アプリのミセス
久我 風人
アプリで出会った彼女
「あーあ、こんなところで何やってんだろね」
そんな事を呟きながら壁にもたれ、手に持った文庫本に目を落とした。これが僕の人との待ち合わせをするときのスタイルである。もう二十分間こうしている。人を待たせるのは性に合わない。時計を見ると約束の時刻まで十分はある。早く着き過ぎた。
「メールで約束はしたけど来るかな?」
また本に目を向ける。文字を追い始めたが直ぐに顔を上げてしまった。落ち着かない。読書に集中できないのだ。初めて会う人と待ち合わせをしている時に本に集中するのもどうかと思うが。
ここはとあるホテルのロビーである。多くの旅行者が行き交っており、フロントマンは観光客やビジネスマンに対応している。その前には旅行者のものと思われる大きなキャリーバッグが何個も整然と並べられている。それをポーターが台車にこれまた整然と載せてどこかに運んでいった。あちらの柱の前にいるは、辺りを見回す人待ち顔のジャケット姿の男性だ。そこへ手を小さく振りながら女性が走り寄って来た。男性は笑ってそれに応えている。少し話していたが、二人してフロアのエレベータの方へ歩き出した。
「デートか?女性が来ればオレも他人から見ればあんな風に見えるのかもしれないな」
そんな人々を見ながら、見慣れたホテルの風景なのに居心地悪さを感じた。
僕が待っているのは、マッチングアプリで知り合った女性である。何の気なしに始めたアプリであった。その中でたまたま目に止まった素朴な感じの女性だった。興味も似通っているように感じた。プロフィールの写真は、ストレートで肩まである黒い髪、派手さはなく目は少し細いが整った顔立ちで細身に白いワンピースを着ていた。まあここまでは僕のタイプなのである。駄目元で「いいね」ボタンを押すことにした。「いいねボタン」とは、「あなたのことが気になります」という意思表示である。すると「いいね」の返信が来た。ラッキー、本音である。これでめでたくマッチングという状態になる。マッチングすると、アプリ内でメールのやり取りができる。たわいもない内容であったが楽しかった。どちらからともなくランチでもしながら話をしようということになったのである。いきなりディナーはよくない。女性が安心して会える時間帯がいいと思うのである。
そろそろ約束の時刻だ。
エントランスの自動ドアが開いた。その向こうからこちらを見ながら歩いてくる女性がいた。見覚えのある顔だ。僕の前で立ち止まり、ぺこりと頭を下げながら、
「片岡さんでしょうか?初めまして」
少し息を切らせているがアプリで見た女性である。ワンピース姿ではなく、白いアンサンブルに膝丈の黒いスカート、それに薄いピンクのコートを合わせた彼女はとても落ち着いた雰囲気に見えた。
「そうです、初めまして。柏木琴美さんですね」
「はい」
「片桐秀樹です。場所はすぐにわかりましたか?」
「少し迷ってしまいました。待ちましたか?」
柏木さんは申し訳なさそうに答えた。
「いいえ、柏木さんこそ時間に正確ですね。」
ここは即答しておく。三十分も待っていたなんて言えないし、恥ずかしい。
「では、行きましょうか」
食事や店についてはアプリ内のメールで事前に決めていて、予約もしてある。
「はい、ありがとうございます。片桐さんとランチするのを楽しみにして来ました」
すんなりと話は進んでいく。話しやすい女性だと思った。もちろんこれからの時間が重要である。人と喋りながら食事するのは楽しい。しかし自分ばかり楽しんでいられない。彼女にも楽しんでもらいたいと思うのである。
ゆっくり歩いたが数分後には店に到着した。鉄板焼きの店である。初めて会う女性と食事するには少々ムードがないように思うが、彼女のリクエストでもある。
予約席に通されてメニューを見ながら、
「柏木さん、お肉はどうしますか?」
「どれも美味しそうですね。でもあまり量は食べられないと思いますので、このコースにします」
「そうですね。どれも美味しそうで目移りしますね。じゃあ僕も同じものにします」
注文すると、目の前でシェフが野菜や肉を次々と手際よく焼き始めた。それを見ながら、
「柏木さん、今日はいい天気でよかったですね」
「本当に。天気が悪かったら気が滅入りますものね」
カウンター席で横並びに座っているので、分かりにくいが、彼女は微笑みながら答えた。
「柏木さんは最近、どこか出かけましたか?」
「博物館に行って来ましたよ。私、よく行きます」
「僕も行きたいと思っているのですが、なかなか行けません」
「片桐さんはどこかへ行きましたか?」
お互いの趣味を知っていると話がしやすい。
「僕は先週の日曜日に友人とゴルフしてきましたよ。楽しかったけど寒くて体が動かなかったです」
彼女は小さく笑って、
「そうですね、先週は寒かったから。私も早くラウンドしてみたいです」
彼女は最近、ゴルフのレッスンを受け始めているのだ。それはメールでの会話で知っていた。
「その時は是非、一緒に回りましょうね」
「うまくなってからお願いします。今のままじゃ下手すぎて、片桐さんに迷惑かけてしまします」
「迷惑だなんて、そんな事はないですよ。柏木さんとラウンドできる日が楽しみです」
彼女は恥ずかしそうに頷いた。よかったぁ、なんでも無理いじは良くないと思う。
話をしている間にも鉄板焼きのメニューは進んで食後のコーヒータイムになった。席の移動を促された。席をかわった時に思い切って、
「柏木さん、苗字で呼ぶのは堅苦しいので、名前で、琴美さんと呼んでもいいですか?」
「いいですよ。では私も秀樹さんとお呼びしてもいいですか?」
何だか顔が火照ったが、出ていないだろうか?秀樹さんなんて呼ばれ慣れていないが嬉しいものである。
「はい。それと琴美さんのメールを聞いても?またこうしてお会いして話をしたいです」
「はい、私も聞こうと思っていました。秀樹さんとお話ししていると、とても楽しいので」
よっしゃ、これで次につながった。新しい友人ができた。いろいろ彼女に対して考えていることはある。ランチやディナーはもちろん、ゴルフのラウンドや博物館巡りにも行きたい。いろんな話をして琴美さんについて知りたいと思う。これ、本人に言っていいかぁ?
あれから数年、柏木琴美さんとは何の進展もなく今も変わらずランチやディナーに行っている。
アプリのミセス 久我 風人 @takeminakata0619
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