人形と人間の生活
私は、何者でもないクレイドールとしてこの家にやってきた。
明るいお母さんに選ばれて、優しいお父さんに大切に運ばれて、この家の男の子と一緒に暮らすためにここに来たのだ。
私の意識はまだぼんやりとしていて、なにが起こっているのか上手く掴めない。けれども、これからここで大切にされて過ごすのだということだけは、なぜだかしっかりと理解出来た。
私を見た男の子は、大声を上げて喜んで私に抱きつく。私も、ぎこちないながらも男の子のことを抱き返した。なぜそうしたのかはわからないけれども、こうするのが当然のように感じたのだ。
男の子が私の頭や手を撫でて言う。
「きれい。とってもきれい」
私は自分の姿を知っている。出荷前のクレイドールは、みんな似通った姿をしているので、それで自分の姿をぼんやりと把握しているのだ。
白い髪に土色の肌、それに、胸にはなにともいえない鉱物様の核が収まっている。これはほんとうに、一般的な、どんな鉱物の影響も受けていないクレイドールの姿だ。
私はこの家に迎えられて、どんな生活を送るのだろう。不安はないけれども、人間の子供に触れるのはこれが初めてだ。この子をどうやって大切にできるだろう。そのことについてだけ、少しの戸惑いがあった。
はじめの数日は、私もまだぼんやりとしていて、お母さんやお父さんだけでなく、男の子の言葉にも反応出来ないことがあったけれども、それでも家族みんな、私のことを大切にしてくれた。お母さんもお父さんも、やっぱり子供の頃にクレイドールを持っていたようで、はじめのうちはこうやってぼんやりしているものだと、勝手がわかっているようだった。
両親の話を聞いて、男の子は私に色々なことを教えてくれた。菜の花のお祭りの時に神様に捧げる歌や踊りとか、それ以外にも人間と一緒に暮らすための決まりごとなど、そんなことを教えてくれた。
大切にされて日々を過ごして、食事として鉱物を食べているうちに、私の意識もだいぶはっきりとしてきた。そしてようやく、男の子の名前を覚えることができた。そう、その時に、私に与えられた名前も認識できるようになった。
「リナ、おうたとダンスのれんしゅうしよう」
そう言って男の子が笑う。私も、男の子の手を取って笑う。
「うん、練習しよう。カナデ、お手本聞かせて」
私がそう言うと、目の前の男の子、カナデが、くるくると回りながら歌を歌う。この歌は、私がカナデの元に来る前から、何度も他の家のクレイドールに聴かせて欲しいとせがんで教えて貰ったものらしい。
菜の花のお祭りのことは、この家に来る前からぼんやりとはいえ知ってはいた。クレイドールとしての基本的な知識なので、製造の段階で意識の中に刻み込まれているのだ。
ただ、それはほんとうに、クレイドールを作っている技術者が刻み込んでいるのか、それとも、クレイドールという集合体の中に漠然とある本能的なものなのかは、いまだにわからないようなのだけれども。
カナデの歌に合わせて私も歌って踊る。私の意識の中にある菜の花のお祭りのイメージはまだ薄らぼんやりとしていて、黄色い花と、明るい光、そのふたつだけが浮かんでは消えていく。
菜の花のお祭りというのは、実際にはどんなものなのだろう。わからないけれども、きっと楽しいものなのだと思う。
だって、こうやってカナデと一緒に歌と踊りの練習をするのが楽しくて嬉しくてしあわせなのだから、私と同じように愛されているクレイドールが集まるお祭りが、つまらないものであるはずはないのだ。
私とカナデとふたりで歌って踊って、練習をして、そうしているうちに私もすっかり歌と踊りを覚えた。カナデが、お祭りが楽しみだねと言ってにこにこと笑う。私も楽しみだった。
歌と踊りの練習が終わった後は、おやつの時間だ。カナデの分のおやつはお母さんが用意してくれるけれども、私の分のおやつは、カナデが学校帰りに、駄菓子屋さんに寄ってお小遣いで買って来た青い石だ。
カナデは青い石が好きなようで、いつも青い石を買ってくることが多い。なんで青い石なのかと聞いたら、こう返ってきた。
「あおいいしはかっこいい。
かっこいいから、きっとおいしいとおもう」
その言葉に、私は嬉しくなった。カナデはまだ幼い子供だけれども、子供なりに私のことを考えて選んでくれているのだと感じた。
今日カナデが選んでくれた石はなんだろう。楽しみにしながら居間に行くと、カナデの分のおやつの、カモミールの砂糖漬けが乗ったクッキーと、私の分のおやつの、青くて細長い石が、テーブルの上にあるお皿に並べて置かれていた。
「いただきます」
そう言ってカナデがクッキーを囓る。私も青い石を手に取って囓った。
舌に絡みつくような味の中に、ほんの少しだけ刺激的な味が混じっている。この味は、以前ちょっとだけ舐めさせて貰った砂糖と塩の味に似ている。
カナデが買ってくる石は、大まかに青い石。という感じで、日によって青鉛鉱だったり、ラズライトだったり、方ソーダ石だったり、藍晶石だったりする。カナデにはこれらが似たような石に見えるようなのだけれども、食べている私としては、見た目は近くても味は全然違うので、食べていて飽きない。
ラズライトはほろりと崩れる温かい味で、方ソーダ石ははじけるような清々しい味、藍晶石はすっと溶けるけれども余韻の残る味だ。そして、今食べているのが青鉛鉱で、私の一番のお気に入りだ。
隣でクッキーを囓っているカナデのことをちらりと見る。人間が食べる食べ物は、一体どんな味がするのだろう。カナデがおやつやごはんを食べている時に味を訊いたことがあるけれども、甘い。だとか、辛い。だとか、しょっぱい。だとか、そう言われても、それがどんな味なのか、私にはピンと来ない。ただ、甘いとしょっぱいに関してだけ言えば、砂糖の味と塩の味だと説明されたので、そういうものなのか。と思っている。
でもきっと、砂糖と塩も、私とカナデでは感じている味は違うと思うけれども。私たちクレイドールと人間とでは、食べるものがほとんど違うし、食べたものを栄養にする理もだいぶ違うのだ。
違う理の中で生きているもの同士、わかり合えないことも沢山あると思う。けれども、お互いが大切で、愛情を注ぐものだというこの一点だけは、人形と人間の共通認識なのだ。
だから、私はお互いに解けない疑問があったとしても構わないと思っている。わからないことがあるからこそ、お互いに試行錯誤して大切にできるのだ。
そんな事を考えながら青鉛鉱を囓っていたら、おやつがもうなくなってしまった。カナデのクッキーも、すっかりなくなっている。
「食べ終わった? それじゃあ宿題やりなさい」
「はーい」
お母さんの声にカナデが返事をする。カナデがテーブルの側に置いていた鞄からノートと教科書、筆箱を出して、宿題をはじめる。今日の宿題は社会のようで、鉱物が生る樹を栽培している農家の話が出てきている。収穫された鉱物は、どのようにしてお店に運ばれるか考えよう。という宿題のようだった。
「うーん、とれたいしはくるまではこぶんだよね?」
「そうだと思うけど、いっぱいあると大変だよね」
「うーん、うーん……」
こうやってふたりで宿題をするのはいつもの事だ。私は学校に行っていないので、こうやってカナデが持って来た宿題を一緒にやったり、授業でされた話を聞くことでしか、勉強をすることはできない。
知らなかったことを、カナデの口から教えて貰えるのは楽しい。だから、私はカナデも学校が楽しいと思っていた。
なんとか問題の答えをノートに書いたカナデに、私は訊ねる。
「カナデ、学校は楽しい?」
すると、カナデはすこししょんぼりとしてこう答えた。
「わかんない」
それは意外な答えだった。毎日嫌がらずに学校に行っているカナデが、学校が楽しいかどうかわからないとは思っていなかったのだ。でも、よくよく考えると思い当たる節があった。カナデは、学校の勉強のことは私に聞かせるのに、友達のことは一切話さないのだ。
「リナはがっこういきたいの?」
その突然の質問に、一瞬戸惑う。正直に言えば、カナデが学校でどんな風に過ごしているのかを見たい気持ちはあるし、ずっと側にいたいという気持ちもある。けれども、学校が楽しいかどうかわからないというカナデに、学校に行きたいと言ってしまっていいのか、わからなかった。
それでも。そう思って私は答える。
「私も学校に行きたいな。カナデがどんなことしてるのか見てみたい」
すると、カナデは照れたように笑った。
「ぼくね」
カナデがノートと教科書を鞄の中にしまいながら話し掛けてくる。
「ほんとうはあんまりがっこうにいきたくないの」
「そうなの?」
「うん」
それならなぜ、毎日素直に学校に行っているのだろう。行かなくてはいけないという、漠然とした義務感からだろうか。
そう思っていると、カナデは続けてこう言った。
「でも、がっこうにいかないと、おおきくなってからなりたいものになれないから」
そう言うカナデの表情は、すこしだけ悲しそうで、でも、なんだかとても大きな決意があるように感じた。
「大きくなったら、なにになりたいの?」
私がそう訊ねると、カナデは俯いて答える。
「わかんない。
わかんないけど、がんばらないとあとでこまるって、そんなきがするの」
この子はまだこんなに小さいのに、将来自分が困らないように、どうしたらいいかを自分なりに考えているのだ。
「リナがいればがんばれるから」
カナデはそう言って私の手をぎゅっと握る。
今ここで悲しそうな顔をしているこの小さな子は、やはり私のことを大切にしてくれているのだと、心の支えにするほどに愛してくれているのだと改めて感じた。
カナデと家族になってから数年が経った。カナデももうだいぶ大きくなり、青い石ばかりを食べている私の髪も、だいぶ青く染まっていた。
菜の花のお祭りも、もう何度か経験した。はじめてお祭りに参加した時に、他のクレイドールだけでなく、クレイドールの家族達も、みんな優しくしてくれたのをよく覚えている。
そう、私がみんなに受け入れられているのを見て、カナデもとても嬉しそうにしていた。
人形は愛されるもの。その共通認識が、人間だけでなくクレイドールの間にも強くあったと思う。人間同士は喧嘩することがあると聞いたことはあるけれども、私たちクレイドールの前では決してそんな素振りを見せない。きっとそれは、私たちに心配や不安を与えないようにしようという、人間達の愛情故だろう。
菜の花のお祭りで歌って踊って、お祭りが終わって次の年まで、歌と踊りの練習をして。それはあまりにも幸福な時間だった。
他のクレイドールに聞いたのだけれども、毎日のように歌と踊りを練習している人形は少ないのだという。それでも、お祭りの時には踊ることも歌うこともできる。それは神様から与えられたしあわせの欠片なのだろうと、みんなは言っている。
でも、私ははじめ不思議だった。歌と踊りの練習はあんなにも楽しいのに、他のクレイドールが練習をほとんどしないというのがよくわからなかったのだ。
もっとも、今ならなんとなくわかる気はする。私たちクレイドールの生活と嗜好は、人間の家族がどのように過ごしているか、なにが好きなのかに依存している。だから、私が歌と踊りの練習を楽しいと感じるのは、歌うことが好きなカナデの元にいるからなのだろうと、そう思っている。
今日も歌と踊りの練習をして、カナデが学校の宿題を終わらせた後、カナデが私の手をぎゅっと握って私のことをじっと見つめてきた。
どうしたのだろう。学校でなにか嫌なことでもあったのだろうか。私はそう思ってこう訊ねる。
「どうしたの?」
すると、カナデは照れたように笑って言った。
「あのね、将来なりたいものっていうか、将来の夢が出来たような気がして」
それを聞いて私は驚いた。それと同時に、どうしようもなく嬉しくなった。
今まで、将来どうなりたいかすら漠然としている中、ただ将来困らないようにと、ただそれだけのために、気の進まないなか学校に通っていたカナデに目標ができたのだ。それを知って嬉しくないはずがなかった。
「将来、どうなりたいの?」
わくわくしながらそう訊ねると、カナデは居間の中をきょろきょろと見渡してから、私の耳元で、囁くようにこう言った。
「僕、大人になったら音楽家になりたいんだ」
その言葉に、私は小声でまた訊ねる。
「どうして音楽家になりたいの?」
カナデははにかんで私の頭を撫でる。
「リナと一緒に歌うのが楽しくて、それで。
今度は、リナの歌に僕が伴奏を付けたい」
私はすぐさまに、カナデのことを抱きしめた。いままで私と一緒に繰り返してきた歌の練習の時間は、カナデがこうやって心を決めるまでに必要なものだったのだ。
こういう瞬間を、私だけでなく他のみんな、他のクレイドールも迎えることはあるのだろうか。カナデの場合とは逆に、小さな頃は夢があったのに、大きくなるにつれて夢をなくしてしまう人間が沢山いると聞くことはあるけれども、そうなると、家族である人間が夢を手放す瞬間に立ち会うクレイドールも多いはずだ。自分の家族が夢を手放した時、クレイドールはなにを思うのだろう。ただ、いままで通り愛されていればいいと半ば諦めるのか、それとも、自分だけに目を向けてくれると喜ぶのだろうか。そのどちらなのか、それとも全く違う心持ちなのか。少なくとも、今の私にはわからない。
私たちクレイドールは、なにかを成そうという夢を持つことはできない。もし夢を持ったとしても、それを成せるほどの寿命がないのだ。
だから、自分の代わりに夢を持ってそれを叶えようとする家族がいるのは、どうしようもなく嬉しいことだった。これは、私がそう思っているだけだけれども。
カナデを抱きしめたまま、小さな声で訊ねる。
「将来の夢、お母さんとお父さんには言った?」
すると、軽く頭を振ったカナデからこう返ってきた。
「まだ。一番はじめに教えるのは、リナだって決めてたから」
「そっか」
ふたりでしばらく抱き合って、お互い少し落ち着いた頃に、お母さんが様子を見に来た。宿題は終わったかと訊ねるお母さんに、終わった。とカナデが返す。
体を離して、私はカナデに言う。
「お母さんにも、話したほうがいいと思う」
「うん」
このやりとりが聞こえたのか、お母さんは不思議そうな顔をしている。
「あのね、お母さん」
カナデが緊張した様子で、将来の夢のことをお母さんに話す。それを聞いて、お母さんははじめ驚いたような顔をしていたけれども、すぐに嬉しそうに笑ってカナデに言った。
「それなら、お稽古に通わないとね。
もしかしたらお父さんは反対するかもしれないけど、そこはお母さんに任せて。ねじ伏せるから」
「えっ? う、うん」
まさかここまでお母さんに応援されるとは思っていなかったようで、カナデが少し戸惑っている。
私も、少しだけ戸惑った。これからカナデがお稽古に行くとしたら、私と過ごせる時間が減ってしまうと思ったのだ。
でも、それでも。一緒に過ごせる時間が少し減っても、カナデが夢を追いかけられるなら、我慢できると思った。
そして、その日から間を置かずに、カナデはお稽古に通い始めた。毎日通うわけではなく、数日に一回、バイオリンを習いに先生の所へ行っている。学校から帰ってお稽古に行っている日は、やはり寂しさを感じた。でも、カナデがお稽古から帰ってきて、家でバイオリンの練習をしているのを聞くと、すこしずつでも前に進んでいるんだと思えて嬉しくなった。
カナデがバイオリンの練習をはじめて、最初のうちはただその姿を見て、聞いているだけだったけれども、カナデがバイオリンに慣れるにつれて、私も一緒に歌うようになった。
たまにカナデが間違えることもあるけれども、誰だって慣れないうちはそういうものだろう。私だって、菜の花のお祭りの時の歌を、何度も間違えたりしたのだから。
カナデがバイオリンを弾いて、私が歌って。たまにカナデが手を止めた時に目が合うと、お互いすこし恥ずかしそうに笑い合う。そんな時間がどこかこそばゆくて、嬉しくて、しあわせだった。
そんな日々の中、カナデが私にこう言った。
「いつか僕が音楽家になったら、リナも一緒に舞台に立とう」
「うん、楽しみにしてるね」
その時はすぐにそう答えられた。けれども、私は知っている。カナデが夢を叶えられるまで、私の寿命が持たないことを。
クレイドールの寿命は、約十年。そして、私がカナデの元に来てから、もう八年以上は経っている。私はきっと、カナデが夢を叶えるまで、それどころか、夢の端を掴む頃までも生きられないだろう。それを考えるとどうしようも寂しくなった。
こういう気持ちの時、人間はきっと泣くのだろう。けれども、私たちクレイドールには、泣くための機能は備えられていない。だから私は泣けなかった。
でも、それで良いのかもしれない。私が泣けないことで、カナデの憂いが少しでも減るのであれば、それに超したことはないのだ。
カナデが音楽家になるという夢を持ってから数年。カナデが何度目かの学校での進級を迎える頃、私は自分の身体の異変に気づいた。胸にある核が、今までとは違う脈を打っていることに気づいたのだ。
これは、もうすぐ私が寿命を迎えるのだということがすぐにわかった。私は今までに、人形の最期を見たことはない。けれども、この異常に脈打つ胸の核は、確実に私に最期を告げているのだということが直感的にわかった。
胸の核の異変を感じた次の日、重い身体をなんとか動かして、私は部屋でバイオリンの手入れをするカナデに声を掛けた。
「私、あなたに言わなくちゃいけないことがあるの」
「ん? 言わなきゃいけないことって?」
カナデは、私の寿命が近づいていることにまだ気づいていない。もしかしたら、今日は動きが鈍くて調子が悪いのだろうかと思っているかも知れないけれども、まさか最期が近いだなんて思ってもいないんだろう。
そんな彼に、私は自分の気持ちを落ち着けようとしながら、ゆっくりとこう告げた。
「私、もうすぐ寿命が来るみたいなの。
だからお願い、最期私を見送って」
それを聞いたカナデは、はっとした顔をして、少し考え込んで、バイオリンを机の上に置いてから、泣きそうな顔をしてこう返した。
「わかった。お母さんに友達を呼んできてってお願いしてくる。
そうしたら、側にいるから」
カナデはすぐに部屋を飛び出していった。それから少しして、先程言ったようにお母さんに友達を呼んできてと声を掛けてきたのだろう、堪えきれないといった様子で泣きながら部屋に戻ってきて、私のことを抱きしめた。
「これからみんな来てくれるから。一緒にここで待ってよう」
それから、私はカナデの手で、いつもふたりで一緒に寝ているベッドに横たえられた。
お母さんがカナデの友達と、私の友達のクレイドールを呼びに行ってくれているようだけれども、彼らがここに来るまで、私の寿命は持つだろうか。胸の核は砕けずに持ちこたえてくれるだろうか。そんな懸念を抱くほどに、私の体は言う事を聞かなくなっていた。
頭の中はぼんやりしてきているのに、不思議と、目に入る景色と耳から入る音は、今までにないくらいに鮮明に感じられた。だから、カナデが涙を流して、それが床に落ちる音も、ひとつも残さず捉えることができた。
そんなに泣かないで。そう言おうと思っても口が動かない。私の手を握って、微かに震えているカナデの手を弱々しく握り返すことしかできない。
これから最期の時を迎えるけれども、私は少しもこわくなかったし、後悔もなかった。私がこの家に来てから今この瞬間まで、私はずっとカナデに愛されてきたのだ。その愛を一身に受けたまま、それを持って神様のところに行くのだ。それがどうしてこわいこととなるだろうか。
カナデの涙の音を聞いて、手の温もりを感じて、ぼんやりと天井を見ていると、部屋の外からいくつもの足音が聞こえてきた。カナデと私の友達が来てくれたのだ。
ドアの開く音と一緒に、足音は部屋の中に入って近づいてくる。そして、友達みんなが私のことを覗き込んだ。人間の友達は泣き出しそうなほど悲しそうな顔をしているけれども、クレイドールの友達はみんな、晴れやかな顔をしている。これから私の元に神様が来ることと、今この瞬間までカナデに愛されてしあわせだということがわかっているからだろう。
ベッドの側に友達が集まる中、お母さんの声が聞こえて、友達がなにかを受け取っているようだった。
人間と人形の手がいくつも伸びてきて、私の周りに花を置いていく。お母さんはみんなにこれを配っていたのだ。
みんなが置いたのは、色とりどりのガーベラだ。友達みんながガーベラを私の周りに置き終わると、カナデが私から手を離して、そっと私の顔の側に、黄色いガーベラを置いた。
オパルやソーダ珪灰石のような香りに包まれて、私は目を閉じる。胸の核が刻む脈がだんだんと速くなる。きっと、最期の明滅を繰り返しているのだろう。
ああ、私はなんてしあわせなのだろう。友達に、それになによりカナデに見守られながら、愛を一身に受けて神様のお迎えを待っているのだ。
さようなら。その一言は言えないけれども、みんながこれから先、今の私と同じようにしあわせでいられるように。そう願った。
そして最期のときが来た。瞼を閉じていてもわかるほどに眩しい光を胸の核が発したのだ。
さようなら。みんな、さようなら。
……そう思ったのに、最期の時を迎えたはずなのに、不思議と私にはまだ意識があった。
恐る恐る瞼を開けると、そこに神様はいなくて、代わりに、ぽかんとした顔のカナデと友達がまだそこにいた。
何故私は生きているのだろう。不思議に思う気持ちと同時に、今までに感じたことがないほど、心の中に湧き上がる強い自我に気付く。
私は青鉛鉱になったのだ。
ゆっくりと起き上がり、胸の核に触れる。いままでなにものでもなかった核が、青鉛鉱に姿を変えているのがはっきりとわかった。視界に入る自分の髪も混じりけのない青色になり、肌の色も緑がかった白いものへと変わっていた。
私は新しい自分になった。それをみんなに伝えなくてはいけない。きっと、最期を迎えず生き残り、そんな私の姿が急に変わって驚いているだろう。
私が改めてみんなの方を向くと、みんななにが起こったのかわからないといった顔をしている。カナデも涙を頬に乗せたまま、呆然としている。
そんなみんなに、私は胸の核を見せ、微笑んでこう言った。
「私は青鉛鉱のミネオール。
今後ともよろしく」
すると、一瞬静まりかえってから、喜びの声が上がった。ミネオールという、少なくともここにいる誰もが生きたものを見たことがない希有な存在が現れた瞬間に立ち会えたから。というのもあるのだろうけれども、それ以上に、今まで一緒に楽しい時間を過ごしてきた私の寿命が、ミネオールになることで延びたことを喜んでくれているようだった。
ずっと私の側にいたカナデは、またぼろぼろと涙を零して、くしゃくしゃになった顔で笑う。そして、涙も拭わないままに、私のことをまた強く抱きしめた。
「リナ、またこれからも僕と一緒だよ。
また今までどおり、一緒に歌ったり踊ったりしよう」
私も、カナデのことを強く抱きしめ返す。ミネオールになってどれくらいこの先の寿命が延びたのか、それは私にはわからなかったけれども、それでもまたしばらくは、カナデの側にいられるのだ。今までのような輝かしい日々がまた待っているのだと、それがどうしようもなく嬉しかった。
いつかカナデが言ったように、本当に一緒に舞台に立つことができるかもしれない。その夢を叶えることができるかもしれない。そんなささやかなような、大きいような夢を、人形の私でも、こうやってミネオールとなることで寿命を延ばし、掴むことができるかもしれないのだ。
それを思うと、最期を迎えると覚悟したほんの数分前とは違う幸福感が、私の中を満たしていった。
私が青鉛鉱のミネオールとして生まれ変わり、新しい自分になっても、カナデとの生活はほとんど変わることがなかった。
生まれ変わった当日に、友達だけでなく近所の人にも盛大に色とりどりの花で祝われたけれども、それももう過ぎたことで、きっとまたいつか、先の未来やもう一度最期を迎える時に、あの日のことを振り返って懐かしめる、愛しい思い出になるのだろう。
クレイドールだった頃と変わらない今まで通りの生活。カナデが学校やお稽古から帰ってきて、バイオリンの練習をして、それに合わせて私が歌って踊って。そんな楽しくて輝かしい日々をまた何日も繰り返した。
ただ、敢えて変わったところを挙げるとするならば、私が食べる石が青鉛鉱だけになったというところと、時折カナデの友達から羨望の眼差しで見られるようになったところだろうか。
羨望の眼差しはともかくとして、クレイドールだった以前の私はどんな石でもおいしく食べられたのだけれども、ミネオールになってからは、他の石を食べると妙に違和感が出るようになってしまったのだ。
それは少しだけ不便だけれども、それでもカナデは私のために、毎日青く光を照り返す、きれいな柱状の青鉛鉱を用意してくれた。
カナデも毎日忙しいのに、買い物をお母さんに任せっきりにせず、自分で私のために少しでも良い青鉛鉱を選んで買ってきてくれるのが、いつもうれしい。私は本当に、カナデの元に来て良かったと思うのだ。だって、私はこんなにも愛されているのだから。
こんなにもすばらしい、カナデと過ごす日々がいつまでも続いて欲しい。私はミネオールになったといえども人形で、人間のように長生きすることはできない。けれども、それでも、輝かしくしあわせな、こんな何気ない毎日が続いて欲しいと思うのだ。
それが永遠であるようにと願うようになってしまったのだ。
これは、ミネオールになったが故の傲慢だろうか。クレイドールだった頃は考えもしなかった、永遠に憧れてしまうなんてことは。
私がミネオールになって数年が過ぎた。その間に、私がミネオールになる瞬間を見届けてくれた何人ものクレイドールの最期を見送った。あの時の友達はもうみんな、ミネオールとなることもなく神様の所へと行ってしまったけれども、誰もなにも、私のように生きながらえたいと言うことはなかった。
もしかしたら、私のようにまだまだ長く家族の元にいたいとは思っていたかもしれないけれども、それでもみんな、私を羨むことなく。自分の家族と友達に見守られながら、核が砕ける最後の瞬間を迎えた。
そう、みんなの最期の時、本当に神様は迎えに来てくれていた。神様が迎えに来て、それを見て、君はここにいた。そしてここにいる。という神様の言葉を聞いて、残された人達は安心できるのだとわかった。もしかしたら、神様の言葉を聞いて、最期を迎えたクレイドールも安心していたのかもしれない。そのことを訊ねることは、できないけれども。
神様の元に行ったクレイドールは、みんな家族に愛されていた。家族からの愛情を一身に受けていることをクレイドール達はわかっていたのだろう、最期を迎える時、安らいだ顔をしていない人形はただのひとりもいなかった。もしかしたら私も、クレイドールとしての最期を迎えた時、あんな表情をしていたのかもしれない。
私は友達のクレイドール達から残されてしまったけれども、それでもいつか、しあわせな最期を迎えるのだと思う。クレイドールは寿命を迎え、ミネオールになった友達はいない。だから、人形の友達はもういないけれども、大事な家族、カナデに見守られながら、もう一度来る終わりを迎えるのだと思う。
時折終わりの時のことを考えながらカナデと大切な毎日を過ごして、そうしているうちに、カナデが音楽の学校に通うことになった。
その話を聞いた時、私はとても嬉しかった。奏とふたりで抱き合って、夢に近づいたと、夢の端を掴んだのだと喜び合った。
私は、カナデが音楽の学校を卒業するまで、本当に生きながらえることができるのだろうか。その前に寿命を迎えてしまうのではないか。そんな不安はあったけれども、それでも、一緒に舞台に立つことができるかもしれないと、そんな淡い希望を再び抱いた。
晴れやかな顔でカナデが私に言う。
「リナ、僕、これからももっと頑張るよ」
「うん」
私の返事に、カナデが私を抱きしめる。
「だから、これからも僕の側にいて」
「うん、もちろん」
カナデの決意とかわいいお願い。そのふたつを聞いて、私がカナデの側から離れることができるはずはない。ずっとずっと、今までと同じように側にいるのだ。ミネオールとしてのこの命が尽きるまで。
カナデが音楽の学校に通い始めて二年ほど経った。その間、カナデは学校で過ごす時間が長くなり、私が思っていたよりも、一緒に過ごせる時間は少なくなった。きっとカナデは、学校で楽器の練習や音楽家としてやっていくための勉強を、真面目にやっているのだろう。だから帰りが遅いのだと、そう思った。
だからこそ、私が一緒にいられない時間も、カナデは音楽家になるという夢を叶えるために毎日毎日頑張っているのだと思えば、一緒にいられない時間を我慢できた。寂しくないと言えば、嘘にはなるけれども。
カナデが学校から帰ってきたら、夕飯の時間まではバイオリンの練習の時間だ。私はその時間が待ち遠しい。カナデの演奏に合わせて、一緒に歌って踊るその時間が、私にはかけがえのないものだった。カナデが子供の頃から変わらない、音楽と共にふたりで過ごす時間。なんて愛おしくて輝かしい瞬間なのだろう。この時間の貴さは、どんな花にも代えられないと思った。
カナデは、音楽の学校に通うようになって、以前よりももっとずっと忙しくなった。それでも毎日、私が食べるための青鉛鉱を、自分で選んで買って来てくれる。きっと、少しでもおいしいものをと思って探してきてくれているのだろう。カナデが買って来てくれる青鉛鉱は、食べる前からおいしそうな照りと輝きを見せている。青鉛鉱を私に渡す時のカナデは、バイオリンの演奏に合わせて私が歌っている時のように、とても優しい。
カナデが学校に行っていて家にいない日中は、お昼時にその青鉛鉱を少しずつ口に含んでゆっくりと舐めて溶かしていく。細長い柱状の、混じりけのない青色をした、舌に絡みつくような味の中に、ほんの少しだけ刺激的な味が混じっている青鉛鉱を口に含んでいる間は、カナデがいない寂しさを忘れられるし、これを私に与えてくれているカナデの愛情を、ひしひしと感じられるのだ。
いつものようにゆっくりと青鉛鉱を食べていると、ふと、家の外から元気な声と足音が聞こえてきた。それを聞いて、なんとなく窓から外を見てみると、小さな子供が、かつての私と同じように、白い髪に土色の肌をしたクレイドールとはしゃぎ回っていた。
あのクレイドールも、今は深い青色の髪とうっすらと緑がかった白い肌のミネオールになった私と同じように、あの子供に愛されて日々を過ごしているのだろう。私は特別な人形といわれるミネオールになったけれども、人間に愛されるのは、クレイドールも同じだ。人間に愛されることに疑問を持たず、同じように愛することにも疑問を持たず、家族や友人と日々を過ごす。そんな輝かしい日々は、ミネオールとクレイドール、全ての人形に共通するすばらしいものだ。
ふと、今窓の外を駆けていった人形のように、私が特徴を持ちきれていなかったクレイドールだった頃のことを思い出す。今よりもカナデと一緒に過ごす時間が長くて、一緒に歌って踊る時間がずっと長くて、それだけを取ると、ミネオールになった今よりもしあわせだったようにも思える。
でも、本当は昔も今も、なにも変わらずしあわせなはずなのだ。だって、小さな頃になんの目標もなく、いやいやながらに学校に通っていたカナデが、今では大きな夢を持って、その夢が目標になるまで頑張って、少しずつ近づいているのだから。それが私にとって嬉しいことでないはずがないのだ。
ミネオールという新しい自分になった今なら、私だって夢を見られるのだ。カナデと一緒に舞台に上がるという夢を。もしかしたらそれは、儚いものではあるかもしれないけれど……
カナデが音楽の学校に入って数年、ある夏の日に、カナデも無事に卒業の日を迎えられた。毎日演奏の練習をして、音楽家になるために必要な勉強もして、そうやって頑張ってきたカナデを見ていた私も、卒業できると聞いて安心したし、とても嬉しかった。
卒業式には、私も一緒に参加した。カナデ以外の生徒は、もうみんな、かつて家族だった人形、そう、きっと主にクレイドールが、もう何年も前に寿命を迎えて過去のものになっていて、だからだと思う、カナデと一緒に卒業式の会場に現れた私を、驚きと羨望の眼差しで見ていた。
自分の人形がいる場合、卒業式に連れて来てもいいというのは、大体の学校である規則だ。カナデが今までに卒業した学校の式典にも、私は一緒に参加していたので、そのことを知っている。カナデがまだ子供の頃、まだ友達がみんなクレイドールと一緒に過ごしていた頃は、式典に参加する人形も沢山いたのだ。
けれども、もう子供ではないカナデの元に人形である私がいるというのは、他の参加者にとってあまりにも意外なのだろう。もしかしたら、博物館で命を終えたミネオールを見たことはあっても、私のような生きたミネオールを見るのは、みんなはじめてなのかもしれない。
けれども、みんなその驚きと羨望をカナデへの攻撃性へとは変えなかった。温かい眼差しで私のことを見て、受け入れてくれているように感じた。
きっとみんな、自分の人形もまだこのように生きていたなら、卒業式に連れて来たかったと思っているのかもしれないし、過去に一緒に式典に出たことを思いだしているのかもしれない。もっとも、それは私の与り知らぬところだけれども。
卒業式が始まり、卒業証書の授与がはじまる。真っ先に呼ばれたのは、カナデだった。私はいまこの時に知ったのだけれども、カナデは今年度の主席だったのだ。
卒業証書と祝福のあかしであるチューベローズの花冠をを受け取った後に生徒代表として長めの挨拶をして、私の元へと戻ってくる。微かにチューベローズの温かい香りがする。それから、席に座って小声で私に話しかけてきた。
「驚いた?」
その言葉に、私ははにかんで返す。
「びっくりした。でも、おめでとう」
カナデが私の手を握る。私もカナデの手を握り返す。きっとカナデは、このまま夢を現実のものにするのだろう。それなら、きっと間に合う。私の寿命が来る前に、一緒に舞台に立つことが出来る。この時の私はそう信じて疑わなかった。
卒業生みんなが卒業証書とチューベローズの花冠を受け取り、式典会場の中が香りに包まれる。きっとカナデだけでなく、他の沢山の生徒も、夢への足がかりを見つけているのだろう。その生徒達の中でも一番優秀だと言われたカナデが、夢を叶えられないはずはない。私はそう確信した。
音楽の学校を卒業したカナデは、そのまま音楽団に入った。かなり有名な音楽団のようで、私も聞いたことがあるところだった。
そこでもカナデはやっぱり練習をたくさんしているようで、そう、名だたる音楽団なのだから、たゆまぬ鍛練を積むことが要求されるのは当然で、家に帰ってくる時間はあいかわらず遅かった。それが寂しくないといえば嘘になるけれども、カナデにとって楽器の練習はどうしても必要なことなのだということが私にもわかっているので、家で帰りを待つのもつらくはなかった。
それに、このまま練習を続けていれば、カナデは音楽家として大きな舞台に立てる。カナデが小さな頃に抱いた夢が、もう目の前にあるのだ。そのことを応援しない道理があるだろうか。私だけでなくお母さんもお父さんも、その日を楽しみにしているのだ。家族みんなで、カナデのことを応援していた。
そして、カナデが音楽団に入ってから数ヶ月が経った頃、カナデが演奏会で舞台に立つことが決まった。いくら音楽の学校を首席で卒業したからといって、はじめから目立つパートを任されるわけではないけど。とカナデは言った。でもそんなことは私には関係なかった。
カナデが舞台に上がるという話を聞いた時とても嬉しくなったけれども、同時に少しだけ不安になった。カナデはもうずっと、楽器の練習をしていたから舞台に立つことに疑問はないけれども、今まで歌の練習をしてはいたけれども、楽器の練習をしたことがない私が、本当に舞台に立つことが出来るのか、それがわからなかったのだ。
「ねぇ、私は本当に、一緒に舞台に立てるの?」
胸の中の不安をカナデに打ち明けると、カナデはにこりと笑ってこう答えた。
「僕と一緒に育ったミネオールだからって言ったら、団長が僕の隣に、リナ用の席を用意してくれるって」
いくら私がミネオールだからといって、そんな特別扱いを本当にして貰えるのだろうか。それが疑問で、もう一度カナデに訊ねる。
「本当に?」
するとカナデは、私の目をじっと見て、こう答えた。
「うん、本当。
練習の時も、僕の隣にはリナの席があるんだよ」
それを聞いて、思わずカナデに抱きついた。私は本当に、いつか約束したように、カナデと並んで舞台の上にいけるのだ。人間よりもずっと寿命の短い人形でも、夢を叶えることができるのだと、嬉しくて仕方がなかった。
その日から、毎日が過ぎるのが待ち遠しくなった。カナデが舞台に立つ日が待ち遠しい。はやくその日を迎えたい。そう思えて仕方がなかった。こんなに早く毎日が過ぎて欲しいと思うことははじめてだった。だって、今までは毎日が過ぎれば過ぎるほど私の寿命は迫ってくるわけで、だから、少しでもカナデの側にいる時間が惜しくて、時間の流れがゆっくりになればいいのにと、そう思っていたからだ。
けれども、今は違う。毎日が早く過ぎて、カナデと一緒に夢の舞台に上がれるのがどうしようもなく待ち遠しかった。
けれども、そんな風に時間が早く過ぎて欲しいと思っているある日のこと、私は気づいてしまった。かつてクレイドールとしての最期を迎える前と同じように、自分の胸にある核が打つ脈に、異変があることに。
どうして。あともう少しなのに。もう少しだけ生きながらえられれば、私はカナデと一緒に舞台に上がるという夢を掴めるのに。
私は夜、カナデが眠ったあとに、彼の隣で神様に何度も何度も祈った。
神様お願いです。あと数日でいいから、カナデと一緒の舞台に上がるまででもいいから、私を生き長らえさせて下さい。
そして、神様は私の願いを聞き入れてくれたのかもしれない。胸の核の異常な脈は少しだけ落ち着いて、なにごともなく数日を過ごすことができた。もちろん、カナデが練習するバイオリンの音にお合わせて、歌って踊ることもできた。そのことに私は安心した。
カナデが音楽家になってはじめての舞台に立つのは、明後日だ。あと二日、それだけ生きることができれば、私は夢を叶えられるのだ。そう思い、いつも通りにカナデと一緒にベッドに潜る。あと二日ならきっと、きっと大丈夫……
けれども、そう思って安心した次の日、まだ朝日も昇らない暗い時間に、隣で眠るカナデが目覚める前に私は察した。胸の脈がまた乱れはじめていて、もう間もなく私は寿命を迎えるのだ。胸の核に手を当てる。どことなく熱を持っているようで、これもクレイドールとしての最期を迎える時の核の状態に似ていた。
せめてカナデが起きている時に最期を迎えたい。そう思って、隣で眠っているカナデを揺すって起こす。
「……おはよう。どうしたの?」
まだ眠いのだろう、暗い部屋を見渡してから私を見てぼんやりとそう言うカナデに、私は縋り付いてこう告げた。
「私、もう寿命みたい」
それを聞いて、カナデはどんな顔をしたのだろう。すぐさまに、いつの間にかたくましくなったその腕に、しっかりと抱きしめられた私は、まだカナデの顔を見ることが出来ないでいた。
カナデが、ゆっくりと私の頭を撫でて、私の髪を指で梳いてから体を離す。
「あとどれくらい持ちそう?」
そう言って私の顔を覗き込むカナデの表情は真剣そのもので、今にも泣きそうで、それを見た私は胸に手を当てて答える。
「あと、二十分くらい」
するとカナデは、わかった。と言って、ベッドから抜け出し私をそのままベッドにもう一度寝かせる。それから、一旦部屋から出て行った。
カナデのいない部屋でしばしぼんやりとする。きっと、他の家族を呼びにいっているのだろう。でも、それにしては随分と静かだ。そう思っているうちに、カナデは戻ってきた。髪の毛を梳って整えていて、すぐさまに、部屋の中で着替えをはじめた。着ているのは、きっと明日の演奏会で着るのであろう黒い服だ。
演奏会での正装であろう服に着替え終わったカナデは、私の頭をまた優しく撫でてから、ぎゅっと手を握ってこう言った。
「お願い、最期に僕の演奏を聴いて」
私は黙って頷く。身体が重くて、そうするので精一杯だったのだ。
クレイドールとしての最期を迎えた時のように、頭がぼんやりとする。けれども、目に見える景色も耳から入る音もどちらも鮮明で、カナデが固いケースを開け、そこからバイオリンを出して、演奏の用意をしている音がつぶさに聞き取れた。
バイオリンの弓が弦に添えられる音がする。そのすぐあとに、カナデの演奏がはじまった。
カナデが音楽家になると言って、お稽古に通い始めたばかりの頃のことが思い浮かぶ。あの頃はバイオリンの練習もたどたどしくて、何度も引き攣れたような音を出して、上手く音を出すことすら難しそうだったのに、今ではこんなに、滑らかで耳に優しい音を奏でている。
カナデが今演奏しているのは、菜の花のお祭りの時に私たち人形が歌う曲だ。
この演奏に合わせて、私も歌って踊りたい。けれどももう、二度目の最期を迎えはじめたこの重い体では、それが出来なかった。
最期にこの曲を聴かせてくれているのは、カナデが今までも、これからも、ずっとずっと私を愛しているというメッセージだろう。それを今、妙に冴え渡っている耳で受け取って、明日一緒にはじめての舞台に立つという夢が叶えられなかったとはいえ、私は今、確実にしあわせだった。
カナデと部屋でふたりきりで、彼と彼の演奏を独り占めして最期を迎える。こんなに静かで、けれども華やかで情熱的な、望ましい最期があるだろうか。少なくとも私には、今できる可能な範囲で、これ以上しあわせな最期があるとは思えなかった。
胸の核の明滅が激しくなってくる。ゆっくりと目を閉じて、最期の最期までカナデの演奏を聞き逃さないようにしようと音に集中する。
カナデが奏でている音はあまりにも優しくて、胸の核の脈が異常だと気づいた時のような焦りも、悲しみも今はない。ただただぼんやりとしているけれども体全体を包み込むような幸福感に身を委ねることができた。
今度こそ、本当にカナデとお別れだ。ミネオールがこれ以上寿命を延ばすことはない。けれどもそれは悲しいことではないのだと確信する。私はカナデに、喪うと言う事を教える大きな役割を果たすことができるし、カナデよりも早く旅立つのは遅かれ早かれ避けられないことだからだ。
心の中で、さようなら。と呟く。すると、カナデの演奏が突然途切れて聞き覚えのない声でこう聞こえた。
「君はここにいた。そしてここにいる」
頭の中に響くようなその言葉を最期に、私の意識は途切れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます