越境の空 二

 第三辺境衛隊第一騎竜兵中隊が駐屯しているベルマーリ駐竜所ちゅうりゅうしょに、ヤーゼフは突っ込むように降り立った。

 抱えているグレナデス一等兵の下腿部からは止めどなく赤液が流出している。

 幼さの残る十八歳の顔は、より青みを増していた。

 彼を竜から降ろしつつ、ヤーゼフは怒鳴った。

療務兵りょうむへい!重傷者だ!」

 あわてて飛び出してきた療務兵にグレナデスを預け、ヤーゼフは中隊本部へと落ち着いて、しかしできる限りの早足で向かった。

 本当は全速で走っていきたいが、士官として、自分が焦る様子で部隊に不必要な動揺を与えるわけにはいかない。

 そう気をつけていたが、しかし最後には焦りを滲ませて中隊本部に雪崩れ込む。

 飛び込んできたヤーゼフに、本部中の注目が集まっていた。

「報告します。南方六レーグ、ヴァジマーリ村において、ヒトによる襲撃を確認──」

 普段、報告がここまでならば、中隊長であるエルビス大尉が警務署に通報、軍隊の仕事はそれで終いだった。

 しかし今回は違う。今すぐにどうなるわけではないだろうが、後々面倒な事態になるのは目に見えている。そしてそれに自身が巻き込まれることも。

 だからこそ、ヤーゼフは一瞬の間の後落ち着いて、しかしはっきりとした声で続けた。

「──襲撃者の筆頭と思われる男の外套にヒト国王室紋を視認しました。我が方の損害、飛竜損失一、重傷者一。以上です」

 言ってしまった。と、ヤーゼフは子供の頃テーブルにミルクを撒いてしまったときのような感覚に襲われた。

 きっとこれから起きるであろう混乱。その発端を演じる役者の一人に、ヤーゼフはなってしまったのだ。

 エルビス大尉は少し目を見開き、目頭に手をやって黙考した後、落ち着きを装ったような声で命令を下した。

「シルヴィウス中尉、了解した。詳細を書面に起こし、提出したまえ。副長!警務署に通報、出動を要請しろ」

「はっ!」

「了解しました」

 ヤーゼフと中隊副長であるロベルト中尉は同時に敬礼し、行動を開始した。


 ヤーゼフがその後、軍服に付いたグレナデスの血を落とすこともせずに五分で仕上げた報告書は、エルビス大尉から第三辺境衛隊司令部、第二軍管区司令部の長の確認と署名押印を経て、その日の夜には王都軍監部に届いていた。

 地方からの緊急を要する報告がその日のうちに王都に伝わるということは、二〇年前ならばあり得なかったことだ。

 辺境の街で起こった事件の報告が王都に届くのがその事件が解決した後ということなどよくあることだったのだ。

 それを解決したのが短文通信術式と飛竜の騎乗動物化である。

 短文通信術式はその名のとおり、簡略化された短文を比較的短い時間でのやりとりが可能な術式である。

 主な用途としては、試験の合否通知や親の危篤通報が挙げられる。

 そして飛竜による伝令は、短文通信術式では送れない長さの長文や報告、その中でも緊急性が高いものに使用される。

 これは数の多いわけではない飛竜の摩耗を防ぎ、有事の動員頭数を揃える為である。今回のヤーゼフの報告書も、当然飛竜による運搬が用いられた。

 報告書が届けられたのは、残業中の士官や事務官が休憩に細葉巻ほそはまきを吹かしていたときだった。

 報告書の内容は疲労と眠気に染まりかけていた彼らの頭を否応なしに叩き起こした。

 冷静黙考を旨とする彼ら参謀は、その心得をかなぐり捨てて長官室に駆け込む。

「面倒なことになったな」

報告書に目を通した軍監部長官、レンドルフ大将は紫煙と共にそう吐き捨てた。

「いかがしますか、閣下」

そう言った参謀にレンドルフは「何とも言えない」という意思を込めた顔を向けた。

「外務院と執政院しっせいいんに報告書を送れ。軍が動けるのはそれからだ」

 軍は現状動くことはできない。

 目の前で魔王国民が殺されていようと、全ての部隊は沈黙しなければならないのだ。

 軍が動く為には、以下のような手順が必要だった。

 まず外務院が王都内のヒト国大使に連絡をとる。

 そこでヒト国の戦争意思が確認できれば、執政院はこの事態の対応を議会にかけ、そこで意思決定が成されてから執政院が魔王に上奏し、魔王から軍監部へ軍令が下る。

 そうして初めて軍部隊は行動を起こせるのだ。

 つまり、どうやっても迅速な対応は不可能であった。

「しかし、ヒト国に開戦の意思があるならば、なぜヒト国大使は魔王国より退去していないのか」

 レンドルフが発したのは当然の疑問。

 しかしそれを検証するには手持ちの資料が少なすぎる。田舎の中尉が寄越した緊急かつ重大な報告書一枚では、精緻な判断はできない。

 執政院ならば、出動したであろう現地警務署からの報告書と併せて、より正確な状況把握が可能だ。つまるところ、待つしかできないのである。

 

 長官室から退室した参謀連中は、深いため息を吐いた。

 これから急いでこの報告書を複製し、執政院と外務院に提出しなければいけないからだ。

 そして、組織が変わるということは、当然書類の書式も違う。

 この報告書の内容を機関を跨ぐ場合の書式に書き換える(しかもその内容は極力変えずに)必要があった。

「書式の一覧表を引っ張り出さないとな」

 彼らは深呼吸の後、弾けるように行動を開始した。

 なにしろ、国の有事かもしれないのだ。


 医務室の寝台に、一人の兵が横たわっている。

 兵の左足、その下腿部はふくらはぎのあたりからちぎれかかっていた。

 療促術式りょうそくじゅつしきにより血液の流出は止められているものの、彼の失った血液量は少なくない。

 療務兵が持てる限りを尽くしていたが、田舎の駐屯地で行える処置には限界があった。つまるところ、この少年。グレナデス一等兵は永くない。

 ヤーゼフはグレナデスの胸部の上下がだんだんと小さくなっていく様子を眺めていた。

 自分の部下が死ぬところを見るのは初めてだった。

 もしこれが戦争に発展するのであれば、グレナデスは魔王国で最初の『戦死者』か。

 そう考えたヤーゼフは少年の顔を脳裏に焼き付かせるように見つめた。この顔を忘れてはならない。そう思ったからだった。

 その結果、ヤーゼフの心中には二人の顔が焼き付いていた。

 一人は、初めて死ぬことになる自分の部下。この一等兵だ。

 そしてもう一人。グレナデスとそう変わらない、ヒトの青年。いや、よく思い出せばあれは少年といって良いかもしれない。あのとき遠巻きにちらりと、しかしはっきりと見えたその顔は、希望と決意に満ち溢れていた。なんだよ、あれは紛れもなく──

「──勇者の顔じゃないか」

 ヤーゼフは顔を歪め、吐き捨てた。

 グレナデスの鼓動は、その弱さを増していた。

 ヤーゼフは皮肉に思ったが、その日の月は綺麗だった。

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