第二章「挨拶」
第21話「心」
學が慎司の家に押しかけてきた日から数日経った。
その間に特にいって変わったことはなく、それぞれがパートナーのいる生活に段々と慣れていっている最中だった。
慎司は女性経験など全くなく、日々が初めてのことばかりでとても楽しい、と言うのは素直な感想だ。しかし、それと同時に涼音は一体どう思っているのだろうか、と気になり始めてきたのもまだ事実である。
相手は泣く子も黙る、傾国の美女。男性経験など慎司にはあえて言っていないだけで、星の数ほどあるのではないだろうか。だから、慎司との生活をどこか物足りないと思ってはいないだろうか、と慎司は不安で堪らなかった。
だが、だからといって自分から聞いてみると言うような勇敢さは持ち合わせていなかった。結婚して夫になったのだから、気になることは遠慮せずにどんどん聞いていけばいいのだろうが、なかなか踏ん切りがつかないのも仕方のないことだろう。
「旦那様、ちょっと外に出かけない?」
「え?あ、う、うん!ちょっと待ってね。支度するから」
それともう一つ。
涼音はあの夜のことを何も覚えていない。だからあの夜のことを深く訊ねようとしても「何のこと?」と返されて終わりである。
パソコンの画面と睨めっこしているように見せかけて実は何も画面の内容を考えずにただひたすらに涼音のことを考えていた慎司は突然に声をかけられて変な声を出してしまった。
恥ずかしくて、誤魔化すようにパタン、とパソコンを閉じてクローゼットに向かう。
慎司はそこで最初に手に持った服に着替えた。特にファッションにこだわりがなく、何か来ておけばいいというスタンスの慎司は着る服が季節にあっていなくても身体にあっていればそれでいいと思っている。
涼音がそれを指摘したそうにしているが、できなくてソワソワしているのをよく見かける。自分なりのコーデで慎司を着飾りたいのかもしれない。慎司も「これを着て」「あれを着て」と言われたらマネキンのように着替えるのだが、何も言われないので、何と言っていいのか分からず、そう言う時は決まって謎の沈黙が訪れる。
「何か足りないものあった?昨日、卵は買ってきたけど」
「今日はそんなんじゃないわ。ただのお散歩」
「お散歩?」
「そうそう。近くを二人で歩くの。近場って案外「近くにあるから今度でいっか〜」なんて言ってそのまま行かなくなるのがオチなのよ。だから今日は近場のいいところを探すの」
「な、なるほど......?」
話の内容は半分も理解できていなかったが、熱意に押されて慎司は頷いてしまう。特に仕事に支障はきたさないだろうし、大丈夫だろうという現実的な吟味も当然してからだが。
「それに何だかんだって行けてなかった温泉?か銭湯?にも連れていってもらいたいし」
「この辺はお風呂激戦区で銭湯も温泉もあるんだよ。まぁ、大手の温泉施設が銭湯しかないこの地域に狙いを定めて温泉施設を建設したんだけどね」
「どちらも選べるなんて......豪華な暮らしね」
「確かにそうかもね」
慎司は涼音と会話をしながら、家を出て歩き始めた。
手を繋いで歩くにはまだ日の高さが高いような気がした。
「あ、見て。学校があるわ」
「あそこは......中学校かな。だから學はいないよ?」
「そうなの?つまらないわね」
「まさか突撃するつもり?学校は部外者立ち入り禁止だから入れないよ?」
「誰かから制服を奪えば......」
「犯罪です」
涼音が物騒なことを言う。
しかし、涼音の制服姿はいったいどのようなものなのだろうか、と言う疑問は当然ある。それに見てみたいと言う欲も。今度、學に制服を持ってきてもらおうかな、と慎司は本気で悩んだ。
「旦那様は私の制服姿みたい?」
「......みたい」
「ふぅん」
何やら意味ありげな声を漏らす涼音。これはもう少しおせば制服を着てくれるのだろうか。慎司はここでぐいぐい攻めるべきかと思ったのだが、はっと我にかえる。
今はまだまだ日が高い。そのせいかすれ違う人も心なしか多い気がする。それが道の真ん中で「制服姿が見たい!」と大きな声で強請っているのは不審者以外の何者でもないだろう。慎司と涼音が付き合っている、を超えて結婚していることを知らない人も多い。と言うよりもまだ完全に大人になりきっていない容姿で結婚していると前提する人はいないだろう。
「私制服着たことないのよね〜」
「制服着たことないの?」
「うん」
制服を着たことがない、という衝撃的な事実を慎司は知った。だが、そこまで驚きはなかった。
慎司はとある事情から高校生になることなく社会人の一員になった。そしてその途中で涼音と出会ったのだ。その日は忘れもしない。日常の一コマであるはずだった平日だったのだが、その時に涼音は制服姿ではなく、私服姿だった。
高校生であっても中学生であっても、ほとんどの学校は制服を採用して強請させているはずだ。涼音が私服を認めている学校だとしたらその仮定は簡単に崩れ去ってしまうのだが、大体は制服のはずだ。
だから、そこには何か秘密があるのだろうな、とは思っていた。
「涼音ちゃんが制服きたら人気者だね」
「そうかな?そうだと嬉しいわね」
「嬉しい......」
「旦那様は嬉しくないの?」
「いや、嬉しいよ?嬉しいけど、僕よりももっといい人がいたらその人と涼音ちゃんは付き合いそうだなって」
慎司は少し恥ずかしがりながら、自分の正直な気持ちを口にした。自分が涼音と一緒に結婚できるのは完全に運が良かったから。自分よりも他にもっといい人が前にいたならば、慎司と涼音の関係は完全な赤の他人になっていたはずだ。
それを聞いた涼音はむっと頬を膨らませると、そっと慎司の腕に絡みついた。
「そんなこと思ってるの?」
「......うん」
「たとえばの話なのに?」
「......」
「なら私が旦那様よりいい人を見つけたら簡単に離婚届を出してくるんじゃないかって思ってる?」
「......不安はある」
「旦那様は飛んだ大馬鹿者ね」
急な罵倒に慎司は目を丸くさせた。
涼音が罵倒するなんて初めてのことだ。しかし、その罵倒も本気ではなかったようでその言葉を発した後に慈愛に満ちたような表情を見せてくる。
「私はあなたのお嫁さんよ?」
「うん」
「だから、ずっと一緒にいるわ。慎司くんがその儚い一生を全うするまで」
「涼音ちゃん......」
「だから、どこにもいかないわよ」
にこっと微笑まれるとそれだけで考えていた不安なことが全て意味のないことだったのではないだろうか、と思ってしまうのが恐ろしい。しかし、それだけ涼音に心を支えられているのだな、と改めて感じた。
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