第43話「休業」


 翔に自宅待機をするように申請してから数日。翔也にも調べたらしく、当分は仕事をセーブするようにとの連絡が慎司の元へ入った。


「涼音ちゃん、しばらく仕事をお休みすることになりそう」

「あれ、どうして?旦那様の仕事は外出とか関係ないお仕事じゃなかったの?」

「そうなんだけど、翔先輩が急に休めって」

「優しいところもあるのね」

「多分だけど、これって翔先輩が言い出したんじゃなくて桜花さんが「新婚さんなのですからしばらく休ませてあげたらどうですか?最近、慎司さんにお仕事をふりすぎだと思うのですが」とか言ったに違いない」


 慎司が桜花の口調を真似ていうと、涼音は少し怒った表情を見せた。慎司のモノマネははっきりといえば全く似ていないし、涼音は桜花と仲が良くなり、それなりに親近感なども湧いていたのでバカにしたような慎司のモノマネがあまり好きではなかったようだ。


 慎司としては全くそのつもりはなくて、ただ真似をして見ただけなのだが、少し機嫌の悪くなった涼音を見て、このモノマネはやめておこう、と思った。


「なら旦那様は暇になったの?」

「まぁ、犯人がもう一回捕まるまでかな。それでも自分でプログラムは作れるから自作してみようかな、とは思ってるけど」

「あんまり詰め込みすぎないでね。また前みたいに身体壊すわよ」

「わ、わかった。気をつけるよ」

「分かればよろしい」


 満足そうに頷いた涼音にあはは、と乾いた笑みを返しながら慎司はパソコンの画面と向かい合った。


 今、慎司が作っているのは自分で一から構成したプログラムだ。これがもしも翔に認められれば一人前として認めてもらえるに違いない、という思いで慎司は取り組んでいる。途中経過としてカルマには見せてみたのだが、その時は高評価だったので慎司のモチベーションは今や有頂天に達していると言っても過言ではない。


「ねぇ、旦那様」

「ん?どうしたの?」

「せっかくお休みをもらったのだから私と一緒に休憩しない?最近ご近所さんからお裾分けで美味しそうなクッキーもらったんだけど、食べる?」

「あ、食べる!でもちょっと待って。もうちょっとでいい感じのところまで終わるからその時にもらうね」

「ダメです。慎司くんのもうちょっとは異常に長くて日が暮れそうになる時だってあったから」


 そうは言ってもいいところまで設計しておきたいのが慎司としての意見である。慎司はしばらく悩んだ後、ぱたんとパソコンを閉じた。


 プログラムはいつでもできるが、涼音とのひと時はその時でしか存在しないから。


 涼音はいつも休憩しているようなものではないのか、という疑問は黙ってお句ことにした。


「クッキー食べたい」

「クッキーならそこに並べてあるわ。あ、旦那様はコーヒー?」

「涼音ちゃんは何飲むの?」

「私は......ちょっと高級な葡萄ジュース。賞味期限がそろそろ迫ってるからね」

「あ、じゃあ僕もそれもらうよ」

「はいはーい」


 涼音は軽く返事をすると食器棚からコップを二つ取り出してこぽこぽと注いでいく。


 慎司はそれをみながらいつの間にお隣さんと仲良くなっていたのだろうか、と不思議に思った。


 慎司はここに引っ越して来た時ぐらいしか話したことはない。地域の集まりにも顔を出したことはあるが、お隣さんはお隣さんで他の仲の良い方がいるようだったので、わざわざ話しかけなかったのだ。そのせいか、慎司は地域の人の誰とも話をすることがいつしかなくなってしまったのだが、涼音はその逆境の中、見事に仲良くなったらしい。


 可愛らしい女の子、と言うのが最大の強みになったのだろう。仏頂面でパソコンと睨めっこするようが好きな寡黙な男の子よりは何倍も話しやすいのだろう。


 慎司が自分と涼音を比較して落ち込んでいると、涼音が慎司の前にことり、とコップを置いた。


「ありがと」

「どういたしまして」


 その葡萄ジュースはとても色が濃かった。これぞ濃縮されたジュースだ、と言わんばかりに黒色に近い。

 慎司がその色に圧倒されていると涼音が何を勘違いしたのか、気遣うような言葉を投げかけた。


「飲めなさそうなら私が飲むから無理しないでね?」

「あ、大丈夫だよ。色が濃そうだからびっくりしただけ」

「まぁ何と言っても100%らしいからね。ん〜濃いわぁ」


 涼音はクッキーと一緒に葡萄ジュースを口に運ぶ。

 プレーンのクッキーと100%果汁の葡萄ジュースが口の中でマッチングしてとても美味しいらしい。


 慎司も真似してみたが、それはもう美味しかった。


 クッキーと葡萄ジュースはもちろんのことながら、慎司がこれほどまでに美味しく感じられたのはきっと仕事をセーブしたから、と言うのもあるだろう。

 仕事に追われていた日々が一度止まって、余裕ができ、感情がより激しくなったのだろう。流石にこれで涙腺が潤んで泣いてしまうことはないだろうが、涼音が色仕掛けでもしようものなら簡単にころっとやられてしまう自信がある。


「涼音ちゃん、ちょっとこのクッキー食べてみてよ」

「あ、何それ。色が違う」


 慎司が他のとは違う色のクッキーを見つけて涼音に差し出すと涼音は慎司が手に持っていたクッキーをそのまま口に運んだ。つまりは「あ〜ん」状態になったのだ。


 慎司は咄嗟のことですぐには頭が適応せずに何が何だかわからなかったが、冷静になってくるにつれて、今、涼音に「あ〜ん」をしたのだ、と言う事実を認識した。


 慎司がその事実に対して嬉しいような恥ずかしいような笑みを浮かべると、涼音はにっこりと笑って片目をぱちりと閉じた。


 ウインクに殺される日が来るとは思ってもいなかった。

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