ファンレターは消えていた

狩込タゲト

少しヘンな私と読者と仲間たち

 生まれて初めてのファンレターというものに、私は困惑していた。

 スマホに届いた一通のメール。小説を書くことが趣味の友人からで、私宛のファンレターがあると伝える短い文章と、URLが書かれていた。

 私に対してファンレターが書かれる、そんな心構えは全く出来ていなかった。青天の霹靂とはまさにこのことだろう。


 私はここ数年の間、エッセイを書いている。頻度はまちまちで、月に何個も書くこともあれば3カ月に1個という場合もある具合だ。

 きっかけは、小説好きの友人に「同人誌を一緒に作らないか」と誘われたことだった。

 私の中の同人誌のイメージは二次創作、いわゆるファンアートを個人たちで作ることだったので、何か特定の作品から想像力を働かせる能力や、熱意というか作品に対する熱い想いが無い自分には無理だ、と一度は断った。

 それでも諦めなかった友人から話をよくよく聞かされた。その人たちが作っているのは一次創作の作品集らしかった。自分たちでいちから作っているものだという。好き勝手に書いて、それが本の形になるのが楽しいので活動をしているような、そんな気楽な集まりだと説明を受けた。

 ぶっちゃけ、私が誘われたのは人数合わせのためらしかった。本を作るのにも金がかかる。それが参加人数で割り切るには中途半端な値段であることも多いうえに、長文が好きな人もいれば短文が好きな人もいるので、掲載ページを全員で均等に割って値段も均等にすることも難しいらしい。そんなときに私がゲストで参加して、少しばかり参加費を払ってくれると調節がきいて助かるのだそうだ。

「ゲストっていうと特別な感じがするけど、ふらっと立ち寄った神社で絵馬を書いていくお客さんみたいな、気軽な感じでいいから」と、人によっては全然気軽では無い例えをされた。そんな友人たちがどんな作品集を作るのか、だんだんと気になってきたのもあって、了承した。払う費用はそのときどきで違ってくるが、おやつ程度の出費で済むようにするし、他にも声をかけているから毎回参加しなくても大丈夫、という本当に気が軽くなる約束だったのも理由として大きい。

「小学生の作文みたいなのでも構わないよ」そのからかい半分の言い方にカチンときて「目にもの見せてやる!」とこちらも冗談半分で息巻いたのだが、数日後には中学生の日記みたいな文章が出来上がっていて、「中学生の日記みたいだな!」友人も同意見の作品になってしまった。同意見とはいえ少し腹がたったので一発、小突いておいた。

 少し恥ずかしかったが「まぁいっか!」と私の生来のいい加減さで、その作品はそのまま掲載された。


 その作品集の参加者の大半は私とあまり面識の無い人たちだったので、どんな反応をされるか不安があったが、結果から言えば、優しい人たちでよかった。

 知識も経験も浅くて、やる気もあまりないような自分を、馬鹿にしないでいてくれた。むしろ「参加者が増えて嬉しい」と歓迎の気持ちをあらわしてくれる人たちが多かった。。

「正直、助かったよ」ニヤニヤしながらそういったのは、誘ってきたのとは別の友人で、そいつが言うには私が入ったことで、自分のレベルが周囲より低いのがバレにくくなったのだそうだ。

「正直すぎないか」とつっこめば、あはははと笑われてしまって、そのあっけらかんとしたようすに私もつられて笑ってしまった。その友人なりに、私の気持ちを軽くしようとしてくれたのかもしれない。

 いろんな形でとはいえ、私の拙い作品を受け止めてもらえることに喜びを感じた。ゆるく必要とされているのも私には向いていたらしい。ここはとてもここちよい場所となった。

 ちなみに、私の最初の作品に対しては、ほほえましいものを見るような生温かい反応を返されてなんだかムズムズとした。

 

 私へファンレターだと紹介されたものはブログで紹介されていた。

 こんな作品集があるという簡単な説明から始まって、そのなかからいくつか取り上げて感想が書いてあった。他の作品にはひとことふたことなのに対して、私のには何行にも渡る長い感想が書いてあった。そのうえ、今回発行した同人誌だけではなく、前回前々回と、今まで私が書いてきた作品にも触れられていた。

 こんなに感想をしっかりともらったことなどなかったので喜んで読んだ。誤字脱字の多い文章は少し読みにくかったが、がんばった。せっかちなのか、そういう人柄ならば仕方がない。後になってから思い至ったが、もしかしたら文字化けを起こしていたのかもしれない。だとしたらその人の責任ではない。

 私の作品が刺さる人がいたのは嬉しい発見であった。

 私の作品はよくわからない部分も多くて、そこがおもしろいと友人知人は言ってくれている。

「お前らしさが良く出てる、いいフィクション小説だぞ!」そんなふうに褒められたのが嬉しくて、「これらはエッセイだ」とはいまだに言い出せずにいる。

 同じく掲載されてる人のなかには、ノンフィクションを中心の人がいて、とてもおもしろい作品を書かれている。そのリアリティある描写や、目の付け所は見習いたいと思っているのだが、まだまだ私の実力不足はいなめない。エッセイだと気づいてもらえないのもそのせいだろう。

 少しでも楽しんでもらえているなら、エッセイだろうと、フィクション小説だろうと、どちらでもいいことなんじゃないかと、最近は開き直りつつある。エッセイ風と銘打とうかとも考え始めているぐらいだ。

 適当にやっているとはいえ、何年も続けていたので、中学生の日記から、大学生が書きなぐった日記ぐらいにはレベルアップしたようで(もちろん文学科の学生の日記ではない)感想をもらえることが増えた気がする。

 よくあるのは質問なのだが、どうやって思いついたのかという質問に対して「そのときの状況を書きなぐっただけ」というと不思議な顔をされる。

「そういう世界感なのね」と最近は変な納得をされている。世界感も何も、そのときおこったことを書いて、自分の心境をつづっているだけなのだが。どうやら私の書く文章はどこかズレているらしい。直した方がいいかと友人たちに問えば「おもしろいからそのままで」止められてしまった。何やら面白がっている感じがしたが、初心者だからできる面白さがあるんだと説得された。ビギナーズラックだとかよくわからない説明をされてめんどくさくなったから、こちらが引き下がってやったのだ。今のままでそれなりに楽しくやれているので、気にしないことにした。


 そんな私の文章を読んで、フィクション小説ではなく、エッセイとして受け取ってくれている稀有な存在が、事情を知っている知り合い以外にこの世に存在しているとは驚いた。

 そのことをブログのコメント欄に書いてみた。もちろん読んでくれた感謝の言葉も忘れていない。

 驚いたことにすぐに私のコメントの下に、ブログ管理者の名で返信が来た。ちょうどブログを開いていたのかもしれないが、心臓に悪い。ありえないことだが、私の行動を一部始終見張られていたかのようだった。

 その返信コメントによれば、実は私を見かけたことがあるらしい。私の知り合いかと問えば、私のことを知っていたわけではなく、たまたま見かけた変な事象と私のエッセイが同じような内容だったという。

 私の文章を読んで実際にあったことだと判断してくれたわけではなかったのが少し悲しいが、興味関心を持って他の作品も読んでくれたのはとてもありがたく嬉しいことだと素直に伝えた。そして、実際あったことだと認識していない知人たちに説明してくれないかと頼んでみた。

 「無里です」と言われた。

 「無理ですか。それなら仕方ないですね。いろいろ事情もあるでしょうし。ちなみに理由をうかがっても?」

 ダメもとで言ってみただけなので、断られても気にしていなかったが、理由は聞いてみたかった。

 「ごめんなちい」

 それっきりである。


 初対面なのにぐいぐいといきすぎたのかもしれない。友人に話したら「読者の中には、恥ずかしがったりして作者との交流を嫌がる人もいる」と教えてくれた。嫌いになったとは限らないからとも、フォローされた。

 あまりそういう交流に興味を持ってこなかったので、読者と作者の距離感とか、人によってさまざまであるということを知らなかった私は反省した。

 そんな私と読者の交流を今回は文章にさせてもらった。

 もしも読んでいたらあのときは失礼しました。

 これからも反応しなくていいから読んでやっていただきたい。

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