第33話「温泉」


 ようやく時間を設けることのできた慎司はその日、温泉に行こう、と誘った。この立地条件の中で温泉に入ったことないというのはとてももったいない。なんだかんだと予定してないことが立て続けに起こり、なかなか誘えないでいたが、今日こそは誰も来客がないので、いくことができそうだ。


「温泉楽しみね」

「大浴場がそこらの温泉よりも格段に広い設計になってるから、開放感満載だよ」

「もっと楽しみになったわ。温泉は覚えていないぐらいに昔に行った記憶しかないから、久しぶりでわくわくしてるわね」

「そうなの?大きなお風呂で疲れを癒してきなよ。ここ最近は涼音ちゃんの知らない人ばかりが押しかけてきて気の休まる日はなかなか取れなかっただろうし」

「私の知り合いが旦那様の家に押しかけてくることはないけど、気を使う日が多かったのは事実だから、お言葉に甘えさせてもらうわ」


 涼音と慎司は温泉に向かいながらの道中でそんなことを言い合った。慎司は今までの押し掛けてきた人々に変わってとても反省していた。一度はもう入れないから、と誓ったはずなのに、色々と理由をつけて、それからも懲りずに家の中に入れたことに対しては何をどうしようとも揺るがない事実であるし、それを引き合いに持ち出されて喧嘩になって仕舞えば、慎司は速攻で白旗を上げるしかない。


 必要なものは慎司が全て持っている。タオルや、化粧水など、涼音が使うようなものも全て慎司が持っている。女の子には荷物をできるだけ持たせるべきではない、という意識が慎司の中にあったので、慎司はそれに従って持っているのだ。涼音は初め、自分も持つよ、と言ってくれたのだが、慎司は断った。


 温泉施設に入るとまずは大広間が待ち構えていた。そこではもう入って涼んでいる人、これから入るために受付と話している人、酒を飲んでテレビを見ている人、腰に手を当てて、コーヒー牛乳を飲んでいる人、と様々だった。


 慎司達はそれらを流し目で見ながら、受付のところまで行く。慎司はこの温泉施設に結構お世話になっているし、これからもお世話になるつもりなので、実際は券売機を使うのが普通なのだが、年間契約をしているため、そのまま受付にいった。涼音は初めてだということは慎司もわかっている。しかし、この年間契約には特典があるのだ。


 その特典は「初入場の場合に限るが同伴者一名無料」というものだ。つまり、涼音は無料で入れるということである。


「大浴場の方でお願いします」


 慎司はその年間契約を証明するカードを受付にみせ、涼音のことも伝える。すると受付の美女は「わかりました」とにこやかな笑みを浮かべて、ロッカーの鍵を渡してくれた。


「ここは家族風呂の方もあるの?」

「うん、小さな子供がいる人達や、新婚さん、カップルとかでも家族風呂を利用するね」

「......私達は?」

「ん?あぁ、ちゃんと大浴場の方にしておいたよ。はい、これが涼音ちゃんのロッカーの鍵」

「......あ、ありがとう」

「流石に女性の更衣室には僕も入れないから、もし何かあったら優しそうな人に教えてもらってね」

「そ、それぐらい一人でもできるわよっ」

「そう?ならいいけど。......あ、待って、まだ涼音ちゃんの着替えとかタオルとか渡してない」


 涼音が怒って、早速更衣室へと歩き始めたのを慎司は止めた。これでは涼音が温泉を満喫した後に困ることになる。せめて身体をふくタオルは必要だろう。いや、タオルは最悪、人を呼べば、ここの人が用意してくれるので、最も必要なものは下着類なのかもしれない。


 慎司は袋の中に袋を入れて、慎司と涼音の必要なものをそれぞれ分けていたので、何の苦労もなく涼音に渡す。一応中身を確認すると、慎司は絶対に履かないような布面積の狭い下着が見えたのでまず間違いはない。


「今、見たでしょ」

「イエミテマセン」

「旦那様がカタコトになるときは大体隠そうとしているときだから。それぐらいもう新妻ちゃんはお見通しなのよ!」

「ご、ごめん。見えちゃった」

「......ま、まぁ?見えてしまったものはしょうがないわね」

「す、すっごくえ」

「それ以上は言わなくていいからっ!!」


 涼音に口を塞がれた慎司はふごふごと悶える。

 勢い余って、鼻まで塞がれてしまったので、息ができずに苦しくなっていく。身体が酸素を求め、限界を伝えてくる。慎司は涼音に降参の意味も込めて、ぽんぽんと軽く叩いた。するとすぐに離してくれた。


「じゃあいってくるわね」

「うん。......あ、もしも涼音ちゃんが先に出たらここら辺でゆっくりしててね」

「それは旦那様も同じよ?勝手に一人で帰ったりしないでよね?」

「あはは。帰らないよ」

「お風呂上がりの牛乳も私が出てくるまでは飲んじゃダメだからね?」

「......はい」


 涼音はくすっと笑うと気まずそうな慎司の表情を背中で受け止めながら脱衣所に向かっていった。


 慎司ははぁ、とため息を吐いた。

 それは疲れたから、というわけではなく、牛乳を禁止されてしまったからだった。もはや、お風呂上がりの一杯は慎司の中でルーティーンとなってしまっているので、それを禁止されてしまうと温泉に入ったという実感がいまいち湧いてこないのだ。


 となれば涼音が出るよりも後に出るしかないのだが、そこまで耐えられる自信はなかった。


「どうした?ため息なんかついて。翔から聞いていた幸せ絶頂期とはまたかけ離れた姿だけど」

「ど、どうしてここに?」

「俺が風呂に入りにきたら変か?まぁ一人で入りにきたのはお前にとっては変かもしれないが」


 後ろから話しかけてきた一人の男に慎司は仰天するしかなかった。

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