閑話休題 回想、あるいは歴史。
正歴一八二五年の八月。
改革に奔走した魔王陛下が
からりとした暑さの日だった。
屋敷に、老人たちがやってきた。
臣を束ねる枢密院の元老たちだった。
曰く、兄上が魔王の冠を戴くことが、つい今朝議決した。とのことだった。
──兄が王になる。
それが、なにを間違えたら「兄上を王に」なんて話になるのだろう。
ああ、きっと。しがない士官見習の学生である自分には図れないような議論と対立、そして決断が、あの王城では起きているのだ。
夜。私は兄の部屋を覗いた。
兄はランプの光に照らされ、思案の色、いや、義務、責務、積み重ねられてきた全てのモノと向き合っているのであろう色を顔に張り付けていた。
「兄上。結局、どうなさったのですか」
「ああ、ルゥク。起きていたのか」
がらり、と。
兄の顔は、いつものものに戻る。
「ええ。あんな話の後です、眠れるものも寝られないようで」
「──それは僕のことかな」
「さあて。どうだか」
くすくすと笑うは、まさしく仲睦まじい兄弟のもの。しかし私は追問の意を込めた言葉を放った。
「それで」
私の追及に、兄は静かに頷く。
「うん。魔王陛下の玉座が空いている今、枢密院の言は玉言に等しく、その要請は勅命そのものだ。つまりは──うん。そういうこと。というか、この話が来た時点で、もう万事整っているのだろうよ。僕に拒否権なぞあるものか」
なるほど、兄は、畏こくもそれをお受けしたようだ。
しかし、王家の方々(親王がいないとはいえ親戚がいないわけでなく、現に王位継承権をお持ちの王族はおられる)に怨まれるのではないか。
なにしろ、自分らを差し置いて余所の者、灰毛並みの
光栄よりも、自身の、そして兄の命の心配の方が大きかった。
けれど、今は。今くらい、兄弟を祝福してもいいだろう。
未来の、具体的には冬を越した頃には即位するであろう我らの王に、私は跪いて最敬礼を送る。
「我が兄上に、そして我らが魔王陛下に、神の祝福と臣民の追従のあらんことを」
正歴一八二六年の四月。
スヴォーロフの長男が「魔王グレゴリウス」とお呼びされるようになって、三ヶ月が過ぎた。
微かな冬の気配、その残り香を感じる春の日。
「──以上を宣し、私は祖国を護る
士官学校を卒業し、『少尉候補生』という階級から『候補生』を外すこととなった王弟ノクトバーンは、魔王陛下より国軍少尉の階級を拝命した。
王弟という地位ならば、三〇代には将官にまで昇れる。昔から、そういうことになっているのだ。しかし、彼はその伝統を拒否した。「あくまで一般の士官と同じ昇級基準で」。当時の軍監部長官に、そう伝えたのだった。
最初に配属されたのは、王族らしく近衛連隊だった。
近衛第一杖兵連隊は、魔王国軍における連隊序列第一位、最も古い部隊だ。
まだ歩兵が銃杖ではなく長槍を友としていたころ、つまり魔王国建国時に王へ侍った騎士たちの末裔。ノクトバーンはその一員に加わった。
ここで少し面倒な話をしよう。
斯くしてノクトバーンが配属された近衛第一杖兵連隊。この連隊は『連隊長』という役職が率いる一般の連隊と異なり、『連隊代長』という役職の士官が率いる。
なぜ連隊長ではなく、代理人を指揮官として置くのか。
それは、連隊長を務めるのは魔王陛下その人と規定されているからだ。
しかし、魔王は多忙である。連隊長職に勤しんでいる暇など持ち合わせがないのは、想像に難くない。
そこで先人たちは、魔王という形式的指揮官にかわり適当な士官(適当とはいっても、それなりの教養と家柄をもつ。王族が多い)を実務的指揮官に置き、指揮官問題の解決を試みたのだ。
さて、この時の近衛第一杖兵連隊代長は、連なる王統に名を残すれっきとした王族である、ノルーベン公であった。
新たな魔王が即位して、まだ間もない頃である。王になった灰猫が、まだ王としての功績を認められていないため、旧王室からの風当たりが強いのは言うまでもない。
ノルーベン公も、やはりこの兄弟猫にあまり良い感情を抱いていない者の一人であった。
当時のノクトバーンは、それを嫌がらせか何かと受け取ったが、今思えば有益な経験だったともいえる。
ノルーベン連隊代長は、幕僚たちと頻繁に机上演習──地図と駒を使用するシミュレーション──を行った。
そこで、士官学校を卒業したばかりの新品少尉であるノクトバーンに集中的に、しかし王族らしい綺麗な言葉つかいで質問責めにしたのだ。
やれ、「殿下は杖兵大隊を率いておられる。これこれこういう状況下での、適切な行軍計画を策定して頂きたい」。
やれ、「殿下は小隊を率いておられる。兵が問題を起こし、下士官はそれを隠蔽したが、貴方はそれを知ってしまった。どのように対処するか、お答え頂きたい」。
やれ、「これこれこのような状況の、責任の所在は何処か。お答え頂きたい」。
どれも、士官学校を卒業したならば答えられる問題。しかし、それが数日数週半年にわたり怒涛のように投げ掛けられれば、堪ったものではない。
しかし、戦時において士官とはそれくらいの業務量をこなすもの。そう考えれば、ノルーベンが懐いていた感情とは、妬み恨みではなく親心や心配の類いだったのかもしれない。
しかし、若かりしノクトバーンは、そう受け取れなかった。その時は爪研ぎに精が出たものだ。
ともかく、彼はその連隊で少尉、中尉時代を過ごした。
彼が再び激務に襲われたのは、大尉になってからである。
そのころ、ノクトバーンは軍監部勤めとなっていた。
与えられた仕事は、王族らしく御飾りの職。かと言えば、そうではない。全然、実務的な部署だった。陸戦戦術研究本部杖兵課長。それが彼の新しい職名だった。
戦争が起こっていないという話は、魔王国においての話だ。余所の国については、戦争のなかでその技術を切磋琢磨している。正歴一八〇〇年代前半とは、そういう時代だ。
陸戦戦術研究本部は、そうした他国同士の戦場に出向き、彼らが苦心して産み出している最新の戦術を観察、研究する部署。その目的は、平和期間による魔王国軍の弱衰を防ぎ、時代に取り残されないようにすることだ。
文献に埋もれたと思ったら、大陸の端まで戦争を見に行く。全く忙しい部署である。
しかしまあ、余所の国に出向くときに、彼の王弟という地位は役に立った。そういうことも勘案しての配属なのだった。
その後は、少佐で陸戦戦術研究本部長。中佐で王都近衛騎士団参謀。大佐で近衛第二杖兵連隊長を経て、四〇の半ば、国軍准将という階級と近衛第七杖兵旅団長の職を賜った。王族としてはやはり遅いが、一般からみればなんとも若い将軍だった。
彼が王族らしからぬ実務的な軍歴を歩んだのは、勿論本人たっての要望もあるが、その裏に魔王の意思が噛んでいる。
兄である魔王グレゴリウスは、何に備えてか、信頼できる能将を一人でも多く欲した。そういうことから、軍人としての気質が強い弟に実際的な経験ができるような軍歴を歩ませたのだった。
正歴一八四六年の四月。
灰毛並の猫将とその旅団は、配置を命令されたノクターン城塞へ向けての行軍道中にあった。
南国境部より、数人のヒトが侵攻。おおよそヒトとは思えない白兵力を以て、北上してきている。勿論、その過程にあったいくつかの軍部隊を屠って。
「さて、飛竜部隊もやられたと聞いたが、地上の歩兵がどうやったのだろう。術式で落とすにしても、数はこちらが上回っていたはず」
ふと、ノクトバーンはそんなことを疑問に思った。
そんなことを呑気に考えることができる程度に、このとき事態はまだ逼迫していなかったのだ。
彼らはこの後、絶望感と悲壮美に吐き気を催しながら、後衛戦闘(修飾的な表現をするならば、転進支援戦闘)に従することとなる。
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