第31話「響谷翔」


「お〜い、慎司。いるか?」

「あ、翔先輩。ちょ、ちょっと待ってください」


 慎司は不味そうな顔で涼音の表情を窺った。涼音は慎司の表情があまりにも面白いのでくすくす笑ったあと「どうぞ」と平坦に返した。

 學程度ならば「もう来ないでくれ」と返せたのだが、そうもいかない相手なのだ。無理に帰らせるわけにもいかないし、涼音と結婚する前には「また来てください、いつでもお待ちしてますから」と豪語してしまった。


 慎司はざっと片付けて玄関で出迎える。翔は慎司が独り立ちをする手助けをしてくれた恩人であり、ことあるごとにいいアドバイスをくれる。そして仕事の仲介役も買って出ており、頼りになる先輩なのだ。

 そしてこれは風の噂なのだが、100人中100人が「綺麗だ」と判断する絶世の美少女をお嫁さんにしているらしい。


 慎司も負けてはいないと思っているのだが、生憎と翔がその話をあまりしようとしないので、慎司もあえて進んで聞いたことがないのだ。


「ん?来客中か?」

「いえ、誰も来客はしてないです。......ど、どうぞ」


 慎司は少し言葉を詰まらせながら、中へと通す。翔はそんな慎司に一瞬だけ目を細めて何か不審なものを感じたものの、特に何もすることなく、黙って後についていった。


「こんにちわ。いえ、こんばんわという方がふさわしい時間かもしれませんね。慎司の妻で涼音と申します」

「これはご丁寧にどうも。私は響谷翔と申します。まさか二人が結婚していたなど知らなかったもので、何も用意してなくてすみません」

「いえいえ、言っていなかった慎司が悪いので、気にしないでください」

「何はともあれ、ご結婚おめでとうございます」


 翔が頭を下げるので慎司と涼音もそれに合わせて頭を下げる。

 慎司の報告不足が責任ではあるのだが、結婚の報告を簡単にできるほど、結婚というのは簡単ではないのだ。


 結婚という言葉でゲシュタルト崩壊が起こりそうになっていたが、それよりも翔がそこまで驚いていなかったことに少し疑問を持った。

 學に話した時には驚きすぎて収集が不可能になっていたほどだった。しかしそれとは一転して、翔は落ち着いた様子で淡々と返していたような印象を受ける。大人と子供の差であると言われてしまえばそれで終わりなのだが、それだけでは説明できないような気がした。


「先輩、驚きましたか?」

「そりゃ、驚くさ。つい前日まで女の子の話さえしなかったのに、彼女を通り越して結婚だからな」

「その割にはあまり驚いていないようですけど」

「そう見えるならポーカーフェイスが上手いんだろうな」


 翔が持ってきていた鞄を徐におく。その中からパソコンを取り出すと、慎司に目配せした。その様子だけで慎司は翔の言いたいことを察すると、慎司もパソコンを持ってきて慌てて起動させた。


「二人の邪魔をするわけにはいきませんから、すぐにお暇させていただきますね」

「そんな、かまいませんよ。ね、旦那様?」

「う、うん!そうだよ。涼音ちゃんは理解のあるお嫁さんなので大丈夫です」


 涼音に合わせるようにして慎司は言わなくていいことまで言ってしまった。それを慎司が察したのは翔の雰囲気が明らかに悪くなったからだった。


「理解のあるお嫁さん、とはいうものじゃない」

「......はい?」

「それは慎司の意見であって、涼音さんの意見ではないよ。だからもしかすると慎司は都合のいいように解釈をして「理解のあるお嫁さん」と言っているのかもしれない」

「そうかもしれません」

「わかればいいよ。さぁ、仕事の話を簡単にだけしておこうか」

「涼音ちゃんはどうする?聞いててもいいけど、あんまり面白くないかも」

「旦那様はどっちがいい?いて欲しいならいるけど」

「......ならいてもらってもいいかな」

「僕に叱られないようにするためかい?」

「そ、そんなことないですよ」

「残念ながらダメなところは指摘させてもらうよ?それで後から存分にお嫁さんに慰めてもらうといい」


 そんな会話から始まった仕事の話は三十分程度で終わった。結構捲し立てるようなスピードでどんどん話が進み、ただいるだけの涼音はなんの話をしているのかいまいちよくわかっていなかった。しかしそれでも真剣な慎司の横顔を見ているとなんだか応援してしまいたくなる。


 一通り話終わり、少しだけ翔にわからないところを教えてもらうと、仕事の話は終わった。


「ふぃ〜。こんな大型案件を僕に......。ありがとうございます。精一杯やらせていただきます」

「慎司の腕は確かだから期待しているよ。......あ、もうこんな時間か。つい長居をしてしまった」

「いえ、僕の容量が悪かっただけなので本当に気にしないでください。何なら夕飯でも食べていってください」

「お言葉は大変嬉しいのだが、家に帰らないと嫁に怒られてしまうのでね」

「先輩もお嫁さんいたんですね」


 翔はこくりと頷いた。

 涼音は先ほどまで暇になったので、ご飯の準備をしていたのだが、恋愛関連の話になったかと思うと、途端に駆けつけてきて、その話を聞こうと目を光らせてじっと黙った。きっと涼音に尻尾がついていたならば千切れそうなほどにブンブンと振っていたに違いない。


「慎司達の場合も、まぁ特殊だろうなと予想はつくが、僕の場合もまた特殊だった」

「初めて会ったのは?」

「実家の玄関だね。あの時は僕の方がびっくりしたよ。見たこともないようなすごく可愛い女の子が玄関の前で佇んでいたのだから」

「それが今のお嫁さん?」

「そうだね。それから色々あって一緒に住むことになって、付き合って、結婚した」

「それから?」

「いや、もうこれぐらいにしておこう。本当に帰らないと鬼になってる可能性がある。僕のお嫁さんは心配性だからね、僕が他の女性を口説いていないのかと不安になっているのさ」

「愛されてますね」


 翔は苦笑しかしなかったが、それはきっと嬉しかったということなのだろう。

 慎司はそこまで翔を好きなり、そして翔が最も好きな女性に会ってみたくなった。

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