名も無き世界の主人公

よすが 爽晴

世界は突然表情を変える

 少し、少しだけぶっきらぼうな夢を見た。

 特段人と違う事をしているわけでもなければ、どこにでもいるようなドラマの通行人でしかない。ただそれだけの、存在だった。街を行き交う人だってそれは大半が同じ存在で、けれども俺以上に世界の中心を歩く物語の主人公だ。だから俺が生きるのは物語ではない、これはただのぶっきらぼうな夢だ。

 揺れる電車と、吊り革。

 なんでもないこの夢達が、今日も静かに呼吸を落とす。

「…………」

 少し混雑した電車の中で、イヤホンから流れる音楽に耳を傾ける。代り映えのなくいつもと同じ音楽達は、今日も無機質に再生されていく。普段となにも変わらない、色褪せた毎日だ。

「……そろそろだ」

 俺が降りる駅の、一つ前。

 停車のアナウンスを音楽の向こうで聴きながら、俺は座っていた椅子からおもむろに腰を上げた。それから、ドア近くにもたれかかる。

 少し大きな駅であるそこは乗車してくる人も多く、ドアの前にはスーツに身を固めた男性や子連れの親子。そんな人達が電車に乗ってくるのを眺めながら、俺はさっきまで腰をかけていた場所へ目をやった。

「…………」

 一人の女性が座っているのを見て、内心ほっとした。これはただの自己満足だ。それだけだが、この人が無事に座れたのを見るとほっとする。

 揺れる車内で、広告を見つめて。薄い夢の中で俺はふと目を伏せた。俺に役名はいらない、俺にエピソードなんていらない。読者のいない物語なんかは、誰だって見向きはしないから。そう、思っていたのに。

「あの」

「え?」

 声を、かけられた。

 誰かと思い顔を声した方へ向けると、そこはさっきまで俺が座っていた席。少し不器用そうに笑う彼女は、間違いなく俺に声をかけていた。長い髪と、大きな瞳。控えめで落ち着いた装いが特徴的な彼女が、俺は正直な話少しだけ気になっている。本当に、少しだけだが。

 そんな彼女が突然俺に何の用事だろうかと思っていると、もじもじと申し訳なさそうに目線を動かしていた。

「いつも、ありがとうございます」

「は……?」

 あまりにも、突拍子のない言葉だった。想像していなかったそれに目を丸くすると、彼女は小さく首を傾けながらだって、と言葉を続けてくる。

「あなたですよね、いつも私に席を開けてくれるの」

「それ、は」

「いつもありがとうございます、とても助かっています」

「俺は、なにも」

「あなたはきっとそんな人だと思っていました」

「っ……」

返す言葉が、出てこない。どう対応すればいいのか、どう答えればいいのか。それがわからなくて、頭の中がかき混ぜられてしまいそうだ。

「それは、その……そんな、気のせいだと思います!」

 ちょうど開いたドアから勢いよく飛び出して、無我夢中で走り出す。

 どうしよう、いつも気づかれていたのか。そんな事で頭はいっぱいで、鼓動は自分のものではないみたいに早くなる。だって、俺は気づかれてはいけないから。俺の話はただの夢で物語なんかではなく誰も読者も登場人物のような仲間もいなくて。


「これじゃ――俺が主人公みたいじゃないか!」


 ずっと一人だと思っていた夢はそうでもないと俺自身が認めるのは、数日後に彼女の名前を聞いた時の事だ。


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名も無き世界の主人公 よすが 爽晴 @souha

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