第18話「交流」
涼音はいきなりやってきた訪問者に最初、驚き、そして戸惑っていた。慎司の知り合いとはいえ、涼音からしてみれば赤の他人もいいところ。たとえどれだけ信頼していいよ、と言われたところで気を抜けるわけもなく。
疲れた顔色ひとつ見せずに具体的な意見を提示する慎司をゆったりと眺めながらいつになったら涼音とも会話をしてくれるのだろうか、と少し嫉妬心にも似たようなモヤモヤを心に抱きながらそれでもじっと待っていた。
すると、學が突然、泊めてくれといい始めたのだ。涼音の感情としては今にも嫌だ、と突っぱねて返してやりたかったのだが、ここの部屋の主は慎司であり、涼音はその配偶者に過ぎない。慎司と約束はしているが彼がどうしてもと頼まれると弱いことも当然知っている。それを使って近づいた過去が涼音にはあるのだからお墨付きである。
悩む慎司がちらりと涼音の方を見る。涼音はどうしたらいいかな、と聞かれているように思えて仕方がなかったが、それにはわざと答えなかった。もうその時点で予感していたのだろう。どれだけ言ったところで最終的には泊めてしまうのだろう、と。
慎司は案の定「今夜だけだよ?明日以降は事前に連絡をしてね。連絡したら泊めてあげるとは言ってないけど」と渋々ながらも學を泊めてあげることにしたようだ。
「ごめんね、涼音ちゃん」
「いいわ。先にお風呂入ってくるね」
「うん」
突然の訪問者のせいでこれからの日程が台無しだ。本当なら近くの銭湯に連れて行ってもらうはずだったのに。大衆に自分の裸体を晒すのはあまり得意ではなく、むしろ恥ずかしいのだが、大きいお風呂に入りたいというのは日本人ならば誰しもが持つ欲求ではないのだろうか。
脱衣所で全ての服を脱ぎ、風呂場に直行する。トイレと脱衣所が一緒になっていないので、慎司にも學にも見られる危険性はない。慎司には別に見られてもいいのだが、誰かもよく知らない學に見られるのはごめんだった。
少し熱く設定したシャワーを頭から浴びる。この時間だけは何もかも嫌なことは忘れて無になれる気がする。
そして頭の中をできるだけ整理するのだ。モヤモヤが万が一にも爆発してしまわないように。
涼音は骨盤と太腿の間の部分をそっと触れた。そこには誰にも言えない秘密の徴がある。痣というには少し線がはっきりしていて、だがかといって刺青というわけでもない。戒めの傷。
「私は慎司くんのお嫁さんなのだから」
誰にいうわけでもなく一人呟く。そこに誰かに聞いて欲しいという願いはない。ただ強いて言うのならば、心の奥底で眠っている自分を起こすために呟いているのかもしれない。
涼音はさっと身体と髪を洗うとすぐに出た。あまり待たせるわけにもいかないからだ。この後に慎司が入り、そして學も入るのだろう。
「お待たせ」
「ううん。僕もそろそろ入ろうかな」
「行ってらっしゃい。ごゆっくり」
「できるだけ早く出るよ。學と二人きりじゃ、何も話すことはないだろうし、息苦しいと思うから」
そうやって微笑む慎司を見て涼音はさらに惚れ込んでしまうのを自覚していた。ちょっとした気遣いができる人。そして意識的なのか、無意識なのかはわからないけど、涼音が一番欲しい言葉をかけてくれる人。
「......あ、ありがと」
だが涼音はそう思った時ほど、そっけなく返してしまう。そんな自分がたまに嫌になる。どうしてもっと素直になれないのだろう。もっと本当の気持ちを表に出せたら慎司が喜ぶかもしれないのに。
「あ、あの」
「な、何かな?」
「本当に慎司のお嫁さん?......あ、あの疑っているわけじゃなくて信じられないというか。あいつ、女性の話なんか今までしたことなくて、恋愛感情とかわかないのかなって周りが心配するほど勉強とか、仕事とかにしか興味がないような様子だったから」
「私は本当に慎司くんのお嫁さんよ。私が好きになって、告白されて、婚姻届を一緒に出したんだから」
「......ありがとう」
「え?」
涼音は耳を疑った。まさか學の口からお礼の言葉が出てくるとは思いもしなかったからだ。話の脈絡とも繋がらないし、もう訳がわからない。
「ただの友達である俺が勝手に慎司の過去を話していいのかはわからないんだけど......。慎司に好きな人ができたのはある一件以降初めてなんだ。俺は正直、あいつはもうそう言う感情は抜け落ちてしまったのだとばかり思ってたんだ」
學は辛そうに語る。涼音はそれを止めるべきか止めないべきか迷っていた。慎司の過去に何があったのかは何も知らない。それは慎司が教えてくれていないからで、彼の中で時がくれば涼音にもいつか教えてくれるだろうと思っていたからだ。
だからその秘密の過去を知りたいと言う欲はある。しかしそれと同時にそれは本当に學から聞いてもいいのかという疑問も浮かぶ。
「私は慎司くんの過去に何があったのか知らない。けど、だからといって何でもかんでも知りたいとは思わないわ。これから一緒に住んで一緒に笑って、一緒に泣いたり喧嘩したりしてその時に知れたらいいな、と思ってる」
「そっか......。だったら俺からはもう何も言わないよ。ごめんね、不快な思いをさせてしまって」
「本当よ。......なんてね」
少し戯けてみると、學はそれを本気だと受け取ったらしく、ヒェ、と変な声を漏らしていた。涼音はその音が妙におかしくてついくすくすと笑ってしまう。
「でも、学校の話は少し聞いてみたいかも」
「お。何が聞きたい?大体のことは知ってるよ、曲がりなりにも生徒会長だからね」
「学校は楽しい?」
「楽しいと思えば楽しいよ」
「......難しいところなのね」
「かもしれないね。でももし高校生だったら学校中の人気者になっていたと思うよ」
「......そう?」
「うん。人の目が苦にならない人なら楽しい学校生活になると思う」
涼音は慎司が風呂から上がってくるまで學と学校トークを続けた。
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