南へ

「それじゃ、またこんな所に帰ってくるなよ」

「……はい。戻ることは無いと思います。今までありがとうございました」

「”無いと思う”ってなぁ。とにかく頑張れとしか言えないが……首都圏には近寄るな。気をつけろよ」


 顔なじみの刑務官が刑務所の正門で今まで監視対象だった長く艶やかな髪の女に餞別の言葉を掛けた。彼女は一言礼を述べたが、刑務官の最後の言葉が気にかかっていた。


「”首都圏には近寄るな。気をつけろ”って……なんだろう。」


 彼女の目的地はその首都圏であり、娑婆しゃばの知識は中学までで止まっている。

 首都圏からはほぼ北東へ数百km離れた刑務所がスタート地点のため、彼女はひとまず南へと足を運ぶことにした。


「まぁ、いいか。どうせ目的を果たしたらこの世とオサラバするんだし」


 生活に最低限必要な物品と刑務作業で得た作業報奨金の封筒が入った中型のリュックサックだけが彼女の全財産だった。

 両側を耕作放棄地と山林で囲われた誰もいない道を数キロ、十数キロと歩く。車は今の所一台しか通らず、ダメ元で手を挙げて近くの街まで同乗させてもらおうとしたが無視された上にスピードを上げて走り去られてしまった。


 雑草と跡切れ跡切れのガードレールと木以外に途中で目にした物といえば


『野生動物飛び出し注意!』

『ヒッチハイカーに注意!!刑務所からの脱獄犯の可能性があります』


 この2種類の看板と廃屋に打ち付けられた判読不能の錆びた広告だけだった。

 その代わり、刑務所に入る前には聞いたことのない昆虫かなにかの鳴き声が脳裏に染み付くほど暑苦しく響いていた。それを聞いているうちに喉も渇き、歩くペースが徐々に落ちていく。


「この辺、自動販売機ぐらい無いのかな?」


 背負っている荷物には飲料や菓子などの軽食を入れてこなかった。どうせ近くにコンビニかなにかあるだろう、と気楽に考えていたのが失敗だった。喉の乾きが限界まで来たところで道の端で彼女は座り込んだ状態で意識を失いそうになる。幸い、木陰の続く道で暑さはしのげたが、それでも徐々に体力が奪われている。このままでは目的を果たせない、と立ち上がろうとするが思うように力が入らない。


「ちょっと、ヤバいかも……」


 そうつぶやくとそのまま眠るように意識を失ってしまった。


 ***


 どれぐらい時間が経過しただろうか。

 朝の9時に刑務所を出て、そこから徒歩でかなりの距離を歩いてきた。

 日は暮れかかっており、あれほど煩かった虫たちの声も収まりつつある時間帯になっていた。

 遠くの方から地響きが聞こえる。


「♬~のぉ~舟はぁ~~っと♪いの……んん??」


 カーオーディオから流れる演歌を自分の調子でご機嫌に歌っていた大型トレーラーの運転手が人気が少ないはずの道で人らしきものがうずくまっているのを見つけてしまった。

 から数十メートル離れた位置で車を停める。


「おいおいなんだってンだよ。まさかじゃねぇよな?」


 運転手はエンジンを止めてサイドミラーに映る物体Xを暫く凝視していた。

 それまでの音に気がついたのか、ヨロヨロと立ち上がる物体X。よく見ると髪の長い若い女性のように見えた。


「やべぇ!キュージーQZだ!!」


 慌ててエンジンを掛けようとする運転手。しかし、その時確かに人の声で助けを叫ぶ声を耳に入ってきた。

 エンジンがかかり、ゆっくりと動き出すトレーラー。運転手は再びサイドミラーを凝視する。

 若い女性は自分のリュックサックを背中から外すとトレーラーへ向かって投げつけようとしたが、10メートル行くか行かないかのところで落下してしまった。


「?……もしかして、人??いや、こんなところに居るはず無ぇよな」


 ブレーキを踏み再度トレーラーを停めた運転手は、念の為と、座席の後部からメンテナンス用のモンキーレンチを取り出してベルトに挟み込むと、意を決してトレーラーから降りる。黄昏時の道端には投げつけられたリュックと膝から崩れ落ちてしまっている女性が視える。

 運転手はリュックだけ持ち去ろうとすると女性から息も絶え絶えの声が聞こえてきた。


「全…財産、持って、いかないで……!」

「!!!ひ、人か!?人、なのか??」


 女性は頷くとそのまま倒れてしまった。

 慌てて駆け寄った運転手は女性を抱き起こすとその体を激しく揺すりだした。


「おいネェちゃん!すまねぇ!起きてくれ!!キュージーと間違えちまってすまん!!」

「……き、キュージーって、なんですか?」

「えっ」

「…それより、お水。お水持ってませんか?朝から何も飲んでなくて……」

「お、おう。車に戻りゃあるけど」


 運転手は彼女を立ち上がらせると肩を貸し、自分のトレーラーへと一緒に戻っていった。


 ***


「ありがとう、ございます……助かりました。」


 彼女は900ミリリットルはあるであろうスポーツドリンクを一気に飲み干すと、安心したのか、固まっていた表情に少し笑みが浮かんだ。

 その様子を見ていたトラック運転手は自分の行いを恥じながら久々の人間ヒトとの出会いを噛みしめる。


「おい、ネェちゃん。そんな一気に飲み干しちまって大丈夫か?」

「私、ネェちゃんじゃないです……名前があります」

「そうだよな。ハハッ。……で、名前は」

「……愛、五十木いかるぎ、愛です」

「そうか、アイちゃんか。俺ぁ大島正彦ってんだ」

「オオシマさん。大島さんですね」


 大島はモンキーレンチを運転席の後ろへ戻すとかかりっぱなしだったカーオーディオの電源を切った。そして頭をゆっくり上に向けると左右に振りコキコキと音をたて、そのままため息をついた。本題に入るためのマクラがどうしても思いつかない。昔から人付き合いが少々苦手で大型トレーラーのドライバーになったぐらいだが、今は人を見ると語彙力が乏しいのに話しかけたくなるほど人との出会いには飢えていた。


「ところで、愛ちゃんは何であんな所に居たんだい?」


 意を決して本題を直接聞き出す。


「南へ。東京へ、行きたいんです」


 東京へ。それを聞いた大島は表情が重苦しいほど曇りだす。


「愛ちゃん、済まねえが……そりゃ、無理だ」

「無理、って。どうしてですか」

「QZだよ。日本の各地っつうか…特に東京で変な病気が流行っててよ。そいつに罹ると暴れだして手がつけられなくなる。そいつらのことをどこかの誰かがQZって言い始めたんだ。東京はQZ奴らでオリンピックどころじゃねぇってのに、政府は無理してでもオリンピックをおっ始めようとしてやがる」

「オリン、ピック?」

「おう、そうよ。東京オリンピック。明後日だっけか?始まんのは」


 大島は愛のオリンピックに対する反応を若者の無関心なのだろうと捉えて話を止めまいと必死に頭を巡らせていた。


「病気なら対策や予防が出来るんじゃないんですか?」


 愛は率直な疑問を大島にぶつける。

 刑務所では出来なかった言葉のやり取りを約7年ぶりにしていることにやや興奮していた。


「俺ぁ昔、ヤンチャしててさ。高校には入ったけどタバコに酒、バイクに喧嘩にパチンコと明け暮れてたから殆どベンキョウなんてしてねぇし、普通の病気のこともよく分かんねぇけどよ、それは無理だと思うぜ。なんせ空気感染するって匿名掲示板にいくつも書いてあってよ」


 愛は目的地への直行便を掴んだとぬか喜びしていたことを隠すかのように下を向いてしまった。匿名掲示板の話は本当なのか、もしQZ彼らに遭遇したらどうすれば良いのか。


「おぉ、ゴメンな。愛ちゃんだって知ってる話だよな?」

「いいえ……」

「え?」

「実は……刑務所で服役していて。今日、釈放されて外の情報に触れるのは久しぶりなんです。ジュース、ありがとうございました。私、別の方法で東京へ向かいます。ジュース代、お支払いしますね」


 愛は初対面の相手に一般社会では忌み嫌われる場所からの帰還者であることを伝え、200円を封筒から取り出すと大島の手に握らせトレーラーから降りようとした。


「ちょ、ちょっと待った!!……そうか。何の罪でブチ込まれたのかは知らねぇけど、大変だったな。もう刑期は努め上げたんだろ?そんなら、東京のド真ん中までは乗せて行けねぇけど、出所祝いに近くまで連れてってやるよ!」


 大島は慌てて愛のリュックを掴む。彼女の望みを自分ができる限り叶えることにしたのだ。

 人気のない一本道にヘッドライトが灯り重いエンジン音が鳴り響く。


「じゃ、いっちょ行きますか!!」


 カーオーディオからは演歌が流れ、トレーラーはゆっくりとその巨体を前進させはじめた。

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