第26話「宿泊」



 慎司は圭子の強い勧めをどうしても断り切ることができず、なし崩し的に一晩だけ泊まらせてもらうことにした。涼音は圭子にからかわれることを嫌ってか、早く帰りたそうにしていたが、圭子が強引にメイド達に頼んで帰りの新幹線の予約を変更させてしまったので、慎司達は嫌がろうとも、何をしようとも一晩止まらざるを得なくなった。


 これだけ大きな家なのだから、空き部屋の一つや二つは簡単に確保できてしまうようだ。元々は圭子以外にも住んでいたようだが、今は誰もいないらしく、貸し切りだそうだ。初め、圭子は涼音と夜を共に恋バナをして盛り上がろうと考えていたらしいのだが、それを何となしに涼音に打診すると「いや」とバッサリ一刀両断されてしまったので、しばらくの間落ち込んでいた。


 しかし、圭子はそれだけでへこたれるような柔な神経をしていなかった。これを逆にチャンスだと考えた圭子は涼音と慎司の寝床を一緒の部屋にしてしまったのだ。それは慎司が風呂に入っている間に起きた出来事であり、風呂上がりに部屋の扉を開けると涼音がいたのだから完全に油断していた。幸いにも服は着ていたので大事には至らなかったものの、心臓が口から飛び出るかと思った。


 そして。


 涼音も風呂に入り、まだ髪が濡れたままの状態で部屋に入って来た。その手にはドライヤーが握られている。


「ちょっとうるさくなるけど、ドライヤー使ってもいいかな?」

「いいよ。でもどうしてここ?」

「この後に圭子がお風呂に入るんだけど、その時に脱衣所で私が髪を乾かしていると絶対にちょっかいをかけてくるんだよ」

「涼音ちゃんのことが大好きなんだね」

「旦那様といい勝負かもしれないわね」


 くすっと悪戯に笑みを浮かべる涼音は慎司の反応を楽しんでいた。それとは気づかずにドキッと肩を揺らして頬に熱を持たせてしまった慎司はじっと涼音に見られているのを感じて、そっぽを向いた。

 あら、と涼音が声を漏らすも、それをあえて聞こえないように振る舞う。


 髪が濡れている姿を初めてみたせいで感情が表に出やすくなっているのだろう。涼音がいつもはできるだけ脱衣所で髪を乾かしていることを慎司は知っている。そして慎司の前に現れる時にはそれなりに乾いた髪の状態になっているのだ。それはそれでどきりとさせられるのだが、完全に濡れている姿というのもまた新鮮で慎司の心をくすぐる。


「ぼ、僕が乾かしてあげようか?」

「旦那様、できるの?」

「人の髪を乾かしたことはないけど......。たぶん、僕ならできると思うんだ」

「そう?ならお願いしようかな。あ、あんまり近づけすぎたらダメだからね、髪が傷んでしまうから」

「わ、わかった」


 慎司は涼音が家に来るまでドライヤーを買っていなかったのだ。だから使い方などは説明書を読んだ程度でしかわかっていない。涼音は少し不安だったものの、自分の言葉が慎司を刺激させてしまったのだろう、と冷静にジャッジを下し、慎司にドライヤーを渡す。


 電源を入れて、カチカチとボタンを押す。すると途端にぶぉお、という大きな音が鳴り、慎司の顔に強風が吹き荒れる。

 しかも熱風だったために慎司の瞳は焼けてしまいそうな錯覚に襲われた。


 慎司が一旦止めると、そのことの顛末をじっと観察していた涼音が必死に笑うのを堪えていた。


「す、するから後ろ向いて」

「は〜い」

「涼音ちゃんの髪って綺麗だよね」

「そう?ありがと。手入れは怠ってないからね」

「櫛貸して」

「はい、どうぞ」


 慎司は櫛を受け取り、ドライヤーと櫛の二刀流で涼音の髪を乾かしていく。涼音の髪は本人が言うように手入れを一日たりとも怠っていないようで、どこをみても美しい、と称することしかできない。髪が長い分、手入れはそれなりの時間をかけなければならないのだろう。


 慎司は肌に近い方の髪も乾かそうと、一気に髪をかき上げた。すると瞬間的にであるが、涼音の頸が目に入った。女性の頸は男性の性的感情を湧き出させるらしい、という間違った情報が広まった時期があったものだが、それは慎司にとっては間違いではなかったようだ。


 いや、本当は慎司だけでないのかもしれない。女性という大きな括りにしてしまっているから間違った、と言われるだけであり、好きな人の、という条件だったならばその情報は合っているのではないだろうか。好きな人のものならばどれでも何でも知りたいしより感情が昂ってしまうのも納得できてしまうのではないだろうか。


 慎司は休むことなく手を動かしながら、そんなことを考えていた。慎司は昔から器用貧乏なところがあり、並列で物事を進めるのは割と得意である。


「ボサボサにはなっていないと思う。涼音ちゃんがした方がより良かったかもしれないけど......」

「旦那様の方がうまいわよ。また今度もしてもらいたいわね」

「涼音ちゃんが言ってくれたらね。いっつも一人で済ませてしまうからね」

「慎司くんといるときは誰にも邪魔されないし......」


 涼音がぼそりと呟く。慎司はドライヤーと櫛を近くにあったベッドの上に起き、突然涼音を後ろから抱きしめた。いや、本当はもっと前から抱きしめたかった。


 しかし、そのシンジの気持ちとは裏腹に突然抱きしめられた涼音は可愛らしい悲鳴をあげた。驚いたのだ、ということは慎司でもわかった。


 振り払われるのだろうか、と一瞬だけ危惧したものの、それはされず、むしろ逆に涼音はその体重を慎司に預けてきた。必然的に涼音は慎司の胸元に収まる形となり、涼音はその状態で上を見上げる。そこには当然、慎司の顔があった。


「急にだとびっくりするでしょ〜?」

「ごめん、抱きしめたくなって」

「だとしても一言言ってくれないと、私が驚いて振り払うかもしれないでしょ?」

「そうだね。......え、今」

「もう一回はいってあげない」


 涼音が急に衝撃的な言葉を発したような気がしたのだが、それを軽く流してしまった慎司はとても激しく後悔した。

 その後悔を涼音の頬をムニムニと触ることで宥める。


「......しゅき」

「え、ごめん、むにむにしててちゃんと聞こえなかった」

「慎司くんのばか」

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