第28話「抱枕」


 顔が近い。

 慎司が唇を伸ばそうとすれば簡単に届いてしまいそうだ。


 寝息が聞こえる。

 自分の呼吸音がうるさく聞こえてしまい、起こしてしまわないかと不安になる。


 美しい。

 やはり目を閉じて完全に気が緩んでいる時でさえもその優雅さなどは衰えることを知らない。まるでシンデレラのように綺麗だ。

 慎司は涼音の顔をじっと見て、ふと我に帰った。あまりにも不躾に見過ぎてしまったかもしれない。涼音はその容姿から不躾な視線を向けられることが多い。現に慎司との出会いもそうして絡まれた人から助けることで始まったのだ。


 だからじろじろと遠慮なく見られるのは不快に思わせてしまうかもしれない。きっと涼音は「旦那様だから」と言ってくれるのだろうが、それは何となく、言わせてしまった感がある。


 慎司は視線を逸らそうとする。しかし、何かに取り憑かれてしまったかのように全く視線が動こうとしなかった。それどころかもう一度涼音に背中を向けようとしても身体が動こうとはしなかった。


 慎司は涼音に魅せられてしまったのだ。しかも完全に。


 だから慎司は動けない。まるで金縛りにでもあったのかのように。

 慎司は何とか身体を動かそうとしてみる。そうすると、後ろには下がれないが、前には進めることを発見した。とはいえ、これ以上前に進んでしまうと、涼音にぶつかってしまう。なのでとりあえず動けることを確認するために少しだけ涼音の方に近づいた。


 慎司の視線はある一点に釘付けになった。それは胸、ではもちろんない。涼音もしっかりと女性特有の胸の膨らみはある。寝巻き姿なので、身体を纏う布の厚さが薄いのもあってかより強調されているのを感じている。しかし、だからといって凝視してもいい理由にはならないだろう。


 女性経験が全くない慎司は普段、見てはいけない場所というのを二人きりの時でも絶対に見ないように気をつけている。それはある視点から見ればヘタレていると思われても仕方のないことだが、本人にとってはこれが精一杯の線引きなのだ。


 しかし、慎司にとってとある誤算があった。それは普段見ることのできる場所でも雰囲気と誰もいない二人きりの時では頭がおかしくなってしまいそうになる程、扇情的に見えてしまうということだ。


 慎司は涼音の唇に釘付けになっていた。それは涼音の唇がブラックホールであるかのように何の抵抗もなく、ぐいぐいと近づいていく。キスはお互いがそうした気分になった時、と思っていたにも関わらず、その理念は簡単に崩れそうになっていた。


 あと少しで、というところで涼音が寝苦しくなったのか、仰向けになった。しかし、すぐにポジションが悪かったのか、元の場所に戻ってくる。その一連の流れをポカンと眺めていた慎司は今自分がしようとしていたことに対して、深く後悔していた。


「僕は......最低だ」


 まだ何もしていないが、そう言いたくなってしまう。

 自分の気持ちにとりあえずの整理をつけたところでふと下がってしまっていた視線を上げるとこちらをじっと見つめてくる涼音と目があった。


(......え)


 まさか見られているとは思わず、慎司は羞恥心がぐっと込み上げてくるのを感じた。先程の慎司を鏡写にしたような瞬きすら惜しんでじっと見続ける涼音は一瞬にして慎司に詰め寄るとその唇を塞いだ。


(......?!)


 当然、慎司は困惑した。今、慎司が戒めたはずの行為をまさか涼音からしてくるなんて。


 涼音はキスをやめると、そのまま甘えるように慎司の胸元に顔を埋めた。

 どうやら寝ぼけているらしい。慎司の胸のあたりで今度は完全に寝てしまったらしく、すやすやと寝息を立てている涼音は慎司の背中にも手を回してくる。


 涼音は無意識のところでは甘えたがりな習性があるようだ。それを慎司は意外だな、と思うことはあれど、鬱陶しいな、とは思わない。むしろ甘えてくれて嬉しい、と思っていた。


 まさかキスされるとは思ってもいなかったが。


 慎司は布団と涼音の頭との間に腕を通した。腕枕という形を作りたかったのだ。というのも、涼音は少々アクロバティックに動きすぎたせいで枕を使っていなかったからだ。だから、どうせなら、と慎司は夢であった腕枕をしてみたのだ。


 背中にまわされた腕はどこにも行かないで、という風に寝ているにしては結構強い力で抑えてくる。どこにも行かないよ、という意味を込めて、慎司は涼音の背中に手を回して優しくトントンと叩いてやると、落ち着いたようにその力が緩んだ。


「僕はどこにも行かないよ。ずっと一緒にいる」


 それは涼音に対する言葉だったのか。それとも自分自身に対する言葉だったのか。

 慎司でさえもそれはわからなかった。

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