第46話「殺人犯」


 殺人は全て悪である。まして通り魔、なんて殺人は到底許されるべきではない。見境なく何の罪のない人をただひたすらに虐殺していく。それがどうして許される対象となるなどと思えるのだろうか。


 しかし彼はそんなことを考えようとはしなかった。


 そんなことを考えるだけ時間の無駄だと言わんばかりに、ただ本能の赴くままに刃物を振り回した。

 その時だけが彼にとってはっきりと人が生きていると言う感覚を感じることができたからだ。


 切りつければ人は赤い血を流し、息の根を止めれば人は死ぬ。

 そう、人は簡単に死ぬ。

 だから殺す気がなくても死んでしまう。

 殺人犯が総じて「殺す気はなかった」と言うのは自分の加減を超えて人が勝手に死んでしまうから。


 彼の生まれはとても貧乏な家庭だった。物心ついた時にはもう「金」と言う単語がいかに重く、そして必要なものなのかを理解していた。両親は金に溺れて金に揉まれ、巨額の借金を背負い碌な育児もせずに生活した。


 彼はそれが苦ではなかった。なぜならそれが普通だと思っていたからだ。


 世の中で生きていくには金がなければ生きていられない。

 しかし世の中は理不尽で金を得られるところと得られないところがある。

 そして自分はその得られない方の家庭に生まれてしまった。


 ただそれだけだった。


 学校にも行かなかった。

 戸籍登録は一応していたので義務教育は受けることができたのだが家庭が無邪気に教育を受けることを望んでいなかったので彼はその雰囲気に従って一度として学校にはいかなかった。


 まだ学校に行っていれば変わったのかもしれない。


 その歪んだ自我のまま成長するのを止めることができたのかもしれない。


 しかし、それはただの妄想の話だ。現実には学校に行かず、ただ貧乏な家庭のみがそこにあった。

 両親はいつしか消えていた。


 それが闇の取引で金を借り、その金でギャンブルに打ち込んだ挙句、大敗を喫して誓約書の通りに抹殺された、と言うのは警察の取調べの最中に明らかになった。

 忽然と消えた両親に対して彼は特に何も抱かなかった。


 しかし、生まれた時から一緒にいた人が消えてしまったと言う事実はやはり無意識下では何かしらの影響を及ぼしていたのだろう。


 彼は憎くなった。


 この世の中が、人間が構築した社会が、金が、人間が。


 何もかもなくなって仕舞えばいいと思った。


 だから彼は殺人を犯した。

 そこに狂気的な動機はなく、ただ漠然と深い霧に覆われたような彼自身の想いがあるだけだった。どうせならばもう一度、ダメな両親でもいいから会いたい。どうせならもう少しいい暮らしをしたい。どうせならば学校に通って勉強がしたかった。


 そして彼は捕まった。

 だが逃げ出した。


 運が良かったのだ。いや、一般市民からすれば運が悪かったのに間違いはないのだが。


 ちょうど輸送中の車が鳥の大群に驚いてハンドルを大きく切ってしまい、電柱に衝突。

 警官は全員気を失う中、彼だけが意識をはっきりと保ち逃げ出すことができたのだ。


 別に逃げ出そうとして逃げ出したわけではない。


 身柄が拘束されて不自由なところへと送還されるのがトラブルで自由の身になれるかもしれないという可能性が浮上してきたから彼は車を降りたのだ。


 だからもう一度殺しをしようと言うつもりもなければ警察に自首するつもりもない。


 彼はしかしそこで見てはならないものを見つけてしまったのだ。


 それこそが、涼音だ。

 涼音はとても美しい。慎司に関わらずほとんどの男性がそう思う。彼も例外ではなかった。彼には感情が欠如しているという自覚があったのにも関わらず涼音を見た瞬間に新しい感情が湧いて出てくるのをありありと感じたのだ。


 この感情はいったい何なのだろうか。本人に聞いてみたらわかるのだろうか。


 彼の心は初めて色々なものを見る少年の心のように探究心に満ち溢れていた。


 そんな正の感情がある中で隣にいた男に視線を向けるとその幸福感が一気になくなってしまい、逆に負の感情がめらめらと湧き上がってくるのを感じた。


 しかし彼にはそれが負の感情であるとか、正の感情であるとかはわからない。

 だからただただこの今までに味わったことのない感覚は何なのだろうという疑問だけが彼を突き動かしていた。


 後をつける。

 おそらく気付かれているだろう。彼も尾行は得意ではないので足がつきやすいのだ。だが、それでいい。誰かにつけられていると言うことさえ相手に分かれば何かしらの行動をするだろう。

 その時に確かめればいいのだ。


 そして彼は背中に声をかける。


「おい、どうして気づいているのに気づいていないふりをするんだ?」

「......」

「もう一度だけ、聞く。どうして気づいているのに気づいていないふりをするんだ?」

「......その方が僕にとって幸せだからだ」


 その背中がくるりと振り返り、慎司が真っ向から彼と対峙する。涼音はその後ろに隠れている。


「俺と話す方が幸せになるかもしれないぜ?」

「どうかな、今の所、僕は全く幸福感を感じてはいない」


 ぎりっと見つめる視線にちくりと刺さるものを感じる。彼はあの時の感覚を再び待ち望んでいる身体がブルリと震えたのを感じた。

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