計画表だった。私は車内で英語の参考書を眺めた。発音、アクセントといった、読むだけである程度理解できる分野だ。勉強しようという気などさらさらなかった。ただ、決めた計画に従うだけ。ろくに頭に入らないのは承知していた。本当はたまっていた文庫本を読みたいと思っていたが、実行にうつす気もないため、持ってきていなかった。
電車を降りると、速やかに予備校へ向かった。結局ヒールのある靴は足が痛くなってしまうので却下し、いつも通り履いたスニーカーのおかげで、上手に早歩きができた。
とてもよく晴れた日で、白い光は街をきらきらと照らした。本当の都市部ほど完成されていない、田舎が目一杯背伸びしたような街並み。ビルとビルの間がすかすかとあいているから、容易に空の広さを感じることができる。都市部に暮らし、雑多な風景に嫌気がさしているような人には理想的な場所なのかもしれないと、信号待ちの交差点で思う。交差点を渡ってしばらく歩けば、もう予備校が見える。
かつかつと、後ろから高いヒールの足音が聞こえた。それなりの速さで歩いていたにもかかわらず、私は白いミュールを履いたその女学生に追い抜かれた。あんなに細いヒールでも、慣れれば速くあるけるのか。彼女も、つい最近までは固い生地の制服をきてローファーでぺたぺた歩いていただろうに。足音高く目的地へ急ぐ彼女の姿は、やっとただ子どもでなくなっただけの人間が懸命に大人になろうとしているように見えて、私は不遜にも彼女を痛々しく思った。
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