チイサナセカイ・1

「もう!!おめーは何度言ったら忘れ物しなくなんだよ!?」

「ごめんなさい……」

「それと、自分の使った物は自分で洗って片付けるまでが”始末”って言ったよなぁ。」

「……はい」

「それすらできてないっ!!いつからお前おめーはお姫様になったんだよ。この、クソガキ!!今日は晩飯抜きだかんな!!!」

「え?……ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

「何が”え”だよ!お前の謝罪には誠意が無ぇって2~3日前にも言ったよなぁ、おい!!」


 アパートの一室に響くのは尋常でない音量の女の叱責。

 そして外には聞こえない、少女の謝罪の言葉の数々。

 近所の住人たちの中では”あの母親、また癇癪かんしゃく起こしてる”と呆れた表情で無視を決め込むのが日常になってしまった小さな世界。

 その世界には、住人がもう一人いた。


「お~い。帰ったぞ。酒ェ、酒とメシすぐ持ってこいや……」

「!!!!!」


 ほんの些細なことで叱責されていた少女の視点からでも分かるほど母親の全身がゾクッとなるのが見え、安堵の表情を浮かべたが、それも長くは続かなかった。

 少女の顔色を伺う女は鬼のような形相で睨みつけるやいなやスッと立ち上がり、少女の足の小指に己の全体重を踵に預け踏みつける。お世辞でもプロポーショナルな体つきではない女の体重は子供にとっては凶器そのものである。


「?おい、ヒヨリが何でこんら時間にまだ部屋着じゃねぇんだよ?……ん~?もちかちてヒヨリちゃ~ん、パパちゃんセレクトのお姫様コーデ、も、もう飽きちゃったーのかな~~?」


 女への対応とヒヨリと呼ばれた少女の対応がまるで違う。外で呑んできたのであろう。明らかに男の話し声は酒臭かった。

 その酒臭い吐息のままヒヨリへと近づくと舐め回すように少女の額や頬にキスをする。

 少女は困惑しつつも父さえ居れば母親から受けるすべての暴力から開放される事を幼い頃から刷り込まれているため、父には何をされても我慢をしていた。



「あ、あなた……今日は帰り早かったのね」

「あ゛ぁ!?なんだユカリてめー……俺が、は、早く帰ってきららあんか不都合らことでもあんのか、おう?」


 酒が回っているせいでろれつが回ってない。

 安全靴を脱がないというか、自分で脱げないのか。はたまた靴を脱ぐこと自体を忘れてしまっているのか。この”家”の主人であろう男は土足のままユカリと呼ばれた女のもとへヨロヨロと歩を進める。ユカリに手が届くかどうかの所で男はドタっと大きな音を立てて転倒した。


「ちょっと、あなた!?……ねぇ飲みすぎなんじゃないの?あ、あと。靴、が……」

「靴ぅ!!そぉれがあんだってんだぁよ!おめえには関係ねぃだろ!!!」


 四つん這いになりかけていた男は酔っているにも関わらず素早い動作でちゃぶ台にあった水入りのコップをユカリに投げつけるが、彼女に当たる事はなく壁に打ち付けられ小さな破片となり周囲に散らばる。

 ユカリが割れたコップに気を取られていると男は既に立ち上がっており、彼女の腰を蹴った。堪らず両の手を付くがそこにはガラスの破片いくつも散らばっており、手のひらへと食い込み血を滴らせる。男は知ってか知らずかそのまま彼女に追い打ちの殴打を繰り返す。


っ!!」

「っるせぇらぁ……俺ぁ早く酒を用意しろっってんだよ!?なんでそんな事もできない女が……」


 ドン、ドンドン!!!


「カマタさん?カマタさん??」

「ちょっと、どうしたのよ?」

「カマタさんの旦那。こんな明るいうちからま~た暴力振るってるっぽいのよ。さっきヒヨリちゃんも奥さんにこっぴどく叱られてたみたいだし、今回こそ本気で釘刺さないと」

「またなの?……もうここのダンナさんと奥さんっていっつもそうよね」


 まだ夕方と言うにはやや早い時刻の耳障りな騒音に痺れを切らした近隣住民たちが子供とユカリの安否を確かめるためかアパートの安物ドアを叩いて様子を伺いに来たようだった。


「……けっ、場違いババァ共はすっこんでやがれ!!」


 ドアの横にある少し開いた窓から様子を伺った男はドアも開けずにご婦人たちを怒鳴りつけた。


「ババ……!アンタ、またユカリさんに暴力振るってるのね?警察、警察呼ぶからね!そこで大人しく待ってなさいな!!」

「そうよ警察呼ぶわよ!!!」


 年相応の罵詈雑言が気に食わなかったのか、本気でカマタ家を心配しているのかはさておき、隣人たちは110番のためにそれぞれの家へと引っ込む。

 それから15分ほど経過しただろうか。最寄りの交番からスクーターで警官が一人、目的地のアパートに到着すると、またか、という表情で表札を一瞥する。


  鹿又 辰吾

     友梨佳

     陽々璃ひより


「鹿又さん!!綾瀬警察です!お子さんの泣き声と奥さんの悲鳴が聞こえたとの通報がありましたんで、ちょっとドア開けて貰えませんか!?」


 暫くすると小さな被害者がドアを開けると中に警官を呼び込もうとした。


「ヒヨリ‥ちゃん、だね?」

「お母さん……血まみれなの」

「血まみれ?お母さんが?」


 血の気が引いた少女は無表情で小さく頷く。


「……綾瀬南交番、コウノから本局。PC一台、綾瀬*丁目20の1の**、メゾン************Bに至急手配されたし」


 警官が無線連絡をしている最中、裸足のまま外へと出てきてしまった少女の足をふと見ると左足の小指を中心に紫色に大きく腫れ上がっていることに気づく。


「コウノから本局。同住所に救急車も1台、追加で手配されたし。通信以上……」


 いつもなら仲裁だけで済む事が多い辰吾の家庭内暴力だが、今回はとうとう事件に発展してしまいそうだった。


 ***


「こっちが先に来たか」


 程なくして救急車が1台、アパート前の道に横付けされた。

 何事かと近所からちらほら集まる老若男女。少女を抱える若い警官が衆目の的になるのは当然だったが、応援が来ないからには引っ込むことも出来ず救急車に早足で接近していく。

 少女の身を救急隊員に引き継ぎ、他にも負傷者が居ると伝えると野次馬を避けつつアパートへと踵を返そうとしたが、少女が彼の手から離れる際、気になる言葉を投げかけられたことがずっと引っかかっていた。


『お父さんは悪くないから、たいほしないで』


 母子共に暴力を振るわれているであろう少女の言葉にしては不可解すぎる。

 野次馬の動きに気を取られていると、少女が出てきたアパートの一室から尋常ならざる女の悲鳴が耳に届いた。


「!!!」


 咄嗟にアパートの部屋の前まで警官は全力で近づく。


「鹿又さん!?綾瀬警察です!奥さん、大丈夫ですか??!」

「っせぇぞ!!!」


 明らかに呂律の回っていない男の怒鳴り声がした瞬間、ドアがボロボロになった女を吐き出す。

 同じドアから赤鬼のような男が出て来ると、コンクリの床に伏せたまま動かない女の髪を鷲掴みにし、無理やり立たせるとそのまま2階の廊下を支える支柱に叩きつけた。

鉄骨に叩きつけられる鈍い音と骨の砕ける音が混ざり、嫌な音がする。

 警官は咄嗟に女を庇いに入ったが、男はお構いなしに警官ごと女を蹴り続ける。日頃から鍛えているとはいえ安全靴で蹴られることは想定していない装備だが、そのまま応援が来るまで耐えるという選択肢しか彼にはなかった。


 野次馬は規制線も張られないまま放牧され、パトカーの到着を拒む。痺れを切らした中年の警官がアパート前まで駆けていくと後輩が女性を庇ったまま朦朧としている場面に出くわした。


「おい、お前!……公務執行妨害の現行犯で!!逮捕する!!」


 警棒を構え、後輩と女性を一緒くたに蹴り続けている赤鬼のような男に対して宣戦布告すると、男はようやく動きを止めた。


「おいポリ公……俺のひよりちゃんをドコに隠したぁ……?」

「……?ひより……」

がついてらいぞぉ!!!」


 次の瞬間、赤鬼は中年警官に突進してきた。が、泥酔していては的も定まらず手前で足がもつれて失速し、前のめりに転倒するだけで終わってしまった。


「くっそ、ビビらせやがって!!……おい、コウノ!生きてるか!?コウノ!!」


 名前を呼ばれた警官はヨロヨロと立ち上がり先輩警官の応答に辛うじて応えると、手錠を掛けられまいとバタつく赤鬼の足に倒れ込んだ。


***


大捕物ではなかったもののパトカーはいつの間にか4台に増えていた。応援部隊による野次馬の整理と被疑者の移送も終わり、後は傷ついた母子が救急車内に押し込まれ、救急隊員が受け入れ先を無線で探している。


「お兄さん、ひよりはお母さんと一緒のびょういんになるの?」


助手席の隊員に陽々璃が質問を投げかける。


「うん、そうだね。一緒になるよ。お父さんは一緒じゃな……」

「イヤ!!お母さんと一緒はイヤ!!お父さんの所に連れてって!!!」

「えっ?」

「お母さんは毎日、ひよりをいじめるの……足が痛いのも、お母さんが、踏んだから……」


小学校1年生にはとても見えない程の体躯の少女が母の罪を告発した。

てっきり父親から受傷した傷と思っていた車内の隊員全員が目配せして外へ出る。


「母親からの虐待事案、か」

「ですね」

「母親と同じ病院には入れられないってなると、もう一台必要だけど……」

「待機車両はもう消防車しかいませんよ。ここのところ、錯乱者による受傷案件と不可解な事故が多くて。」


……トン!トトン!!……トントン!

小さな拳が出す救急車のフロントガラスを叩く音に気づいたのは無線係だった。


「どうした?痛い??」

「ここから出して!お母さんと一緒はヤダ!!ねぇ、出して!お兄さん!!」

「先輩、どうします?」

「しょうがねぇな……」


年長の救急隊員の視線の先にはパトカーとスクーターが一台ずつ残されていた。

おそらく鑑識が到着するまでの現場保存のためだろう。


「すいません。ちょっと、いいっスか?」

「どうしました?」

「収容先が2つに分かれそうなんですが、こっちの車は全部出払ってまして。その……パトカーで女の子を病院まで搬送願えませんかね?」

「良いですけど、どうして」


救急隊員が暗に児童虐待事案であることを伝えると、警官は少し考え同僚を手招きして呼ぶ。


「あの子がね、母親を異常なまでに恐れているんで。おそらく、女の子の傷は母親がやったものかと」

「そうですか。分かりました。ウチの若いのも相当やられてるんで、そいつと一緒に病院へ送りましょう。候補先を教えてもらえませんか……」

3人の審議が終わり、それぞれの持場へと戻っていった。救急車がパトカーに横付けされ、少女がパトカーへと移される。

先客の傷だらけの警官と少女は後部座席に乗り、少女の母とは別の病院へ向かうことになった。


「お巡りさん。お父さんが、ごめんなさい」

「陽々璃ちゃんが謝らなくても良いんだよ。悪いのはお母さんをいじめたお父さ」

「違うの!!お父さんは陽々璃をお母さんから守ってくれたの!!お父さんは悪くないの!!!」


少女は父の完全な味方だった。

困惑する傷だらけの警官は手袋を外すと、少女の手をゆっくり握りしめながら優しく語りかける。


「そうかも知れないけど、僕は君のお父さんにボコボコにされちゃったんだ。お母さんもね」

「お母さんなんて要らない。あのまま死ねば良いのに」

「そ、それは言い過ぎじゃないかな?」

「ひよりは毎日毎日、お母さんにいじめられてる。それを知ってるのはお父さんだけ。周りの大人は見てるけど、助けてくれなかった」

「……」


若い警官は少女の独白に沈黙するしかなかった。

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