第49話「最期」



「慎司くん!!」


 涼音の声が響く。

 しかしその声に返答する人はいない。慎司はうっと小さく呻き声をあげたかと思うともんどりとうって倒れた。その腹部からはじわりと血が滲み出ており鉄が錆びたような匂いが立ち込めてくる。


 まさか刺されるとは思わなかった。

 慎司は腹部の熱い痛みを耐えながら自分の油断を呪った。

 相手の会話にのめり込み、つい手元を警戒することを怠ってしまった。それだけではなく、余裕がなかったこともあって涼音を突き飛ばしてしまったことでもしも涼音自身が自力で逃げようとしていたならば余計なことをしてしまったと言う後悔もあった。


「ありゃりゃ......。まさか本当に刺してしまうなんてなぁ!俺ってばなんて殺人鬼なんだろうな」

「慎司くん!慎司くん!ねぇ、返事して!!」


 涼音は刃物を持ってこちらを睨みつけてくる殺人鬼に警戒の視線を向けながら慎司の身体を揺さ振った。あまり揺さぶらない方がいい、と世間では言われているがそんなことは関係ない。むしろすっかり忘れていた。涼音は慎司しか見えていないように瞳に涙を浮かべながら必死にその名前を呼んだ。


「まだ、生きてるよ」

「まだとか言わないでっ!これからも慎司くんは私と一緒に生きるの!もうすぐ助けが来るはずだから気をしっかり持って!!」

「涼音ちゃん......」

「何?」

「僕を置いて逃げて。......どこかの家に隠れて」


 慎司は必死に言葉を紡ぐ。

 涼音の安全。それが慎司の唯一危惧するところである。自分の身柄はどうなろうがどうでもよく、最悪死んでも構わない。それで涼音は傷ついてしまうかもしれないが、一緒に死ぬよりも涼音には生きていて欲しいのだ。


 そしてその涙は慎司がこの世界で生きた証にして欲しい。


 慎司は段々と意識がぼやけていく中でそう思っていた。他に何も望まず、何も必要としていない。考えることは何もなく、ただ願うは最愛の妻の安全のみ。


 殺人鬼はいつでも殺せる二人をじっと眺めていた。殺そうと思えばいつでも殺せる。駆け寄るときに見せたあの警戒はもう跡形もなく消え去っており、今ならば動いたところで反応しきれないだろう。

 彼はそう断定したがそれでも動こうとはしなかった。


「夫が刺されたって言うのに悲鳴の一つもあげないとはなかなか肝が座ってるじゃねぇか」

「殺人鬼に褒められても嬉しくとも何ともないわ」

「救急車は呼ばないのか?一分一秒が生死の分け目かも知れないぜ」

「必要ないわ。旦那様は私が守るもの。他の人には任せられない」

「言ってることが意味不明だぜ?殺人鬼でも人を治すところが病院で病院に運ぶために救急車を呼ぶことは知ってる。愛する夫が死にかけてつい頭がおかしくなったか?」


 短い問答。

 涼音は頑として救急車を呼ぶために電話に手をかけるようなことはしなかった。それは殺人鬼自身が勧めてきていることから何か裏があるのではないか、具体的には涼音が電話をかけようとした瞬間に片腕を不自由な状態にしていることから切りつけられるのではないか、という可能性を捨てきれなかったからである。

 それに慎司が事前に呼んでいた翔御用達のプロ集団がそろそろ到着するはずである。彼らはもちろん非公式なので、できるだけ目立つことは避けたいのだ。救急車を呼べば確実に目立つ。だからそれを避けるためにも救急車という手段は選べない。


「私は至って正常よ。異常な人には正常な人のことはわからないわ」

「言ってくれるじゃねぇか、俺は今すぐにでも殺すことができるんだと言うことはわかっての言動なのか?」

「本当に殺せるのかしら」

「試してみるか?」


 じりっと緊迫する雰囲気が涼音と殺人鬼を支配する。

 涼音はこの状況にわざと持っていきたかったのだ。不意打ちに対してはどうしても対処が遅れてしまう。それは職業軍人ではないので仕方のないことであり、人間である以上はどうしても超えることのできない壁である。


 しかし、一度戦闘態勢に持っていくことができたのならば、突然に刺突されると言うことは限りなく低くなる。しっかりと相手を見据えて攻撃の瞬間に回避行動をとればいい。


 涼音はそれでも、と唇を噛んだ。

 それはあくまでも能力がある程度まで同じだったらの話である。涼音と殺人鬼では渡り歩いてきた場数には雲泥の差があるであろう。それに単純に男女の力の差も考慮すると確実に涼音には白旗しか残っていないように思える。


「おうおう、涼音さんが戦うのか〜。でもそれはできれば安全な相手の時の方がいいと思うよ〜」


 突然闇夜に降りかかる第三者の声。


 その声に涼音はパッと瞳を輝かせ、慎司は安心したように表情を緩める。

 その声の主はそんな腑抜けたような声を漏らしながら、殺人鬼の腹に重い拳を一度喰らわせた後、ひょいっといとも簡単に持ち上げて砲丸投げの要領で全身を回転させて遠心力をつけると放り投げ、近くの電柱に衝突させた。


 涼音はあまりの怪力さに目を丸くしてその人を見た。


「たとえば、俺とかな」

「いやぁ、遠慮しときます」

「大丈夫。俺は投げ飛ばしたり組み伏せたり腹パンしたりしないから」

「えっと......。今度慎司くんとお願いします」

「わかった。サウナ帰りに付き合ってやろう。お〜い、慎司、起きてるか?」


 翔が派遣したのはカルマだったようだ。

 カルマは高校生の時からその怪力ぶりが知られているので抜擢されたのだろう。翔がカルマに桜花の親衛を任せるとは思えないのだが、そこは二人で何かしらの約束事があるのかもしれない。


 カルマは慎司の刺された箇所を見て、低く唸った。


 慎司が刺された箇所が思っていたよりも深く抉られていてカルマ程度の医療技術では到底回復させることは不可能だ。ここで涼音は自分が選択を間違えてしまったことを察した。もしも事前に来るのがカルマだけだと知っていたならば、涼音は容赦なく自分の片腕を切り落とされようとも救急車を呼んでいただろう。しかし現実は多くの人数が来るだろうと想像していたために呼ぶことをしなかったのだ。


 これから呼んだとしてももう遅いだろう。


「カルマ先輩......。きてくれたんですね」

「あぁ、きたぞ。慎司を刺したやつは今、電柱の下でピクリとも動かないぞ」

「気絶してるだけでしょう?そんな言い方しないでくださいよ、死んだんじゃないかって思いますから」

「結構思い切り飛ばしたからなぁ。もしかしたら伸びきってるかもしれない」

「えぇ......」

「そんなことよりも慎司の身体の方が最優先だ。涼音さんが止血はしてくれていたみたいだがあまりに出血が多すぎる。これじゃあ身が持たないぞ」


 しばしの沈黙があった。

 雰囲気はもう諦めかけているような感じを漂わせている。しかし涼音はまだ自分に手が残されていることを知っていた。自分のことがこれで嫌われてしまうかもしれないと言うことをなんとなく察していながらもこの事態ではそんなことよりも慎司の命の方が大事だと考え、涼音は勇気を振り絞って声を発した。


「私なら、治せます」

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