第11話「婚姻届」
初めて見る婚姻届に初めて自分の名前を記入した慎司はふと何かに気がついた。その何かが涼音の苗字だということを遅れて自覚する。涼音の苗字の欄には「緋山」の文字があった。緋山涼音という名前だったのだろう
名前ひとつとってみてもまだ何も彼女のことを知らないという事実が少しだけ慎司の心をちくりと虐めてくる。
婚姻届を書く前は自分で告白しておいてではあるが、もしかして自分を騙そうとしているのではないだろうかと疑いの心を少しあったのだが、美味しそうにココアを飲んでいる姿を見ているととてもそうは思えないし、自分が好きになった人に騙されるのならばそれはそれで運命なのだろうと諦めることにした。幸いにも涼音にそういう気持ちはなかったようで、婚姻届に書かれていることは全て本当らしい。
「旦那様の氏に合わせることにしたから」
「う、うん」
「どうしたの?」
「これを書いただけで夫婦になれるんだなぁ、と」
「確かに紙切れ一枚で恋人が夫婦になるなんて少し変な話かもしれないわね」
特にこれと言って深い理由はなかったが、素直に気持ちを吐露すると、涼音はそれに真摯に応じてくれた。
慎司が必要事項をどんどん書き進めていくとまた疑問に思えるような壁に当たる。
それは「証人」と書かれてあるところだ。二人分の記入欄があり、それはどちらともに埋められている。片方の名前は「緋山」の名前があることから涼音の血縁者か親戚のどちらかであろうことは推測できるのだが、もう一人の方である「小早川将太」という名前には何の関連性もなさそうだったのだ。
もちろん、慎司はさっきこの婚姻届を見せられたので、慎司の知っている人ではない。ということは涼音の関係者なのだろうが、一体何者なのだろうか。
「この証人のところなんだけど......」
「結婚するためにはそういうのが必要なのよ。ちなみにそれはハンコがあれば誰でもよくて、最悪通りすがりの人でもいいわけ」
「そうなの?!」
「さらに付け加えておくと、その小早川将太って人はさっき旦那様が喧嘩してた人よ」
「え......。よく書いてくれたね」
「ああ見えて案外優しい人なのかもしれないわね」
「......そ、それはどうかな」
小早川将太が優しい人に認定されるのならば世の中のほとんどの人が優しい人になってしまうのではないだろうか。ただ、涼音が言いたいのはそういうことではなく、例えば、ヤンキーが自分の命を顧みず車に轢かれそうになっている子猫を助けると普通の人がするよりも「いい人感」が出る、というのと同じで素直にいうことを聞いてくれたのが驚きだったということなのだろう。
「あとは、印鑑と戸籍謄本と本人確認書類とかがいるんだけど、持ってる?」
「大丈夫だと思う。......あったあった」
基本的に大事な書類をおいているところは自分で決めているので、特に探し出すこともなく、必要な書類を取り出した。逆にいえば、そこになければどこにあるのかはわからない。
「書けたよ」
「ありがとう。......「あしはら」ってこの字なのね」
涼音はしげしげと慎司が書いたものを見てから、婚姻届を封筒に戻した。どうやらそのまま持っていくのではないらしい。個人情報の塊なので当たり前だと言われれば当たり前なのだが、結婚という言葉に完全に浮かれてしまっている慎司は感心してしまうほどだった。
「葦原......涼音。結構いい響きだ」
慎司はその言葉の響きもそうだが、涼音が自分の苗字を名乗ったという事実にどきりとした。これから結婚するのだから、苗字はどちらかに統一するのが普通ではあるのだが、こうも簡単に「葦原涼音」と口ずさまれると心臓が持たなくなってしまいそうだった。
「あ、そうだ。大事なことを忘れていた」
「大事なこと?」
「そう。私達がスピード結婚すぎて忘れてしまっていた大事なことだよ」
慎司はぐっと考える。忘れてしまっていることとは一体何だろう。それを思い出せるか出せないかで何かが決定的に変わってしまうのだろうか。何だか涼音に試されているように思えて、うまく思考が回らない。
おそらくは普通のカップルや夫婦になる人々ならば必ず通る道。過程。
なるほど、そういうことか、と慎司は閃いた。
「僕はきみのことが大好きです」
「......お、おう。ありがとう旦那様」
「あれ?......違った?」
「ま、まぁ自分の思いをちゃんと相手に伝えるというのも私達にはまだ足りてないことかもしれないな」
「本当は何だったの?」
「挨拶」
慎司はそこでなるほど、と納得した。確かにそうだ。結婚するに際して改めて挨拶するというのは今ではどこでも聞くことではないか。それをうっかり失念するとは、と慎司は反省する。
「お互い不安はあるだろうし、まぁ、大変なこともこれからいっぱいあるだろう。でも人を見る目はあると思っているし、何より、私が信頼した人だから。......それに約束もしてくれたし」
涼音はそこで一旦、言葉を止めて、ゆっくりとその頭を下げた。
「不束者ですが、これからよろしくお願いします」
「こ、こちらこそ、よろしくお願いします」
これから起こることは当然誰にも予測できないし、涼音のいうように不安だらけではある。けど、それでも涼音を好きだと思って告白したことは何も変わらないし、それを受けてくれた涼音にはありがとうという気持ちと、これから守っていくんだという責任感がある。同時にもしも失敗してしまったらという不安もあり、見捨てられてしまう日がいつか来てしまうのではないかという無駄な考え事もしてしまう。
「......今更だけど、私も好きだからね」
だけど今は、今だけはそういう堅苦しいものは本当にどうでもいいと思った。
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