第9話

 静かになった部屋で家事の続きと夕御飯の準備をぼんやりとしていると、久しぶりに指先に痛みが走って熱を帯びる。左の人差し指から血が風船の様に膨らみ、包丁で少し切った事に気づく。

 痛いと呟く気力すら湧かなくなるくらいに疲れ切った心身に、あの日から続ける自責だけが甘えを捨てさせてくれる。


「星海がそろそろ帰って来るのに、こんな顔じゃだめだよベルカ」


 包丁に写る自分の顔を無理やり笑顔にするために指で口角を上げていると、丁度玄関の鍵が解錠する音が聞こえた。急いで手を洗って玄関から駆けてきた星海を迎え入れようとしたが、先に帰って来たのはいつも後の輝祈の方だった。


「あれ、おかえりき……」


「うるさい! 私の名前を呼ぶな他人のくせに、星海まで不幸にする気?」


 キッチンから出たと同時に輝祈が目の前に来て、ゴムが千切れたような音を静かな部屋に響かせながら輝祈の手が振り抜かれる。じんじんと痛む頬と衝撃で倒れ込み、棚に頭をぶつけた痛みを我慢して輝祈を見上げる。


「何あの理由。私たちの為に大会を辞めるって、別に今更あんたなんかに何か大きなことしてほしいとかないから」


「違うよ。大きなことなんてしてあげられないから、せめて少しでも……」


 聞くよりも先に家から飛び出して行った輝祈を追いかけようと棚に手をついて立ち上がろうとすると、ぶつかった衝撃で落ちて来た瓶が頭に当たり、あまりの痛さに足が止まる。

 突然来る吐き気を我慢してよろめきながら走り出し、輝祈の後を追い掛けて階段に差し掛かるが、揺れる視界に足を踏み外して階段を転がりそのまま気を失う。


 - - - - - - - - - - - - - - - - -


 次に目が覚めたのは病院のベッドの上で、体には大袈裟な器具が着けられていた。無理やり全部引き抜いて力の入らない足を精一杯酷使し、壁に手を付きながら壁伝いに病室から出る。当然異常を機器が送信している為看護師が大慌てで走って来る。


「神楽さん何してるんですか! あなた重症なんですよ」


 返す言葉が頭に浮かび上がらない。まず私を苦しめたのは、手足の動かし辛さよりも言葉が上手く出てこないもどかしさだった。何かを伝えようとしても、言葉がまとまらず看護師さんと会話が上手く成り立たない。


「輝祈」


「娘さんが見つけてくださったんです、とりあえず病室に戻りましょう」


「2人」


「いえ、向かった救急隊員はランドセルを背負ったお子さんひとりと聞きました」


「輝祈が、探さないと」


「神楽さん、一旦落ち着いて病室に戻りましょう! 先生もすぐに来ますから」


 廊下で騒がしくしていたからか、一段と慌ただしく駆け付けた白衣を着た男が現れて、両肩を掴まれて病室のベッドに強制的に押し戻される。


「神楽さんよく立って居られましたね、脳挫傷ですよ。重度な訳ではありませんが、一応手術をさせて頂き減圧はしました。ですが半身は動かし辛いはずですし、2日も寝たきりだったんですよ」


「2日も放って、輝祈は」


「ご家族の方をお呼びしたので、それと後遺症で覚えが悪くなったり、言葉に詰まる事などが多くなると思います。今はとても話し辛いと思いますが、落ち着いて治療して行けば……」


「輝祈、星海」


 喋る医者の言葉も耳に入って来ないくらいに2人のことで頭が埋め尽くされ、次に気が付いた頃には病室にひとりになっていた。


 病室のドアがノックされてから開き、最初に星海が入って来て、次にイギリスに居るはずの母が姿を現す。泣きながら飛び込んで来た星海を抱きしめながら、2人の事も何も知らないグレースが椅子に何も言わずに座る。


「グレースお母様。申し訳ありません」


「あなたは久々に親に会って第1声が謝るような、何かを恥じる様な行いをしたのですか?」


「恥じる行いは沢山あります。まず、日本に逃げるようにして渡った事、そしてこの子たちの事を何も相談もせずに引き取った事です」


「あの記事は読ませてもらいました、その子は身寄りが無くなったから引き取ったのでしょう? ならば恥じる事などありません、グレイの名に恥じぬ行いです。良い行いとは私の口からはとても言えませんけど」


「行いは恥じる事は無いと分かりましたが、私は伴わない中身に納得がいきません」


「それはあなたの行動次第でしょう、私に言ったところで何も変わらないわ。それともグレイ家の手助けが欲しいのかしら?」


「いえ、退路を絶っただけですのでお聞き流しを。グレイの名を……」


「パパが変!」


 それまで目を丸くしながら話を聞いていた星海が我慢出来なくなったのか、話を遮って私の腕の中でそう叫ぶ。口元に手を当てて少し微笑んだグレースは何故か満足したように立ち上がり、星海の頭を撫でてアールグレイの茶葉の入った箱を渡す。


「この子の事が嫌になったら、イギリスに来なさい。私の可愛い孫なんだからいつでも遊びにいらして。あなたも年に1度は顔を出しなさい」


 ずっと外で待っていたのか、見覚えの無い従者の様な女性がドアを開け、グレースと共に去っていった。残された星海と2人でベッドに寝転がると、買った覚えのないスマホを星海がいじっていた。


「あれ星海、それは?」


「これね、あの人にね、持っときなさいって渡された」


「そっかごめんね、パパを見つけた時にスマホとか無かったから大変だったよね」


 自分のスマホを机から手に取って輝祈に電話を掛けてみるも、案の定出る気配も無く、コール音だけが何度も繰り返される。しばらくしてから諦めようと耳から離すと、画面に通話時間がカウントアップされていた。


「輝祈今どこ!? すぐに迎えに行くから待ってて」


「いやうざいから一生病室から出て来るな、星海と一緒にグレースさんの従者の人に見てもらうことになったから安心して死んで」


「そっか……良かった。すぐに退院するから待っててね」


 既に切られていたスマホに語り掛けていた事に少しの沈黙の後に気付き、いつの間にか病室の中に立っていた従者の女性に星海が抱き上げられる。よほど疲れていたのだろう、眠ってしまっていた星海は私の服を緩く掴んでいて、抱き上げられた拍子に手が離れると居心地が悪そうに眉をひそめる。


「しばらく御迷惑をおかけしますが、2人の事をよろしくお願いします」


「まぁ、仕事なんで」


 表情を変えずに口だけを動かした女性が立ち去らないのが不思議で見上げていると、「いや、何でもないです」とだけ言って部屋から音も無く出て行く。最後まで不思議な雰囲気に違わぬ行動に疑問が残りながらも、久しぶりに目が覚めた身体は限界を超えて電源が切れるように眠れた。

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