過去・3-2

『オカノ、おい!オカノ!!生き…起きとるかオカノッ!!!』


 ”岡埜オカノ”の表札の下にある玄関チャイムが意味のない連打をされつつ、けたたましく金属製ドアを叩く音と聞き覚えある声で岡埜は泥から人間へと呼び戻された。

 おそらく3時間も寝ていないだろう。


 頭痛がする。

 定位置に隠されたタバコに火を付けようとライターを探しつつ、玄関先のモニターを監視モードでこっそり覗いてみた。

 班長とチョビ、そしてチョビの隣席に机がある女性の三人組が映り込み、その中でも激しくドアを叩き興奮気味に己の名前を連呼している人物は頭髪のハゲ散らかし具合から見て班長だということに気がつくと、咥えていたタバコを荒れたダイニングテーブルへ放り投げ急いでドアを開けに行く。


「班長、なんすか?ご近所の迷惑になりますけぇ、ちぃと中に……」

「岡埜……われぇ、固定の回線抜いとったじゃろ?それと、携帯!今どこにあるんじゃ?!」


 班長に怒鳴られいきなり何を言われているのかちょっと分からなかったが、服のポケットを弄るといつも身につけているスマートフォンが無い。状況をやっと把握したオカノは自分の車と家の鍵を手にツッカケを履き、4人で駐車場にある岡埜の車へ急いで階段を駆け下りる。

 車内のUSB充電口から伸びるケーブルに刺さったままのスマートフォンを見ると妻からは100件近く、娘が入院している病院からも数件、班長からも時間をおいて3件の着信履歴で埋まっていた。


「……あぁ、やっちまった。班長、エラい申し訳な……」

「ワシぁ家庭の事情については敢えて訊くこたぁ無かったがの、お前の嫁さんから”電話がつながらん”と一晩になんべんも電話されてな。念の為、現場げんじょう入りちゅうワケじゃ」


 嫁が大変失礼なことを…と岡埜は頭を下げるが、班長はどうってことはないという身振りで岡埜に気を遣う。


「俺、今から病院へ向かいます。今日の夜番は急で悪いんですが……」

「心配するな、ワシの独断で5日ほど療養ちゅうことで休暇届出しといたけぇ。それよりお前……昨日の服のままじゃないのか?わやな格好しとらんで、身なり整えて娘さんのところへ早う行っちゃれ」

「あっ、はい」


 この時期はいつも蒸し熱く感じる駐車場が不思議と寒く感じた。


「あとな、チョビと石井さん。今日は非番じゃったんだがな、なにかてごすれるこたぁ無いか?言われてな。連れてきたで」

「スンマセン、ありがとうございます」


 話に割り込むような形で石井と呼ばれた40手前の女性が口を挟む。


「岡埜さん。帰り際、チョビくんにハンカチ渡さんかった?」

「えっ?」

「あれ、ウチが昨日自分のデスクに忘れてったハンカチ。チョビくんが洗いたてを岡埜さんの席に置いたけぇ、事情聴いてしもうたのよ。忘れてったウチも悪いんじゃけど、ね?」


 岡埜の顔が一瞬青ざめる。


「エエのよ、事情が事情じゃけぇ。でも貸すなら他人ヒトモンじゃのうて自分のにしてつかぁさいよ?次からは。じゃ、ウチゃこれで」

『?????』


 言いたいことだけ言い、踵を返し帰っていく石井女史の後ろ姿を呆然と立ち尽くしながら目で追う男性陣。残されたメンツだけで岡埜家へ今度はエレベーターで戻って行く。玄関の前までずっと無言のままだった。



 ***



「参ったな。女モンはカミさんのしかいらったこと無いけぇ……おい、チョビ、頼むわ」

「いや、ボク、そういうの全部、母に……」

「部屋散らかっとるし、飲物、これしか無いんすけど、飲みます?」


 岡埜が20%ほどゴミ部屋と化しているリビングのテーブルを雑に片付けると、冷蔵庫から出したばかりの酒を割る目的で買ったと思われるペットボトル入りの炭酸を2本置いた。


「不健康の鏡じゃの、お前は」


 呆れた班長は要らないというジェスチャーで返すと、溢れているゴミ箱からおもむろに片付け始める。


「ん~……先輩。奥さんと娘さんの着替えや必要そうなものをまとめて貰えますか?」

「バカか!お前、岡埜が身支度する時間が……」

「あぁ、それならもう纏めてあります」

「は?」

「えっ??」

「お二人はもう帰ってもろうて大丈夫です。チョビ、すまんの。同居のカノジョの物ならおさめられんじゃろうけど?」


 岡埜がニヤリと嗤う。


「ちょ!そっそそそそれは……」

「ぉ?ワシぁ、そんな話聞いとらんぞ?!」

「ぁ~~~~~~~~…………」

「何じゃ、おまっ、まだ言うとらんかったのか!?俺に話しよるなら先に班長に話しよってた思うたのに!!」


 暫く男同士のバカバカしい騒ぎが続いた後、岡埜はバスルームへ、2人は散らかっているリビングの片付けを軽く済ませることにした。

 全員のタスクが終わり、ぬるくなった炭酸2本を両手に持ったチョビと班長はこれから岡埜を襲うであろう悲劇をなんとか隠しつつ岡埜家を後にしていった。


「……岡埜さん、大丈夫っすかね」

「あがいタフガイは家族の一大事にめっぽう弱いんじゃ。ワシ等だけで説き伏せようなんて思うた時点で負けじゃ。自分の目で確かめさしても……半々じゃろのぅ」


 岡埜とはふるい付き合いであろう班長は彼の気性を察して賭けに出たようだった。

 班長のタバコの煙が車窓の隙間へ吸い寄せられスッと消える。彼はそれを一瞥するといつもよりワントーン低いテンションでつぶやく。


「世ん中、なんでこがい不平等に出来とるんじゃ。ワシが若けぇこら刑事デカになりゃあ、そがいなモンひと纏めにして吹っ飛ばしちゃる息巻いとったが……不平等だけやない、理不尽で不条理な事ばかり……」

「……」


 運転を任されていた若い刑事は年老いた刑事のつぶやきに静かに頷くことしか出来なかった。



 ***



 高速を休憩無しで7時間弱、そして一般道を渋滞に巻き込まれながら3~40分ほど走らせた場所に目的の病院はある。

 車を走らせている間に娘と逢うのは何時ぶりだったか思い出そうとするが、わざわざ班長を経由してでも知らせなければならない事があったのかもしれないとの悪い予感に遮られなかなか思い出せない。

 気晴らしにラジオを付ける。


 ””……昨日、東京都立川市で起きたK大教授一家殺人事件の続報から……””


 いくらなんでもタイミングが悪すぎる。チョビの言っていた事件の話などは聞きたくない。

 他のラジオ局へと選局ボタンを押す。


 ””被害者のカマタさんは軽症を負い、命に別状は無かったものの、その後、病院内で暴れだし、妻のユカリさんを……””


「チッ」


 また選局をやり直す。今度はFMに切り替えた。


 ””え~と、ただ今入ってきた情報です。神奈川県相模原市中央区付近を走行していた小田急小田原線の車内で乗客同士のトラブル?により、電車の運行が全線で見合わせとのことだそうです。えぇーと、詳しい情報が入り次第、この番組内でも伝えていきたいと思います。””


 ニュース原稿を読み慣れていなさそうなラジオパーソナリティーが鉄道情報を伝えていた。


「いつからこがいギスギスした世ん中になったんじゃ」


 咥え煙草のまま一人で愚痴を漏らし、疲労と寝不足でぼんやりと運転していた岡埜の車の前に自動車専用道路である筈の側道から一人、女性が生け垣を抜けてフラフラとした足取りで飛び出してきた。急ブレーキを踏むが間に合わなかったのか、女性はその場に倒れ込む。

 慌てながらも車を路肩に止め、流石は警察官という手早さで停止板と発煙筒を設置し、後続車に事故がたった今起きていることを知らせた。

 幸い、岡埜の車にはギリギリのところで彼女は衝突していなかった。


「大丈夫ですか!?…‥こりゃあ救急車呼ばんと!」


 岡埜が女性の様子を伺った瞬間、自分の目を疑った。

 うずくまるように横たわっている彼女の右手には小指が無く、薬指は辛うじて第2関節まであったが、そこから根本までと手の肉も骨がはっきり見えるほどで素人目にも大怪我だと分かる状態だった。

 しかも、ボロボロになっていたのは腕だけではなかった。生成りの白いワンピースは無残にも裂かれ、そこから見えるみぞおちのやや下のあたりからは黄色と淡いピンク色、そして、どす黒い血でヌメッとした光を放つ柔らかそうながはみ出ている。


 は内臓の一部だった。


 仕事柄、一般人より血液の放つ独特な匂いには慣れている岡埜だが、女性の身体から飛び出している物体が内蔵だと理解できたのは、女性がゆっくりとうつ伏せに体勢を変えながら小さな呻き声を発し起き上がろうとしている時だった。


「このまま動くとだめじゃけぇ、車から救急キット持ってくるけぇ!ちょっ……」


 起き上がろうとする女性の背中を押えた瞬間、岡埜のチノパンを女性の右手が掴んだ。

 反射的に掴まれた部分を振りほどこうとするが、半死の状態とは思えない怪力でチノパンを掴んで離さない。


「 ご め ん な さ い っ !!! 」


 そう言うと岡埜は女性の脇腹をこれでもかという勢いで蹴り上げた。

 女性の手はチノパンから離れたものの、掴まれていた部分と蹴り上げた靴には飛沫とはいえ血液がかなり目立つ量で付着してしまった。

 これは尋常なことではない、と悟り自分の車へと逃げ込む。


「クッソ、刑事デカが110番通報かよ。ジョークにもならんわ」


 はるか手前で県境は超えて自分の属する警察組織ではないため、この状況下では110番するのが最適解だと判断したが、なんとも言えぬ居心地の悪さが残る。

 スマホの向こうから事件か事故かを問う声が聞こえたのとほぼ同じ瞬間だった。

 突然、ボン!!と音がする。

 先ほどまで倒れていた明らかに致命傷を負っている女性が立ち上がって岡埜の車のボンネットに上半身を激しく叩きつけたのだ。


『はい110番です。事故ですか?事件ですか?』

「……」

『携帯電話からの発信のようですが、詳細な位置を……』

「…………」


 スマホの向こう側にいる通信指令が無言の岡埜に困り果てている。

 女性は叩きつけた身体をゆっくりと起こし始めていた。


「………ゾンビじゃ」

『えっ、あのぅ……今、ゾンビって言いました?』

「居るんじゃ、ワシの目ん前に」

『冗談言わないでください!あと少しで位置が特定出来ますから、事故か事件かはっきりしてください!!それとも、イタズラですか!!?』


 ボン!!

 また上半身を激しく叩きつける音が響く。


『……何か叩く音がしてますが?』

「すいません。事故や思うてましたが、事件です……昨日、東京都立川市で起きたのと同じ…」


 ボン!! ボン!!

 ボンネットへ身体を打ち付ける速度が徐々に早まってきた。叩きつけられた部分が徐々に女性の血で人形ひとがたかたどられ、一部の血は飛沫になって周囲に飛び散っていく。

 女性の顔は既に直視できないほど崩れ、生成りの生地であったろう涼しげなワンピースは血で赤黒く染まり、事態の異常性を更に引き立てていた。


『わかりました。すぐに警官を手配しますので、安全な場所へ退避して到着を待っていてください』

「了解しました。実は自分、広島県警察警部補の岡埜と申す者ですが……」

『?これは失礼しました。照会するので識別番号を』

「ああ」


 岡埜が識別番号を伝え、体感で5分ほど経っただろうか。本物の警察官だということが分かった途端、対応はまるで変わる。


 ボン!! ボン!! ボン!! ボン!!……

 その間も彼女のボンネットに対する攻撃は止まらない。ただし、打ち付けるスピードは回を重ねるごとに早くなっていた。

 そして腹部から出ていた内臓の一部は更に露出し、蛇のむき身のようにグロテスクな姿を晒している。


「相手は人のカタチをしとるが、えっと…大量に失血しても動き続けとる!そこいらのヤク中に対応するような装備カッコウじゃ間違ぅなくぶちまわされる!! 急行させる警官にゃあ盾と拳銃、刺股装備させとけ!!」

『あっ、は、はい!了解です、と、とにかく安全な場所へ!!』

「もう車ん中に閉じ込められとってそれどころじゃないんじゃ!!車バックさせて撥ねたほうが…」

『それは駄目です!いくら警部補でも!!』


 ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!ボン!!…………

 

…………………………………………………………………………………


 彼女が突然ボンネットに突っ伏したまま動かなくなった。


「……動きが、止まった」

『動きが止まっ……た?』


 岡埜が言ったことを警察指令が復唱する。

 しょうもないこと復唱しやがって、と心の中でつぶやいたが、声には出さずに沈黙した。


『どうしましょう?応援は……』

「どっちにしろ現場保存と検証で必要じゃけ、そのままでええです。あと、ワシん車にケンカ売る前に負傷しとったけぇ、鑑識と検死官を」

『了解しました。検死官はお約束できませんが……鑑識は他の警官と同行させます。現着するまでは安全のために車から…』

「いや、俺は娘の入院しとる病院に向かっとる途中なんで。できりゃあ現着待たんで病院へ向かいたいんじゃが……」


 妻からの尋常ではない回数の着信履歴が、また頭をよぎる。

 車はそのままでもいいから、早く病院へ向かわねばならないという感情が先走る。

 しかし、スマホの向こうにいる相手は手続きを重視するタイプのようだった。


『お急ぎでしょうが、警部補。あなたの証言が必要です。検証が終わり次第病院へ向かわれては?』

「ほいじゃ手遅れかもしれん……。そちらから墨東がん研中央病院へ警官送ってくれんか?事情はそこで話すけぇ」

『……わかりました、墨東がん研中央病院ですか……ご事情がご事情のようですから、手配してみます。ただ、車は現場に残していってください。』

「あぁ!!?」

『では通話を終了しますが、何か…』

「……いや、問題ない。協力してくれてありがとう」


 その場から車を捨てるような事になった岡埜は自動車専用道路のフェンスをよじ登り、一般道へ着地する。

土地勘が無いながらも運良く大通りまで出ることに成功し、タクシーを拾い病院へと向かわせる。


「お客さん、どちらまで?」

「墨東がん研中央病院へ、急ぎで」

 無愛想なタクシー乗務員はバックミラーで岡埜を覗き込むと困ったような表情をする。

「お客さん、こっからがん研だったら、いつもはオリンピックスタジアムの横つっ走って行きゃあ早えぇんだけどよ?今ぁオリンピックの最中で大回りしねえといけねぇし、車の量も多…」

「急いどるんじゃ、とにかく車を出して!大回りでも何でも構わんけぇ大急ぎで頼んますわ!!」


「……分かったよ、ドア、閉めんぞ」


 運転手は困った客を乗せたなと言わんばかりにドアを閉めるとタクシーを車道の流れに乗せた。

 助手席の後ろに掛けられた週刊誌サイズのディスプレイには””男子高飛び込み・準決勝 惜しくもメダル逃す””との文字が動画と共に流れていたが、それも20秒ほどでこれまたオリンピック協賛企業のCMへと切り替わる。

 そうか、世の中はオリンピックでどんな競技でもいいから日本がメダルを取ることに注目していたんだっけか、と岡埜を娘の容態と先ほどの悪夢のような現実から日常へと少しだけ引きずり戻す。張り詰めていた気力の糸が切れ、岡埜はそのまま眠りこんでしまった。

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