第13話「二人暮らし」


 役所から帰った慎司と涼音はそれぞれまったりとした時間を過ごしていた。時刻はすでに日にちを跨いでおり、そろそろ眠たくなってくる時間帯なのだが、今日は不思議なことに全くと言っていいほど、眠気が襲ってこない。


 涼音と一緒にいるからだろうか。それとも、涼音と結婚したからだろうか。どちらにしても涼音が関係しているのだが、慎司は横にもなりたくない気分だった。


「旦那様の家って一人暮らしにしては結構広いわよね」

「そうだね、誰かが急に泊まりにきてもいいように少し広めなところを借りてる」

「誰かが急に泊まりにくるの?」

「......偶にね」

「そ、そう」


 涼音の返事が少しぎこちなくなったのを感じたがそれ以上尋ねることはしなかった。

 誰かがというのは本当に色々で、仲良くしてもらっている企業の人と慎司は飲んでいないが、飲み会をしていた時にはデロンデロンにまで酔っ払った相手を仕方なく寝かしてあげたこともあるし、中学時代の友達が親と喧嘩したから一晩泊めて欲しいと泣きついてきたこともあるし、失恋したから何も言わずに一日泊めてくれ、と頼まれて泊めたこともある。

 ただ、もうこれからは断らないといけないな、と慎司は思った。これからこの空間は夫婦二人の空間へと変わっていく。その空間に他の人を入れてしまうようなことはできない。もしも慎司が涼音の立場だったとしたら不快に思うことはまず間違い無いだろう。

 たとえ、今まで泊めていたのが同性だったとしても。


 その考えまでたどり着いた時に、ふと涼音の返事がぎこちなくなった理由がわかった気がした。


「僕が泊めたことあるのは全員、男性だからね」

「べ、別に気にしてなんか無いわよ」

「本当?」

「......ちょっとだけ」

「もう呼ばないから安心して」


 ぷいっとそっぽを向かれてしまったので、慎司はその華奢な背中に語りかけた。すると、こくん、と涼音が首を縦に振ったので、安堵と可愛らしさについ微笑みが漏れてしまった。


「なら私の布団......ある?」

「あ〜、ごめん。無い」

「えっ?ないの?」

「うん。大体の人は一日で帰るからソファとかに寝てもらってたんだ。だから......」

「そっかぁ。なら今日は帰った方が良さそうね」

「ぼ、僕がソファで寝るから!涼音さんは僕のベッドを使ってよ」

「でもそれは旦那様に悪いわ......」


 なかなか首を縦に振ってくれない涼音。慎司がソファで寝て、涼音が布団で寝るというのはこの家が慎司の住んでいるところという点からもダメであるらしい。別に慎司は全く気にしないし、どちらかというのなら涼音がどこかへ行ってしまう方が辛いのだが、それを涼音はわかっていないようだった。言葉にすれば簡単になる謎が、恥ずかしさによって口に出せないことで誰にも解けないような難問へと変わる。


「今日はカプセルホテルかどこかで寝ることにするわ」


 涼音は立ち上がると、財布らしきもののみを持って立ち上がった。そして慎司が声をかける前に玄関へと歩き出してしまった。慎司ははっと今の状況を思い返して、慌てて涼音を追おうとするものの、もう涼音は外に出てしまったらしくその面影がなくなっている。


「待ってよ!!布団なら今から行って買ってくるから......だからどこにも行かないで」

「私はあなたのお嫁さんよ?だからどこにも行かないわ」

「でもカプセルホテルって......」

「寝るだけだよ。起きたらまた旦那様の部屋に行くつもりだったよ?合鍵ももらったことだし」

「......でもやっぱり一緒にいて欲しい」

「......どうせならいいやつを試したい」

「え?」

「お布団を買ってくれるならちょっといいやつを試したい」

「わ、わかった。ちょっと待ってて!すぐに準備するから」


 慎司は家に駆け込み、財布と携帯を持ってすぐに涼音の元へと戻った。まるで忍者かと思えるほどに颯爽とした動きは涼音を感嘆させるには充分だったようで、おぉ、と口を開けて目をキラキラと輝かせていた。


「じゃあ、行こうか」

「そうね」


 二人並んで歩く。特に手を繋ぐわけでもなく、かといって他人というほども離れていないような微妙な距離感。これはきっと自分達の心の距離感を表しているんだろうな、と慎司は感じていた。

 しかし、それは悲観ではない。

 一日しかお互いを知ってから経過していないのだ。でもそれでも他人の距離感とは目に見えて違う。夫婦というには少し遠いかもしれないが、付き合いたてのカップルならこれぐらいの距離感なのでは無いだろうか。女性経験が無い慎司には全くの妄想でしか無いのだが。


 近くの家具を取り扱っている店に訪れた。もう少しで閉店だったらしいので滑り込みセーフというやつだ。


「どれがいいかわからない......」

「保温性とか洗いやすさとか、どれを基準とするかで「いいもの」の定義は変わるからね」

「寝心地のいい布団がいいわね」


 布団といっても素材が多種に渡り、素人には何が違うのかがよくわからない。慎司も多少齧っている程度で、専門家と言えるほど詳しいわけでは無いので、涼音が選んだものを買ってあげようと決めていた。


 ふむふむ、と思案顔で物色している涼音はどの草食動物が食べ頃なのかを見極めている肉食獣のようだった。


 慎司はふとその涼音の手に視線が落ちた。今なら手を繋いでもいいのでは無いだろうか。

 そのタイミングの差異は慎司にしかわからないが、何となく、今なら繋いでもいい気がした。

 その判断に従って、慎司は思い切って涼音の手を掴んだ。役所を出てから触れた時と同じ感触だが、一向に慣れる気配がない。どくどくと脈が速くなり、心なしか頬が赤くなっているような気がする。涼音がじっと慎司の手を見ているのもあるだろう。


 涼音はじっと慎司の手を見ていたが、すぐにぎゅっと握り返した。慎司はまさか握り返されるとは思わず、びくりと肩を震わせたので、涼音はくすっとくすぐったそうに笑みを浮かべて、慎司を引っ張った。


「あっちにもいいやつがあるかもしれないわ」

「いってみようか」

「旦那様のおすすめはある?」

「僕が使っているのは確か水鳥のフェザーを使っている羽根布団だったはず」

「羽毛と羽根の違いは何?」

「ダウンを50%使っているか使っていないかだね。フェザーはダウンに比べて保温性能が格段に落ちてるんだ。だから安いという利点もあるけど、この二つで選ぶならダウン仕様の布団を選んだ方がいいよ」

「この低反発ポリウレタンって書いてあるのは?」

「えっと......。何だっけ。確か、形状記憶をしてくれる布団、だった気がする」

「何だか高級そうな匂いがするわ」


 慎司は布団に匂いがあるのか、と不思議に思いくんくんと嗅いでみるものの、パリパリと包装のプラスチックが音を立てるだけで特に高級そうな匂いはしなかった。


「どれにしようかな......。迷うなぁ」

「低反発は寝心地がいいって聞くけど?」

「でもダウン仕様のお布団も捨てがたいのよねぇ......」


 涼音は案外、優柔不断なところがあるらしい。慎司はじっと涼音が決めるのを待ちながら新しい発見をした。

 慎司も自分では結構な優柔不断であると自覚しているが、他人にはそれを見せないように事前に決めている。だから勘違いした友達からは時々「思い切りがいいな」と羨ましがられるのだが、それはただの勘違いで実は前日に悶々と悩んで決めているからそう見えるのである。ただ、せっかく嬉しい勘違いをしてくれているのでそれを正してはいないのだが。


「決めたわ!低反発のお布団にしてみる!」

「わかった。買ってくるからちょっと待っててね」

「私もいっていい?」

「いいよ」


 慎司の涼音への初めてのプレゼントは布団になった。



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