第12話「届出」
「葦原涼音......葦原涼音......葦原涼音。うん、だいぶ口も慣れてきた。やっぱり響きがいいと思わないかい?」
「そ、そうだね」
「どうしたの旦那様。さっきよりも少し声色が固くなったような気がするのは気の所為?」
「き、気のせいだよ」
「はっは〜ん。さては緊張してる?」
慎司は図星を突かれて、ぎくっと肩を動かしてしまう。その動作を見て涼音は当たりだな、と察したようでくすくすと笑う。どうして会って一日も経っていないのに慎司の思考を読み当てることができるのか、と訊ねてみたいが、負けた気がするのでやめておいた。
緊張しているというのはもちろん、真夜中に涼音と二人で外の街を歩いているということもあるが、それよりも婚姻届を出しに行くという行為に緊張していた。
涼音が教えてくれることには役所というのは24時間空いているらしい。こういうと少し語弊を生んでしまうといけないので、付け加えておくと、深夜窓口と言って婚姻届だけは受理してくれる窓口が24時間空いているのだそうだ。他の件についてはまた別日に出直す必要があるが婚姻届だけは特別らしい。
昼間はフルタイムで働いている人や、芸能人などの顔が売れている人にとってはお忍びで出したいという人がいるから、だそうだ。
「そ、そりゃ緊張もするよ!!だって人生で初めてのことで一番重要なことだし」
「でもさっきまで書類を書くだけで結婚できるんだ、って言ってたのに」
「それはそうだけど......」
「ごめんごめん。旦那様が面白くてついからかってしまったよ」
「受理してもらってようやく結婚なんだね」
慎司は自分に言い聞かせるように呟いた。慎司の家から役所まではそう遠くはない。せいぜい歩いて十分ほどである。深夜の役所など行ったことがないので、少し冒険心を宿しながら涼音と一緒に歩いていく。
役所は涼音が言っていたようにとある一部分だけ、電気がついていた。どうやらあそこが深夜窓口らしい。涼音に確認すると「たぶん、そうだと思う」という少し曖昧な返事が返ってきた。
「教えてくれた時ははっきり言ってたのに」
「しょうがないでしょ。私だって初めてなの!」
涼音が少し顔を赤らめながら怒るのを初めてみた。
どちらも初婚なのだ。知らないことの方が多いだろう。涼音が知っていたのは誰かに教えてもらったのだろう。でなければ、深夜に「出しに行きましょう?」とは誘ってこない。
慎司と涼音は揃って窓口に張り付く。
「あーはいはい。婚姻届ですね〜。少々お待ちください」
眠いのかそれとも元からそのような声質なのか、どこかうわついているような感じの声を発した職員は奥でごそごそと何かをしたあと、こちらに戻ってきた。
「ね?空いていたでしょ。このまま書類をだしてしまおう」
「本当だね〜」
涼音が封筒を取り出して職員に渡す。その封筒には先ほど、慎司が書いた婚姻届が入っている。
「えーと、はいはい。......未成年の方がと保護者の同意が必要になりますが」
「あ、これです」
「なるほど、じゃあ書類の不備はなさそうですね。これで受理させていただきます」
「あの、保護者同伴でなくてもいいんですか?」
「構いませんよ。特にそのような規則もないし、問題も特に起こりませんから。ただここで婚姻届を出すかどうかを悩まれるのはやめて欲しいですけどね」
「ははは......」
窓口前で痴話喧嘩など起こされては職員も困り顔で見ているしかないだろう。せっかく結婚を考えるほどに相手のこと許していたのに、些細なことで喧嘩に発展してしまうのはもったいないことこの上ない。とはいえ、それも他人から見て思うわけで本人達からすれば余計なお世話だと言われてしまいそうだ。
「少し話を脱線させてしまいましたが、若者の結婚はおめでたいことですし、若いうちからこんなにキレーなお嫁さんがもらえて、羨ましい限りですよ」
「あ、ありがとうございます」
涼音が意味ありげな笑みを浮かべていた。意味は何となく察した。おそらくは「言われてるよ、旦那様」と言ったところだろうか。
「僕も結婚できて幸せです」
「ひ、人前でそんなことはっきり言わない!」
「でも本当だし......」
「はっはっは。仲がよろしいことで何より。これからも末長くお幸せに。結婚おめでとうございます」
涼音が恥ずかしそうにしていたので慎司は恥ずかしいという思いは感じていたもののそれを気にすることなく本音を話した。
「も〜人前で恥ずかしいこと言わないの、私が恥ずかしいでしょ」
「でもつい嬉しくなっちゃって」
「これで本当に夫婦になったよ」
「そんな実感湧かないな......」
「じゃあ手でも繋いでみる?」
役所からの帰り、涼音はすっと慎司に手を差し出した。夫婦の現実感がないことを話したら手を差し出された慎司はその急展開に驚きを隠しきれなかった。
「えっ?!いいの?」
「いいでしょ。だって結婚したんだし」
涼音の身を守るための仮デートでも手は繋いでいたような気がするが、正直あの時はもう何も考えられなくて、ただ涼音を狙う人達から守らなければという気持ちが大きかったので、はっきりと覚えていない。
しかも改めて手を出されると心拍数がどんどんと上昇していくのを感じる。
ふにっ、という効果音が最もはっきり当てはまる感じで慎司が涼音の手に触れる。
(や、やわらけぇえええええッ?!?!これが女の子の手?温かくて気持ちよくて......。これが死ぬまで触り放題なのか!すごいぞ結婚!!)
慎司の心の中は阿鼻叫喚していた。しかし同時に冷静で、今からこの感触を原稿用紙五枚ぐらいは書けそうだった。いや、それを書こうとしている時点で冷静ではない。
「そんなに強く触ると......痛い」
「ご、ごめん」
「あと触り放題っていうのもどうかと......」
「!?」
この時ほど冷や汗が出た日はなかった。
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