過去3-3

「……さん!お客さん!!着いたよ!!お客さん!!?」


 歳のせいだろう。少ししわがれた声の主が困惑半分怒り半分のような口調で目的地への到着を知らせる。岡埜は先ほどの屍人のような呻き声を上げると肩を片方ずつ上げ、それに合わせて後頭部を上げた肩のほうへ近づけるように捻る動きで関節をバキバキといわせると、眉間にシワを寄せた運転手に一礼し、タクシー代を払おうとチノパンの尻ポケットを弄る。が、財布がない。車の中へ荷物ごと置いてきてしまったようだ。


「アンタさぁ、困んのよ。どっから来たのか分かんねぇけどさぁ。財布忘れてきたって……どうすんよ、"" お 客 さ ん ""??すぐそこ行ったところに交番あるから、そこで話の続きはオマワリさん挟んで訊くけどよぉー」


 運転手の眉間に更にシワが寄る。

 申し訳無さそうに縮こまる岡埜は自分より遥かに小さい老いた運転手に暫く言い返せなかった。


「すんません。本っ当ぅにすんません。ワシ、広島で警察官やっとるんですが、今、名刺も警察手帳も無いんじゃ……」

「はぁ?!ケイサツ??……血みどろのズボン履いた奴がオマワリだとぉ……?おぅ、江戸っ子ナメんのもいい加減にしやがれってんでぇ……!」


 更に勢いに乗り、ドスの効いた声で迫る運転手。昔は相当ヤンチャな若人だったに違いない。

 運転手と岡埜とでは頭2つほどの身長差があったが、いともたやすく運転手の手は岡埜の胸ぐらを掴んだ。


「えっ??あっ……!あ~~~~~!!もう我慢ならん!ワシがオマワリじゃっつう証拠連れてくるけぇ、アンタ!そこで待っとれや!!」

「ケッ、誰が動くかってぇんだよ?!こちとら昭和の44年から半世紀、コイツでおまんま食ってんでぇ!!運賃払わねぇってんならヤクザだろうがオマワリだろうがすぐそこの交番に……」


 大人気ないといえば大人気ない喧嘩の火蓋が病院の迎車スペースで切られた。

 岡埜はガッチリと掴まれた胸ぐらを警察仕込みの体術でいともたやすく振りほどくと病院の中へ入っていこうとする。それを制するかのように運転手は慣れた手付きで彼のベルトと手首を掴み、勢いよく足払いを仕掛ける。しかしそんな攻撃如きで微塵も動かない身体を持つ男、それが岡埜だった。


 そこへ病院ボランティアと思しき老人が割って入ろうとする。


「あ……あのぅ…喧嘩なら他所で……?あれ?チエコちゃんの……お父さん、じゃないですか?」


 岡埜にとっては助けに船であった。


「ええ、岡埜チエコの父です。むすめ、娘は……」

「ぁんだよ、ここに娘入院してるん……ってアンタその歳じゃ娘さんまだ……」

「……」

「黙り込みやがって。おい、アンタ。そういうこたぁ乗ってすぐ言えってんだよ」

「すいません、運転手さん。岡埜さんは広島からこちらまで来ていらっしゃって…」

「!!え?アンタ本当に広島から??じゃ、警察官ってのも……」

「ええ、岡埜さんは広島港東署で刑事さんやってるんですよ。今、奥さん呼びに行ってきますから……」

「あっちゃ~!!オイラとしたことが!!!お、オカノさん?お代はここの用事済んでからで良いからよ、兎に角、娘さんとこ行ってきな。オイラ、ここの駐車場で待たせてもらうからよ?」

「岡埜さん?もしかして、タクシー代払うお金無いようでしたら……私で良ければご用立ていたしましょうか?」


 急に態度が軟化した運転手と助けに船のボランティア。両方とも70はゆうに超えているであろう老人が二人。岡埜はこれが今の日本の現状か、と苦笑いを押し堪えるように口を真一文字にして襟を直そうとするが、第2ボタンが外れていることに気がつく。着替えた時から外れていたのか、先ほどの喧嘩で外れ飛んでいってしまったか、そんなことはもうどうでも良くなっていた。


「そちらのお話はもう宜しいですか?お済みでしたら奥さんとお客さまが待っておられますので、病室までご案内しますが」

「お願いします」


 岡埜は病院ボランティアの老人と共に入院病棟のエレベーターへと向かっていく。

 そのエレベーターは正面の入り口からは見えない病院の奥にあり、距離も離れてたが岡埜も老人もその間、一言も喋ろうとはしなかった。


「では、私はこれにて。チエコちゃん……やっと、お父さんに逢えますね」


 エレベーターへと入り、深めに一礼をして顔を上げた岡埜に老人は伏し目がちに別れの言葉を送る。

 娘と父の絆か、刑事の勘なのか。背中を嫌な汗が伝うのを感じつつドアが閉まる直前だというのにそこから立ち去らなかった老人の目からは涙が零れ落ちているのが見えた。


 ガッシリとした体躯の男が一人、愛娘の最期を見届けられなかったという事実を喉元に突きつけられたまま動く函は父親を娘の病室がある階層と運んでいった。



 ***



 病室に娘の姿は既になかった。


 岡埜と同い年であろう妻は娘が元気な姿をしていた頃とは見違えるほど痩せ細り、憔悴しきっている身体を窓際の椅子に預け、外界を虚ろな目で見ていた。その姿はまるで現世に未練を残した亡霊そのもののように彼には見えた。


「あなた……遅かったじゃない」


 薄化粧のせいか見るからに青ざめている彼女の口からはそれが精一杯の言葉のように聞こえた。


「す、すまん。これでも急いできたんじゃけどの、ちぃとトラブルに巻き込まれてしもうて……」

「いいわよ。剛志さん。ウチらより仕事が……」

「いや、そがい訳やない。ただちぃと……」

「……なにが”ちぃと”なんよ!!娘が!チエコが………!!」


 立ち上がるなりその場に倒れ込みそうになる妻を岡埜は既のところで抱きかかえ、立たせようとする。妻の全体重が岡埜にのし掛かっている筈だが、冷たく、そして軽かった。まるで妻の形した、柔らかいマネキンを抱いているように思えた。


「すまん……ワシがもうちいとチエコとお前の事を大事にせにゃあいけんかったのに」


 妻の無言の抗議が岡埜のシャツ伝いに背中へと向けられる。岡埜はそれを無言で受け止め抱きしめるしか出来なかった。

 大切なわが子を失った二人はそのまま互いの肩を涙で濡らし続けた。


「おかの…岡埜 剛志たけしさんですね?」


 いつの間にかひと目でテーラードと分かるスーツを着込んだ、メガネ面で細身の男が一人。夫妻とベッドを挟むかのような位置に立っていた。


「!……どちら様、で?」


 気配を感じ取れなかった岡埜。内心は狼狽えていたが、隙を見せまいと妻を自身の左後方に隠す。


「このような状況の時に申し訳ございません。自己紹介がまだでしたね」


 スーツの内ポケットから出てきたケースには名刺が入っており、気を張っている岡埜へと差し出される。


  ” 再生医学研究センター

    所長 

    医学博士 杜陵 優治

   (元 XX大学公衆衛生学 准教授) ”


 どうやら名刺は本物のようだ。

 名刺ケースを元の位置に直しつつ男は畳み掛けるように口を開く。


「私、青蓮しょうれん製薬グループの再生医学研究センターで所長をやらせていただいております、モリオカです。お父様ですね?丁度良かった。今日は、娘さんの件でご報告に……」

「……われェ!!!ワシの娘に何したんじゃ!?!!!」


 岡埜は自分でも信じられないスピードで間合いを詰めると、両手で杜陵のスーツの前襟をがっしりと掴みにいっていた。そのまま首を締め上げようと力を込めたその時、妻の精一杯の声が病室に響いた。


「剛志さん!!その人を責めんで!!その人……うちの、最後の願いを聞き入れてくれんさった、恩人なの……」

「恩……じん??」


 妻からの思いも寄らない言葉が発せられると、力を込めていた手が杜陵の首からすうっと離れていく。

 捕縛から逃れられた杜陵は乱れたネクタイを直しつつ言葉を畳み掛けはじめた。


「娘さんを"治験"第4次枠に入れて欲しいと、奥様からたってのご希望がございまして。本来ですと、小児の患者様は対象外なのですが、今回は特別に、とお伺いしたのですが……残念ですが未明に息を引……」

「治験?なんじゃ、内容は!」

「ええ、事故や脳梗塞、進行性の病気などで身体が思うように動かせない方々のために、私どもは再生医学と治療薬の研究を行っておりまして……」


 杜陵は病室に備え付けられている椅子を2脚用意すると岡埜に座るよう勧めながら話を続ける。


「今は第3次治験の経過観察を行っている最中なのですが、奥様からは8ヶ月ほど前に私どもの再生医療で娘さんの命を救えないか?と問い合わせが寄せられまして」

「……剛志さん、ごめんなさい。本当なら、あなたの意見も聞きたかったんじゃけど」

「チエコのために、お前も必死じゃったんじゃろ?ワシぁそがいなの苦手じゃけぇ……」


 片付けられたベッドを挟んで向こう側に居る妻は力なく二人を見つめている。


「おや、ご主人にはお話されていなかったんですか?」

「ええ。この前提供したサンプルの件もまだ……」

「そうでしたか。実はチエコさんのDNAサンプルとして血液と体細胞の一部を提供していただいておりまして、先日、その結果が出たのですが、チエコさんのDNAには特殊な配列が見られたので私からも是非、治験に参加していただきたいと参った次第でして」


 サンプル、という言葉に引っ掛かりを覚えた岡埜は杜陵を睨みつける。


「もしかしたらチエコさんのDNAが手がかりになって治療薬の開発が進むかもしれないんです。奥様は了承済みですが、無理を承知でご遺体を研究所の方で預からせていただきたいと……」

「血ぃだけじゃ足らんのか!?チエコを切り刻むつもりか!!」

「いえ、その逆です。チエコさんの身体を蝕んでいた癌細胞をチエコさん向けに改良した再生治療薬で死滅させることができれば、これは画期的なことなんです。ご遺体は超低温冷凍で保存して、癌細胞を駆逐出来た暁には蘇生実験を……」

「蘇生?チエコが……生き返ると?」

「確実にお約束は出来ませんが、少なくともチエコさんのお身体には研究目的でメスを入れる事はございません」


 あまりにも突拍子のない話で信じがたい。だが妻は彼を非常に信頼している様子で、万が一の時の為にと遺体の冷凍保存も事前に承諾し、息を引き取った直後に処置をされ一足先に研究所へと移送されたと妻から打ち明けられた。


「チエコが……戻ってくる」


 その一言を発するとその場に跪いて大粒の涙が溢いくのを隠すかのように頭を垂れ嗚咽を漏らす大男。


「杜陵さん、ワシぁ警察辞めてあんたに付くけぇ。チエコが傷付くようなこたぁ絶対にさせんでの、覚悟決めといてつかぁさいよ」


 涙が一頻り溢れているのをシャツの袖で拭うと、岡埜は杜陵を鬼の形相で睨みつけながら立ち上がる。


「これはちょうど良かった。身辺警護を任せられる人を探していたところでして。これからも宜しくお願いします」


 二人の男が堅い握手をして、契約を交わした。



 ***



「岡埜さん、本当に警察ここ辞めちゃうんですか……」

「やめとけ、チョビ。もう無駄じゃ。漢にゃ二言は無いちゅうんが岡埜のポリ…?信条じゃけぇな」

「班長、長いことありがとございました。ワシぁ、できるだけ娘のねきにおっちゃりたいんで」

「なんの因果か、まさかわれの娘さんが人類の希望になるたぁな」

「いや、まだそりゃ……ちいと言い過ぎじゃと」


 広島港東署の刑事部屋にいつもの面子が揃っていた。

 散らかっていた机の一つはゴミひとつ無く綺麗に片付けられていた。


「岡埜さん、東京…というか東の方はだいぶ治安が悪くなったって僕の友達が言ってるんですけど、大丈夫ですよね?」

「アホ、ワシは娘の事を助けてくれる恩人を護るために警察辞めて東京に行くんじゃ」

「ってことは例の?」

「はい、再生医学研究センターの杜陵さんちゅうお医者様の警護役として第二の人生送ると決めたとです。心配せんでくんさい」

「……そうか。寂しゅうなるのぅ。こっちでも何かあったら、われの携帯に電話入れてもええか?」

「出来るだけ出るようにはしますけど、もぅとらん時はスマホの電源切っとるか電波遮断箱に入れるようにとセンターからの指示があるんで、留守電サービスにでも伝言入れといてつかぁさい」

「なんじゃ、そがいに厳重なんか」

「ええ、なにせ研究所が扱うとる医薬品やサンプルが漏洩してしまうと、製薬会社としちゃっていけん程の重要機密を取り扱う研究所なもので」

「僕もそういう所に一度勤めてみたいなぁ。格好良いじゃないですか」

「アホウ。ワレは格好良さで仕事変えるんか?」


 班長は新人と漫才のような話をしている岡埜を新人の頃から面倒を見てきたが、恩人のために公僕の職を捨て、厳重な場所での警護にあたる事に班長は特に違和感を感じることは無かった。


 ただ、名古屋から東はここのところ治安の悪化がニュースでも話題にのぼることが長年の刑事の勘で"良くないことが起きるやもしれん"と胸騒ぎを感じた以外は。

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