第8話「きみの男になるために」


 先に動いたのは男の方だった。

 慎司には護身術は勿論、柔道、合気道、その他武道は何一つ履修していない。つまり単純な動体視力と反射神経のみで対決しなければならない。とはいえ男の方も殴りかかってくるフォームを見ればそれが素人であると言うことは何となくわかるので、慎司はその拳が顔面を狙っているものだと判断し、避けて、相手の腹に目一杯の力を込めて拳を放つ。


 しかし、それは男の方も予測済みだったようで空いていたもう片方の手で何なく止められた。しかもその上、慎司の拳は完全に捕まった状態となり、引き抜こうとしても強い力でそれを拒まれ、片方の手が思うように使えなくなってしまった。


「こっちはなァ、伊達に喧嘩ばっかりしてきてねぇんだよッ!!」

「うぐっ?!」


 慎司の手を掴んだ男の手は握力で潰してこようとしてくる。苦痛に慎司はたまらず顔を歪める。その一瞬をついて、男のもう片方の拳は手首を掴んで防御していたのに、解けており、顔面に強烈なパンチを喰らう。


「うぉおおおおっ!!」


 負けてられない、と根性だけで意識を保った慎司が反撃とばかりに頭突きを男の顔面にお見舞いする。べきっと変な音を立てたかと思うと、慎司の拳から手を離して、自分の鼻を抑えていた。その様子を見て、あぁ、折れたのかな、と予想するも気にかけてやるつもりはない。


 喧嘩は得意ではないが、今回の場合は慎司の中で少し事情が異なっている。それは自分ではなく、涼音を困らせていたところだ。慎司だけならばまだ一人我慢すればいいだけだが、涼音に被害を被らせているというところが許せない。


「もしも、僕が勝ったら......もう二度と、涼音ちゃんには付き纏わないことを約束しろ」

「あぁ、いいぞ。だがもしも俺が勝ったら、お前の前で犯してやる」

「絶対にさせない」

「言ってろ、ザコが」


 慎司が右腕を振りかぶって接近する。その瞬間に男はニヤリと笑みを浮かべた。それは完全に次の行動が読めるからだ。右腕を思い切り振りかぶっているのだから、これは右ストレートしかありえない。

 そこで男は右に避けて慎司が空打ったところを顔面ストレートで一発を狙うことを選択。

 慎司の右腕が伸びてくる。


 それを瞬間的に避けようとする男に何故か、衝撃が走った。何かが横から物凄い勢いで顔にぶつかってくる。


 それが慎司の拳だと言うことに気づいたのは飛ばされた後だった。


 慎司は殴り合いの初心者としての立場を逆に利用して大振りの演技をして見せて、本命は左の拳による腹に強烈なものをお見舞いしてから、右の拳でフックを決めると言うものだった。

 男には右フックを決められたと言う感覚しか残っていないようだったが、しっかりと鳩尾にダメージが入っているはずだ。


「もう立てないだろ。顔面と鳩尾に衝撃を加えた。下手に動くと呼吸ができなくなるぞ」

「クッソがァ......」


 捨て台詞を吐くと、そのまま男は何も話さなくなった。素人の暴行なので、暴力に慣れているであろう彼にとっては一時的なダウンというだけで別に意識に障害が残ることや、精神崩壊を起こしてしまうことにはならないだろう。


 慎司は男が完全に動かなくなったのを確認したことによって緊張が解れて安心してしまったのか、急に腰が抜けたかのようにその場に倒れ込んだ。

 慌てて涼音が慎司のことを抱き起こそうとするも、うまく力の入らない慎司はただされるがままだった。上半身だけ起こされた形で涼音に身体を預ける。


 女性の身体に密着するのは良くないのだろうが、今はそのようなことを言っている場合ではない。


「キミにそこまで力があるとは思わなかったな」

「そう?......人間はやろうと思えば何とかなるものだよ」

「私に任せてくれたらよかったのに」

「きみに任せられるわけないじゃないか!もしものことがあったら......」

「あったら?」

「僕はきっと後悔する」


 慎司は率直な気持ちを伝えた。身体を張って慣れない喧嘩をしたのも涼音を守りたいと心の底から思ったからである。


 だからだろうか、慎司はずっと今日一日想っていた心を言葉としてすんなり口に出すことができた。


「それでも頑張りすぎよ。身体がもうボロボロじゃない」

「あはは......。慣れない喧嘩はするもんじゃないなぁ」


 慎司は空を見上げた。昼間に見た晴天とは違い、今は満点の星空がそこにはあった。


「一応、怪我の具合からも病院に行ったほうがいいよ」

「そんなにひどいかな」

「今はアドレナリンが出ているから大丈夫かもしれないけど、もしかしたら折れているかもしれないから」


 頭上で心配そうな声をかけてくれるが、今の慎司には子守唄にしか聞こえない。それぐらい全身が怠く、動こうと言う気力を割いてくる。


「わかった?」

「うん、わかった」

「じゃあ、私は行くね」

「......どこへ?」

「元々今日だけ付き合ってもらったわけだし、この件も元はと言えば私のせいだし、救急車は呼んであげるから」

「どこに行くの?」

「キミとはもう二度と会えないような場所」


 どくっ、と脈打つのを自覚した。

 本当にこのままでいいのか。

 このままさようならでいいのか。


(いや、そうじゃないだろ)


 消えていく好きな人の背中を追うべく、慎司は立ち上がった。

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