第37話「一杯」


「まだお風呂でゆっくりされているのでしょうか」

「女の子よりも遅いなんて......」

「そういえば、慎司くんはサウナが好きだったはずですから、そこでじっと耐えているのかもしれませんね」

「......う〜む」


 涼音は不承不承に唸った。慎司がサウナ好きということを知らなかったことに対してというよりは、桜花が詳しく知っていること、そして何よりも全く出て来る気配のない慎司に対して、怒りが募っていく。


 そのころの慎司は桜花の見立て通り、サウナの中にいる。しかし、それは好きだから、というわけではなく、カルマによって半強制的に耐久させられているに過ぎない。出ようと思えば出れるものの、カルマが挑発するので、慎司は簡単に乗ってしまい、勝負が長続きしているという状態だった。


 流石の桜花もそこまでは予測できなかったので、二人は不思議そうに視線を合わせて、近くの休憩場所に腰を下ろした。


 涼音も慎司と同じようにお風呂上がりには一杯美味しくいただきたい派なのだが、先に飲んでしまうのは少し罪悪感があったので、じっと我慢している。


「桜花さんは電車でお帰りですか?」

「そうですね、一応、妊婦なので運転は避けてきました。翔くんに連絡すればすぐにきてくれますけど......。どうしましょう」

「なかなか言い出しにくいですよね」

「難しいです」


 苦笑を浮かべる桜花に涼音はある提案を持ちかけた。


「なら、今日は家に泊まって行きませんか?」

「涼音さんの家ですか?」

「まぁ、厳密にいえば私の家ではなくて慎司くんの家ですけど。翔さんもよく泊まっていたようですし慎司くんも許してくれるはずなので」

「とても魅力的な提案ですね」

「そうでしょ?」


 ふふん、と鼻が高くなる涼音だったが、そこにぴしゃりと鋭い一撃を桜花は打ち込む。


「しかし、涼音ちゃんがよく話した方がいいと背中を押してくれたのですよ?」

「......はい」

「今は技術が発達して会話も機会を通してできるようになりましたけど、私は大事な話ぐらいは実際に顔を合わせて話したいです」

「ごめんなさい、思いつきでよく考えずに話してました」

「......ふふっ。嘘ですよ」

「えっ?」

「私の考えに嘘はありませんが、少なくともその理由で先ほどの提案をお断りしたわけではありません」

「?」

「今は新婚さんなのでしょう?だったら部外者を泊めるよりもより二人で親密な関係になった方がいいと思いますよ?」


 桜花が大人の微笑を持って、この場を制した。

 親密な関係、という言葉が涼音の頭の中でぐるぐると回っていく。婚姻届を出してからというもの、その意識がなかったわけではないが、慎司の様子から察するに別にまだそういう時ではないのだろうとばかり思っていた自分が少し恥ずかしくなった。


 夫婦というのは相手がどう出るかではない。むしろその逆でどう自分の好意を相手に伝えて、自分の思い通りにすることができるのか。そこに夫婦の本質があるような気がした。


「一度も関係を結んだことがないのなら、それを望んでみるのもいいと思いますよ。涼音ちゃんは可愛いですし、慎司くんも女性経験が豊富というわけではないので、心配はいらないと思いますが、それでも男性という生き物はついつい付き合っている、または将来を誓い合った人がいても他の女性に目が行ってしまうようですし」


 桜花はまるで自分が経験したかのように語るが、実際に浮気はしていないし、されていない。翔が桜花以外の女性に目が映るはずがないのだが、それを桜花はよくわかっていないらしく、ふと恋心なくして、目が惹かれたしまった時ですら「浮気ですか」と言い寄られてたまに困るという話を翔が慎司に、そして慎司が涼音にしていたので、涼音はあはは、と乾いた笑いを浮かべるしかなかった。


「......桜花さん、酔ってます?」

「私が酔っているように見えますか?」

「顔が真っ赤なだけなら、のぼせたのかな、と思いますけど、明らかに片手に飲み物持ってますよね?しかもそれってアルコール入ってますよね?」

「こう見えて私はお酒に頗る弱いので基本、飲みません」

「基本じゃない時っていつですか?」

「そうですね......。心に過度なストレスが溜まってしまった時や、翔くんが私をほったらかしにした時とか。あとはそうですね、翔くんが私に構ってくれなかった時です」

「最後の二つは多分、同じこと言ってます!」


 涼音は桜花から手に持っていた飲み物を奪い取り、その匂いを嗅ぐ。そうすると、やはり、アルコール飲料特有の匂いがしていた。これは完全に酔っている。出なければ公共の場で親密な関係などとは言わないだろう。


 涼音はこれでは桜花が残念美女になってしまう、と思った。しかし、口を塞ごうか、と考えるぐらいしかできずにオロオロとしてしまう。


「ごめん、涼音ちゃん!もう出てたんだね。......あれ、どうして桜花さんがここに?」

「たまたま一緒になって仲良くなった!!けど、どうしよう旦那様、桜花さんがお酒弱いのにたくさん飲んじゃったみたいで、このままだと公共の場所では到底いえないようなことを言い出すかも」

「あの品行方正で清楚な桜花さんが痴女に......!!」

「そこに喜ぶんじゃねぇよ。その時に慎司がいたってバレたら翔に折檻されるだけじゃ終わらないだろうな」

「カルマ先輩、何とかしてください。僕は涼音ちゃんといちゃついて帰ります」

「あ、お前、今の俺にめちゃめちゃ刺さること言いやがって」


 カルマはそう言いながらも、桜花の介抱をし始めた。こればかりは慎司も涼音も未成年であり経験がない。


 涼音は慎司の服の袖をちょこんと摘んで、くいくいと引っ張った。


「あの人は?」

「蒼羽カルマ先輩。翔先輩の親友で家族ぐるみの仲らしいよ。ただカルマ先輩が家事を何もしないから娘さんとお嫁さんから毎日怒られてる」

「お〜い、慎司!!最後の説明いらないぞ」

「仕事は翔先輩と同等かそれ以上にできる人だから頼りになるんだけど、家事は向いてない」


 涼音は慎司の説明を聞きながらもう一度、カルマを見た。真面目にしていれば真面目に見えるのだろうが、服をだらりと着こなして、全体的にダボっとしている印象を受ける。

 一見すればとても優秀そうには見えないが、そこは慎司の言葉を信じることにした。

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