アルザスの戦い Ⅰ

 アルザス村は人口三〇〇に満たない小振りな村である。商用街道に面しているため、隊商相手の稼業で食い繋いでいる。

 村の周囲の情景は、いくつかの小高い丘と平野で構成されていた。標高は一五、六リーグだろうか。一番高さのある丘は、村の南西方向にあった。一八日朝、旅団本部はそこに置かれている。寝起きの指揮官天幕に報告が舞い込んでから、きっかり一と半時間が経っていた。

 敵は既に、望遠鏡での狭い視界に確認できる距離に迫っていた。およそ二レーグといったところか。じきに接触するであろう。

 さて、どうくるか。ノクトバーンは思案した。

 ノクターン城塞でのそれと同様、何の奇もてらわず正面から衝突するか、あるいは、平野という戦場を鑑みなにか仕掛けてくるか。まったく読めなかった。

 なにせ、自分たちがその歴史において培ってきた軍事的常識が通用しないのだ。ただ確信できるのは、白兵戦に持ち込めば、こちらの希望は失われるということ。

 つまりは、戦場で行われるいくつかの過程、その締めくくりである突撃戦術──一般に想起される自暴自棄な戦術ではなく、緻密な計画と準備のもと極めて理性的に行われるもの──が使用できない。その衝撃力に頼れないのだ。

 いや、あるいは騎兵ならばどうだろう。杖兵より迅く駆け、何倍もの衝撃力を有する騎兵の突撃、それならば。

 そこまで思考したところで、ノクトバーンは眉をしかめ首をふった。自身の旅団は騎兵部隊を組み込んではいない。そして、参戦を要請できるような手頃な騎兵部隊は、彼の記憶の通りならば付近には存在しなかったはずだった。この三日で部隊配置に変換があったならばその通りではないだろうが、それに期待して行動するわけにもいかない。

 思いつきが使えないことがわかると、ノクトバーンは眼下の平野に目を向けた。そこには、近衛第七杖兵旅団を構成する二つの連隊、第三四、第六五杖兵連隊が布陣していた。見れば、三四連隊の方が微妙に規模が小さく感じる。三四連隊からは、衆民団護衛のために一個中隊二〇〇名ほどの兵を引き抜いているからだ。

 その衆民団はというと、やはり天幕に敵接近の報告がきた時点で叩き起こし、移動を開始させている。彼らは今頃、眠い目を擦りながらアルザス村の北方を移動しているはずだ。

 アルザス村の村民も、やはり衆民団と共に退避させている。退避の勧告は今朝になってからだったので、村は盗賊に襲われたかの如く荒れ果てていた。宿屋は帳面といくらかの金銭。農家は手に持てる農機具と僅かな種籾。皆、必要最低限を引っ付かんで退避したのだ。

「すまないことをしたかな」

 ノクトバーンは村民を思ってそう呟いた。しかし、すぐに首をふる。王弟としての彼ならば、民草を想うことも許される。むしろ積極的にそうすべきであると、その地位と引き換えに義務付けられている。しかし、今ここに立っているのは国軍准将としてのノクトバーンだ。彼が集中すべきは眼下の部隊であり、目前の戦争だ。

 ノクトバーンは苦笑した。そんな理由で、自身の人間としての良心、その拘束が正当化されるとは。まったく馬鹿馬鹿しく、ろくでもない。必要の要請は無情を許容するとは言うが、そんな要請を寄越す「必要」という奴は、この上なく救いがたいひねくれ者に違いない。でなければ、歴史上の数多の将を同じ病に陥れるはずがないのだ。ちなみに、その病の名は「葛藤」という。

 苦笑と同時に、ノクトバーンは何か納得のようなものも覚えていた。

 戦争。その言葉の響きの、なんと空虚で無意味なことか。素晴らしい。戦争、戦争、戦争だ。

 ノクトバーンの苦笑はさらにひどくなっていった。さすがにこれ以上は指揮官としての示しがつかない。ノクトバーンは表情筋を無理やり固めると、空を見上げた。

 いやしかし、勿論緊張もするが、なんとも言い難い感情がむねの奥から込み上がってくる。しかも、けして目の前の状況を唾棄したくなるような悪い感情ばかりではなかった。それは高揚感に似ていた。なにせ、我が魔王国軍は戦争の基本形式である野戦で奴らと相対したことがない。今まで確認された主だった戦闘は、飛竜部隊との夜戦や、ノクターンでの対攻城戦闘といったもの(どちらも戦闘と形容してよいかどうかは、議論の余地がある)。奴らとしても、「野戦」の形式で「きちんとした杖兵部隊」との戦闘は初めてのはず。つまり、お互いにはじめてなことばかりというわけだ。その点に関しては彼らは公平なのかもしれない。

 本日は雲の少ない春晴れの空。絶好の戦争日和だ。


 奴らは既に、望遠鏡を使わずとも認識できる距離にまで接近していた。──およそ半時間もすれば、戦闘が開始されるだろう。それに伴い、ノクトバーンの思考もより実際的なものへと変化していった。交戦距離についてだった。

 魔王国軍野戦教範バトルマニュアルに拠れば、会戦における通常の交戦開始距離は六〇リーグとされていた。杖兵大隊の横列が一斉射撃を行った場合、その距離が最も攻撃効率──術式が命中し、敵を殺傷する数が多いのだ。しかし、その法則にそのまま従うわけにはいかないとノクトバーンは考えた。敵の強みは、そのヒト離れした白兵能力だ。時間などの条件さえ合えば、たった数人で一個旅団をも屠るやもしれない。やはり、白兵戦への突入は承服できない。では射撃のみで片付けるか。成功する気はしないが、そうするしかあるまいとノクトバーンは判断した。

 では射撃の開始は何リーグで行うか。問題はそれだ。教範通りの六〇では近い。射撃を突破され、強制的に白兵戦へ持ち込まれかねない。では、その倍の一二〇リーグではどうか。今度は遠い。魔王国軍の使用している石陣発銃杖の術弾道は、一〇〇リーグを越えると急速に速度が減衰し、あらゆる自然条件の影響を受けてあらぬ方向へと逸れる。せいぜい、まぐれ当たりが期待できる程度だろう。攻撃開始距離はやはり、七、八〇リーグが妥当だ。布陣した各大隊横列(二個連隊で、合計八つ構築される)からその距離地点に敵集団が踏み入ったら、彼らは射撃を開始する。全力を以てだ。

 攻撃開始距離についてのノクトバーンの決心は、各連隊長には伝達されなかった。この程度の思いつきと判断は当然為されるだろうし、そうなるように彼らは教育されている。実際、両大佐は旅団長と同じ結論に達していた。結果、末端の戦闘指揮単位である中隊に伝達された距離は七五リーグ。射撃網突破の可能性と術弾の威力及び精度減衰のバランスをとった、妥当な距離だ。

「術式込めぇ!」

 眼下で、幾多の号令が響いた。戦闘準備の命令が、連隊長より大隊長、中隊長の順に下令されてゆく。同時に、空気はその硬度を増していった。

 すべての士官、すべての兵の注目は、彼らの南方に集中している。士官にとっては敗北の、兵にとっては直接的な死の恐怖。それが刻一刻と迫りくるのだ。ノクターンの惨状を目撃した彼らならば、それは余計に思考を蝕むだろう。

 彼らが組織としての理性を固持できているのは、彼らの指揮官の存在があるからに他ならない。

 王弟というやんごとなき身分の者が、指揮官として前線に、死に最も近い場所に立っている。それも、自分たちと共に。軍人ならば、これ以上に勇気づけられる事実はない。王弟は戦場に、我らと共にあり。近衛ロイヤルの名を冠する彼らには、その事実だけで十分だった。

 旅団と奴らとの距離は数百リーグにまで縮まっている。昨夜まで平安を享受していたこの村は、じきに戦場となるのだ。

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