第10話「結婚」


 慎司が世紀の大告白を成功させて数時間。涼音の助言もあり、病院を訪れた慎司の身体は特に異常なし、という診断だった。慎司も自力で歩けるほどには回復していたので、必要ないだろうとは、薄々思っていたのだが、涼音の有無を言わせぬ口調に押し切られた。


 大事をとって入院しますか、と尋ねられたが何度も言うように自力で歩けるほどだったので辞退した。見た目では結構派手にやられているように見えるらしく、重傷者扱いさせそうになっていた。


 塗り薬と喧嘩はダメだ、という当たり前の指導を受けた後に病院から釈放された慎司は身体が疲労で悲鳴を上げている中、心は踊りたいほどに昂っていた。


(告白、成功、結婚!!)


 今の慎司の頭の中はこの三つの熟語でできていた。

 まさか、自分でもいい方の返事がもらえるとは思っていなかった。もしも慎司が涼音の立場ならば助けてもらった恩義があるとはいえ、その日に知り合ったよくわからない元はスーツの年齢の近い男に求婚をされたとして絶対に了承しないだろう。ナンパ避けのためにコンタクトを取ったのに、結局ナンパされてしまっているのである。これは本末転倒もいいところだろう。


 とはいえ、それは慎司が涼音だったら、の話だ。実際はその結論とは異なって、慎司の求婚に涼音は「結婚してくれるなら」と条件付きで了承したのだ。


「僕もついに結婚することになるとは......」


 このセリフを吐いているのは恋愛経験皆無の女性経験のない18歳の男の子であることを忘れてはならない。


 慎司はうきうきした気分で自宅へと帰宅した。いつもと何ら変わりのない間取りにインテリアなのだが、心が舞い上がっているからか、いつもよりも輝いて見える。


 涼音は慎司が病院で診察を受けている間に荷物をまとめてくる、と言い残して闇夜に消えていった。荷物をまとめてどこかへ行くのだろうか、と頭を捻らせた慎司だったがその意図には思い当たることができず、ここでぼんやりと涼音が来るのを待っていた。


 慎司の家については一応、教えてある。しかも一回分かればもう見間違うことのない場所なので、涼音が道に迷うだろうかと言う心配はしていない。だが、全く心配していないかと言われるとそうでもない。


(もしかしてここで実は嘘だった、ということはあり得るのかな)


 断ることも忍びないし、かといって受けたくもない、という葛藤に挟まれた時、人は自分の身が軽くなるように嘘を吐いてその場を凌ぎ、本当に身が軽くなった時を見計らってその姿を眩ませる。


 もしも涼音が慎司から逃げ出すためにその場凌ぎの嘘で「結婚してくれるなら」と返答したのだとしたら、この場所に来ることはもうないだろう。

 そうなれば、この浮ついた気持ちもぐっと落ち着いてくる。


「そうだったとしても、僕はちゃんと思いを伝えられたからいいんだと思うようにしないといけないな」

「何を伝えられたからよかったの?」

「僕が大好きだってこと......を......。え?」

「......そういうことを平気で言ってしまうのね、旦那様は」


 一人で悶々としていると、後ろから声をかけられて、その言葉につられるままに、心に秘めて置きたかったことが現世に放たれてしまった。あとそれから、慎司に対する呼び方が変わっている。


「いや、これは......事実だけどいうつもりはなかったというか」

「私が勝手に入ってしまったのが悪いということにしよう」


 ピシッと掌を慎司に向けて言葉を遮った涼音は自分が勝手に入ったことが悪いという結論で押し通すようだった。


「ピンポン押しても返事がなくて、空いてたし、勝手に入っていいって聞いてたから」

「うん、いいよ。いらっしゃい」

「荷物、ここに置いてていい?」

「うん、好きなところにどうぞ。珈琲淹れるね」

「あ、苦いのは......」

「砂糖だけ?ミルクもいる?」

「どっちも......」

「あ、ココアがあったからそっちにするね」

「あ、ありがとう」


 慎司はさりげなく、涼音が実はコーヒーをブラックで飲めないことを知った。慎司はお湯を沸かしている間に、自分のコップには珈琲豆をセットして、涼音のコップにはココアの粉を二匙ぐらい入れておく。水が沸騰したので、火を止めてごぽごぽと注いでいく。


(いつ見ても綺麗だなぁ)


 慎司は湯を注いでいる最中にこっそりと涼音を盗み見る。別に堂々と見てもいいのだが、何となくつい数時間前は全くの関係もなかったことを考えると、付き合うようになったからと言ってすぐに不躾な視線を向けることはよくないだろうという少ない慎司の理性が働いた結果だった。


「はい、お待たせ」

「ありがとう。今の時期だとたまに飲みたくなる時があるのよね」

「心も落ち着くからね」

「......旦那様、今、私の気持ちを読んだ?」

「ん〜ん。読んでない」

「ならいいけど」


 涼音は煮え切らない返事をしたかと思うと、ココアをテーブルの上に置き、バッグの中からごそごそと何かを探し始めたかと思うと、それは案外簡単に見つかったようで、涼音は手に持っていたそれをテーブルの上にすっと置いた。


「婚姻届」

「ここここここここ」

「ニワトリ?」

「婚姻届ぇええええッ?!」

「そこまで驚くことじゃないでしょ。だって結婚してくれるならっていう条件だったし」

「そ、そうだけど」

「あ、わかりました。ならこの件は無かったことに......」

「ま、待って!!まだ嫌だなんて一言も言ってないよ」


 慎司は涼音が婚姻届をしまおうとしているので必死にそれをとめた。そのあまりの必死さに涼音が笑いを堪えきれなくなったらしく、ふふふ、と笑うので慎司は笑われながら、自分の名前を婚姻届に書き留める羽目になった。

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