第22話「挨拶」
「私達は大事なことを忘れていると思うの」
涼音が突然そのようなことを言った。慎司は少し考えてみたが、大事なことを忘れていると言う実感がなく、何のことを指しているのかがいまいちよくわからなかった。
涼音は随分と慎司との生活に慣れたらしく、ボロを出さないように常に気を張っていた初めの頃とは違い、今はすっかり緊張感を解いている。慎司としては信頼してくれ始めたのかな、と思うとともに、ごろごろと寝転がる涼音の腹部がちらちらと視線に入ってくるので目のやり場に困ると言うのが最近の悩みだ。
「大事なことを忘れていることすら僕は忘れてるからわからないや」
「ふっふっふっ。それはね、旦那様......。あいさつよ!」
「あいさつ?」
「そうよ。私達、結婚したのに誰にも挨拶してないじゃない!これは夫婦の危機よ」
「そ、そこまでなの?」
「事態は急を要するわ。一刻も早くご両親に挨拶しないと、認めて貰えないの」
ばっと起き上がって、一歩、二歩、と慎司に近づいてくる涼音。今まで寝転がっていたせいか、美しい赤髪が静電気か癖によって爆発し、少し着崩れた感じが慎司の理性をガリガリと削ってくる。
涼音の言い分ももっともであるし、慎司とてそれをいつかはしなければならないな、とは考えていた。しかし、それは自分のではなく、涼音の両親にだった。
「涼音ちゃんのご両親はどこに住んでいるの?」
「......私の本当の親はもうこの世界にはいない」
「ご、ごめん。あんまり思い出したくなかったよね」
「いいのよ。それに私を面倒見てくれてた人はいるから。その人に挨拶しに行きましょう?」
「そうだね。僕を認めてくれるといいんだけど」
「きっと認めてくれるわよ。だって私の選んだ旦那様だもの」
ドキッと胸が締め付けられるような感覚に襲われた。嬉しいと言う感情と認めてもらえるか不安という感情に支配されていたのが、涼音の一言によって簡単に崩れ去り「涼音ちゃん可愛い」という思いだけになった。
「ケイコに挨拶した後は旦那様のご両親に挨拶行こうね」
「僕のところはまだ今度にしよう」
「どうして?」
何も知らない人が慎司の言葉を聞いて「どうして?」と訊ねるのは当たり前だろう。しかし、慎司はそう尋ねられるとわかっていたのに、それに続く言葉を返すことができなかった。
思い出が身体の中を駆け巡り、どうしようもなくなってしまったことも多かった。
ただ一言、涼音と同じように「この世にいない」とだけ、一言だけ、言えたらそれで良かったのに、それがどうしてもできなかった。その言葉をいってしまうと慎司の心の中にいる思い出の両親でさえいなくなってしまうような思いがしたからだ。
涼音は少し慎司の表情を窺い、何かを察したのかこほん、と一つ、咳払いをした。ぐっと集中してしまっていた慎司は急に現実に引き戻されて呆けた顔をしてしまった。
「旦那様も心の準備ができていないのね。しょうがないから慎司くんの言う通りに少し間を開けてあげる」
「あ、ありがとう」
「でも、ちゃんと自分の心に整理がついたら話して欲しいな。私はそれが何であっても変に笑ったり、下手に同情なんかしなから」
「優しいね」
「優しいのかな?これが普通だと思うわ」
「情けないけど、もう少しだけ時間をくれないかな」
「うん、いいよ」
涼音がまるで「よくがんばりました」とでも言うように慎司に近づいてぎゅっと抱きしめる。慎司は一瞬だけぴくりと身体を震わせた後、涼音を優しく抱きしめ返した。
安心感が慎司の心を満たしていく。涼音ならばどんな慎司でも受け入れてくれるだろうと言う思いがある。
慎司は自分が安心しているのと同じように、涼音も安心しているのだろうかと疑問に思った。
「涼音ちゃんは可愛いね」
「も〜、耳元で恥ずかしいこと言わない!」
「事実だから」
「むぅ。......でも、その、ありがと」
「どういたしまして」
涼音が離れようとするのを慎司は拒んだ。男性は女性よりもほとんどの場合で力が強い。だからどれだけ涼音が力を入れようと慎司が同程度の力加減で抵抗すれば、動くことはない。
慎司は男性である、と言う利点を使って、涼音が自分から離れるのを拒んだ。
「離してよ〜」
「やだ。もう少しだけ」
「も〜」
不満そうな声を漏らすが涼音はそれ以上、一切の抵抗をしなかった。それどころか、慎司が強く抱きしめるとそれに呼応するように涼音も少し強めに抱きしめ返してくれる。
「変なところは触っちゃダメだからね?」
「変なとこって?」
「そ、それは.......」
「それは?」
「......」
「言えないならないってこと?」
「......いじわる」
慎司は涼音が触られて嫌であろう場所は触る気がなかったのだが、こう返事をしてしまうとそれをするのか、と言う雰囲気になってしまった。
「そんなに身構えなくても、しないから」
「してくれないの?」
「えっ」
してもいいのか、と言う言葉はかろうじて飲み込んだ。
「何を、なのかはいってないけどね」
「ぐっ!ブラフかけられた......」
「旦那様はえっちね」
慎司は違う、と叫びたかったが、今言っても説得力がないので、項垂れるしかなかった。
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