第48話「恋」


「恋?」

「そうよ、あなたは誰かを好きになったことはないの?」

「ない。俺は金と食料にしか興味がなかったからな。殺人だって興味はない」

「その人を知りたい、もっと近くにいたい、もっと笑顔を見たいとか、心から溢れ出してくる情熱的なものが「恋」よ」

「じゃあ俺はお前に恋をしているのか?」

「そうなんじゃない?知らないけど」


 涼音は少しぶっきらぼうな口調で返した。その理由はすぐにわかる。慎司がショックを受けたように固まっていたからだ。慎司と涼音は夫婦である、と言うことは慎司が「お嫁さん」と言った時に明らかになっていることであるし、それを抜きにしても連れ立っている男がその場にいるにも関わらず、遠慮もなしに恋をしている、と言い切ってしまったことに慎司は驚きと呆れが限界を超えて固まってしまった。


 涼音が背後からゆさゆさと揺らしてくるがされるがままで反応は薄い。


「この気持ちはどうやったら抑えられるんだ?」

「だ、旦那様!そう言うことは慎司くんの方が詳しいでしょう?ま、任せたわ」

「え、あ、うーん」


 正常な慎司ならばそもそも抑えようとしたことがないのでどうすればいいのかなどわかるわけがないので、すぐに断っていたはずなのだが、心ここに在らず、といった感じの慎司は呆けた声で了承の意を返したのだ。


「おい、どうすればいいんだよ」

「どうすればって......まずは自分がどうしたいかじゃないの?」


 少しご機嫌が斜めになってしまった慎司は冷たい口調で話す。


「恋をするって言うのはその先があるんだよ。その人と一緒に暮らしたい、だとかもっと笑顔を見たいとかさせたい、とか」

「はぁ」

「だから、君はどう言う理由で涼音ちゃんを好きになったんだ?」

「さぁ、一眼見た時に後ろ髪惹かれたってぐらい」

「あぁ、初恋か。......そうだよな」

「あ?何ぶつぶつ言ってんだ?」

「君にはとことんまでに運がついてないねって言ってんのさ」

「ぶち殺すぞ?」

「だってその恋は実らないってわからないかい?涼音ちゃんは僕と結婚しているんだ。付き合ってるんじゃない。籍を入れて手続きをしないと離婚できないようになってる。だから君がここで告白したとしてもその想いは届かない」

「そ、それはわからないわよ」


 ここで何故か涼音が割り込んできた。


「私だって人間だから誰かに意識が向いてしまうことだってあるわ。だから可能性はゼロじゃないの」

「ちょっと......涼音ちゃん?」

「なんか笑えるな。お前、ちょっと調子に乗っただろ」

「うるさいな。僕だって必死なんだよ。どいつもこいつも涼音ちゃんを見ればその不躾な視線をぶつけてきて、不快にも程がある。多くの人が涼音に一目惚れして僕が隣にいるにも関わらず求婚してくるのは腹が立つ」


 その時には涼音が「あなたは隣に人がいることがわからないのですか?私はこの人と結婚していますけど?」とばっさり切ってくれたので嬉しかった。


「まぁ、お前が腹が立とうが何をしようがどうでもいいんだが、そうか、これが恋か」

「そうよ。多分断るけど、一応告白とかしとく?」

「涼音ちゃんのノリが軽すぎる......!」

「旦那様が重すぎるのよ。私が殺人者の告白を素直に受けると思ってるの?」

「いや、そう言うわけじゃない」

「でしょ、だったら私を信じて」


 涼音と慎司はこっそりと話し合う。


「どうせ無駄になるだろうから遠慮させてもらう。それに俺が好みのタイプはもっと胸の大きい人だ」

「ちょっと慎司くん!!あの人どうにかして」

「暴れないで。忘れちゃダメなのは彼は殺人犯でナイフを隠し持っているかもしれないってことだよ」

「ほう、なかなかに鋭い」


 彼は背中から一本のナイフを取り出した。

 脱走してから数日の間にどこかで調達してきたらしい。それもそれのはず、最近明らかになったことだが犯罪者で連携が取れるサイトがあるらしいのだ。きっと彼はそれを使って武器を調達したのだろう。生きていくためならば何だってしてみせると言う信念を慎司は感じた。


「取り出したと言うことは僕達を殺す気だって言うことか?」

「まぁ落ち着けよ。散々言っているように俺だって人殺しはしたくない。後々面倒だしな」

「だったらどうして取り出した」

「どうして取り出したと思う?」

「殺す準備をするため」

「お、正解。お前よりも賢そうだな、お嫁さんは」


 涼音は単調に一言ぽつりと呟いた。

 殺すため、と殺す準備をするため、では少々意味が異なる。同じでいるようで実は意味が全く違う。


 要は段階が違うのだ。何もしていない状態から、警戒状態へと移行する。その時には武器を所持して警戒を怠らないようにする。そしてさらに危険になった時に殺すのだ。


「僕達を狙う理由は何だ?」

「理由ならさっき片付いた。それに殺す理由は俺にはない。だって通り魔だぜ?通り魔は理由のない殺人を犯すからこそ恐ろしいと思われるんだよ」

「これ以上人を殺して何になる。僕達を殺して何の理があると言うんだ」

「おっ、やっと自分が殺されるかもしれないっていう自覚が湧いてきたか。ならもう殺してやろうか?」

「さっきと言ってることが違うぞ」

「殺人鬼の言うことを真に受けるなよ。殺人鬼は何を考えているかわからないんだぜ?最初から殺すつもりだったのに、わざと泳がせて反応を確かめてから殺すのだって、な」


 その一言が一瞬の油断だった。まさか話している時に襲っては来ないだろうと言う慢心が一瞬の判断を鈍らせ、慎司の身体が遅れていく。

 ギリギリのところで涼音を押して涼音には危害を加えないようにしたが、その次の瞬間に慎司の腹に彼の持っていたナイフが突き刺さった。

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