転進の企て

 城内の異変が彼らに感知されるのに、そう時間はかからなかった。

 なにせ、ノクターン城塞は人の死にゆく音に溢れている。

 音と空気から伝搬した恐怖と混乱は、死というものに日頃から付き合ってるわけではない衆民たちの平常心、その最後の一欠片を砕いた。

「なあ、憲兵さんよ。どういうことだね!」

 大鍋に麦と芋のスープをこさえてみんなに配っていた酒場の主人が、手近な憲兵に問い詰めた。

「今は緊急事態だ。あとにしてくれ」

 襲撃対処に忙しい憲兵は、素っ気なく返す。その態度は男を苛立たせた。

「ふざけんな、守ってくれるんじゃなかったのか!」

 怒鳴り声は辺りに響く。

 見れば、皆はそう言わぬだけで同じように思っていると言わんばかりの怒気を孕んだ視線を憲兵に注いでいた。

 そういえば、と憲兵は思い出す。

 昨日下達された衆民たちの処遇についての命令書には『衆民諸君は我が部隊の保護下におくが、戦闘時の安全は保証しかねる』とあった。それも大きく、赤墨で。

 つまり、最悪の話だが、軍部隊はこの人々の保護よりも軍の本分──目前の戦闘を優先する。そういうふうに解釈できるのだ。

 しかしそれを伝えるわけにはいかない。少なくとも、そういう空気ではなかった。

 場の空気はさらにどろりとしたものになっていく。

 ここにくれば、軍が守ってくれるというから苦労して来たのに。

 話が違うじゃないか。

 軍は衆民を守護する義務があるはずだ。

 何をしている。怠慢だ。さっさと自分らを守れ。

 そうした無言の訴えが、衆民たちの間に瞬く間に広がった。

 視線とよくない感情の奔流を一身に浴びた憲兵は、とうとう保っていた落ち着きと憲兵らしい態度をかなぐり捨てて

「う、上に確認するから!だから、どうか混乱だけはやめてくれよ。頼むから!」

 と言って駆けて行ってしまった。

 しかし不安の増大は止まらない。

 それを感知した子どもが泣き出し、その泣き声がよけいに不安を煽る。

 いつ衆民たちが狂乱的に走り出してあちこちに逃げ惑うか、危うい状態だ。

 城塞の戦闘音は、より一層苛烈さを増していった。いくらかの人は、荷物をまとめて移動する準備に勤しんでいる。こんなところにいては巻き込まれて死ぬかもしれないという恐怖だけが彼らの持ち合わせだった。


「集結せよ!集結せよ!」

 そう士官が号令を飛ばしていた。

 ノクターン城塞の北側にそびえる小高い丘。

 そのふもとには、城塞より中隊──杖兵ならば二〇〇人程の部隊──ごとに脱出してきた兵が整列している。

「あとどのくらいか」

 ノクトバーンが副官に尋ねた。

「第六五杖兵連隊は集結完了。第三四連隊の方は、あと一個大隊ほどです」

 副官はいつも通りの落ち着き払った声で答えた。部下に動揺がないことに、ノクトバーンは安心する。やはり、王弟の腹心ともなれば心構えが違うようだ。

「──損害は」

 今度はひげをひくつかせて尋ねる。彼の眼下の部隊は、違和感を覚える程度には数を減らしていた。

「一五〇はやられたと聞いていたが」

「それから増えて、損害は一個大隊弱五〇〇人に増えてます」

「ううむ」

 ノクトバーンは低く唸る。その向こうでは、幕僚連中がワヤワヤと言い合っていた。

 彼らを一瞥して幕僚からの提言を催促してから、ノクトバーンはいった。

「連隊長を呼べ」

「どちらのですか」

「二人ともだ」

「了解しました」

 副官は頷き、すぐに地竜を走らせた。

 打てば響く部下。彼の優秀さには、かれこれ十年は助けられてきたのだ。ノクトバーンにとって、彼は自慢の副官だった。

 すぐに丘を三頭の地竜が駆け上がってきた。

「旅団長閣下!」

 相変わらずの声の大きさで、ブリュッヒャー大佐はいった。第六五連隊の連隊長だ。

「閣下、じきに我が連隊も揃います」

 黒染めの為された眼鏡を押し上げ、第三四連隊長のゼナウス大佐も言った。

「うむ、ご苦労だ。諸君、方針は幕僚長からの伝達の通りだが、了解したか」

「はい、閣下」

 ブリュッヒャーが胸を張って答えた。ゼナウスも頷く。情報の伝達はうまくいっているようだった。

 ゼナウスは、士官というより書店の店主のような、どこか眠気を誘う声で言った。

「『避難する衆民集団を先頭に北進、然るべき地にて旅団は陣地設営。衆民らはそのまま進んで適当な市町に保護を要請する』。よろしい方針です。それで、行軍列の配置はどのように?」

「ああ、それは」

 ノクトバーンは幕僚連中の方をちらりと見た。幕僚長が地図を抱え、駆けて来るところだった。

「できたか、幕僚長」

「はい。お待たせしました、殿下」

 そう言って地図を広げてみせた。

「陣地築城に適した地の選定ですが、一番近いのがアルザス村。村の周りを丘が囲んでおり、状況把握と指揮がしやすいかと。

 次に近いのが、ドパウル川とドパウル橋。川を挟んで陣地を構築できるので、強度を確保できます」

「ふむ。ドパウル川までの距離は」

「七〇レーグ。普通行軍ならば、三日で行けます」

 ノクトバーンは眉をしかめた。

「移動の遅い衆民集団を先行させるのだ。四日、あるいは五日はみるべきだろうな」

「ええ、懸念はそれです」

 幕僚もため息を吐いてみせる。

「遅い行軍での移動だ。到着後、急いでの陣地築城となるだろう。そこから戦闘までどれほど時間がとれるか。兵には無理をさせるが──」

「今こそ、無理のしどきです。兵も士官も関係ありません」

「然り。というわけだ、連隊長諸君。目的地はドパウル川。強行軍で行きたいところだが、先頭が我々と違って長距離の移動には馴染みが無い連中だ。仕方ないが、ここは無用な落伍兵による兵力減衰を防ぐため、普通行軍で行く。序列は衆民団、第三四連隊、旅団本部、第六五連隊の順だ。行軍計画は各自よろしく策定するように。

 衆民団には三四連隊より部隊を適当規模抽出し、護衛につけろ。護衛隊には、受け入れ市町との交渉も一任させる。

 ああ、彼らには竜引きの荷車やらをあてがえ。女子供、脚の悪い者はそれに。持ち物は金と麦の種籾くらいだけにさせろ。重い家財道具やらは捨てさせるんだ。

 あとは──いや、これ以上は言わなくてもやってくれるか。では、よろしく頼む」

 副官、幕僚長、そして両連隊長。その全員が頷いた。少なくとも、ここで議論を重ねている暇が無いという認識は、みなに共通していた。

「出立は日暮れとする。それまでに万事整えよ」

「「了解ヤヴォール」」

 よい返事だった。

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