第36話「嫁会議」


 何事もなかったように普通に会話が始まってしまったのだが、名前を聞いた途端にふと脳裏をよぎったのは翔のお嫁さんの名前もまた「桜花」だということだ。

 桜花、という名前は珍しく、そうそういるものではないだろう。しかし、これほどまでの美女を翔が手に入れたというのも少し考えづらい。涼音は桜花からそういうことを話してくれるまでは深入りはしないようにしようと思った。もしも、何も関係のない人であったならば、不愉快な思いをさせてしまうだろうからだ。


 涼音は桜花と隣に座り、湯に浸かっていた。


「今日はどうして温泉にこられたのですか?」

「えぇっと......。旦那様が入らせてくれるというので」

「もしかして涼音ちゃんはここら辺の人ではないのですか?」

「そ、そうですね。実家は遠いです」

「なるほど、ならば温泉を紹介したいのも頷けますね」

「......?」

「ここは翔くんと慎司さんとが合同で経営している温泉ですからね」


 知りませんでしたか?と問われるので涼音はブンブンと首を振った。そのようなことは一度として慎司は言っていなかった。いや、もしかすると驚かせようとしていたのかもしれないが、それはそれで驚きのあまりに声が出なくなってしまいそうだったので、あらかじめしれてよかった。


 桜花は涼音の反応を見て本当に知らなかったのだと確信したらしく、くすくすと笑った。


 涼音はその衝撃の事実に驚きつつも、桜花の口から漏れた「翔くん」という言葉に反応した。先ほど、これ以上の深入りはすべきではないと結論付けたばかりではあるのだが、ここまで確証に近い言葉が桜花の口から漏れたのであれば、疑わずにはいられないだろう。


「し、知りませんでした」

「もしかしたら、慎司くんは涼音ちゃんに楽しんでもらった上でそのことを話そうとしていたのかもしれませんね。だとしたら先に話してしまってごめんなさい」

「いえ、いいんですよ。多分話されたとしても驚いて何も言葉にできなかったと思うから」

「そう言ってくれると助かります」

「あの、ところでどうして合同で?」

「......どうしてだと思いますか?」


 まさか聞き返されるとは思ってもいなかったので、涼音は反応に困った。どうしてだろうと考えていなかったのだ。少し頭を捻ってみると、答えは案外簡単にそこにあった。


「慎司くんがまだ未成年だから」

「正解です」


 にっこりと微笑まれる。涼音は危うく恋に落ちそうになってしまった。


「未成年の場合、相手から見くびられたり、そもそも相手にされないこともあったようなので、翔くんが慎司くんの能力を保証するという形で合同、と」

「旦那様と翔さんはとても仲がいいんですね」

「えぇ、本当に。手のかかる息子にでも思っているのではないでしょうか。そろそろ本当に子供できるのに......」

「え?桜花さん!!」

「は、はい。何でしょう」

「妊婦さんなんですか??」

「い、いえ違います」

「あの......誤魔化し切れてませんよ」

「実は......今日、判明したことなので、翔くんにはまだ言っていないのです。言わなければならない、と思いつつもどうしても言い出せなくなってしまって、今日は一人で温泉に入りにきたのです」

「そ、そうだったんですね......」


 桜花がまさか妊婦になっていたとは。涼音は今日のこの場が初対面なので、妊婦という言葉に圧倒されつつも、会話を続ける。


「翔くんはまた大きなプロジェクトを始めようとしているらしく、それは慎司くんのところにも話がついているのではないですか?」

「はい、そうですね」


 涼音は前に翔が来た時に話していた仕事の話を思い出した。涼音の能力ではほとんど何を言っているのかがわからず、かろうじて仕事の話だろう、という推測程度した立てられなかったのだが、翔と慎司が一緒になってすることはまず仕事だろう。


「そのような大事な時に妊娠のことを打ち明けるのは如何なものかと......。いえ、言わなければならないということはわかっています。私も翔くんもこのお腹の中で必死に頑張っている子供の親なのですから。......でもやはり、怖いのです」


 涼音はその時、何の言葉もかけてやることができなかった。見た目が16歳の子供に諭される大人、というのもまたおかしな話であるのだが、理解できないわけでもないので、涼音は一人で抱え込む桜花をじっと見つめるしかなかった。


 涼音は文献でしか知識を持ち合わせていないのだが、妊娠するということはそれだけ大きな責任があると考える人が多いらしい。例に漏れることなく桜花もその一人できっと責任感に押し潰されそうになっているのだろう。しかも妊娠当初というのは医師からも看護師からも助産師からもたくさんの情報を与えられる。もちろん、相手が初妊娠だということはわかっていて話してくれるのだが、場数を踏んできた人たちの考えと、初めての人が自分の腕で撮ることのできる情報というのは極めて大きな差異がある。


 桜花は今、辛い状況になっているのだろう。

 涼音は勝手であるながらも桜花の背中を押してあげたいな、と思った。


「翔さんにはしっかりと話すべきですよ。それがどれだけ仕事の忙しい時だとしても、です。だって仕事はいつでもできるけど、妊娠を話すのが遅れてしまうと困ってしまうことが多くなると思うから。......それに、もしも仕事を優先するようなことを言ったら逆に言い返してあげましょう。私と仕事、どっちが大切なの?って」

「......涼音ちゃんは大人びていますね」

「えへへ、よく言われます」

「でもそういうところは年相応の女の子ですね」

「そ、そうですか......?」


 桜花がふっと笑ってくれたので涼音もつられて笑った。


「なら年相応なことを聞いてもいいですか?」

「何でしょう」

「翔さんとの初対面から......その、行為に至るまでを......教えて欲しいなぁ、なんて」

「私達は初対面ですよね?......私は翔くんから「慎司が絶世の美女と結婚した」と教えられていたのでわかっていましたけど」

「初対面ですよ。でも私も慎司くんから「翔先輩のお嫁さんはとっても綺麗だ」と教えられていたのでわかっていましたよ」


 それから二人は顔を見合わせて、何じゃそりゃ、と控えめに笑い合った。

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