チイサナセカイ・2

「ねぇ、なんで」

「それは……お巡りさんからは言えないんだ」

「……一緒なら、お父さんのほうがいい」


 気まずそうな若い警官は少女の手をあの時と同じように握ったが、その意味は真逆のものだった。これが法の裁きか、と奥歯が砕けそうなほど噛み締め、眉を寄せる。


 陽々璃の父親は暴行と公務執行妨害の現行犯で逮捕・起訴をされたが、初の逮捕で初犯であること、本人の深い反省と弁護士の腕が良かったのか、刑期は懲役4年で早々に確定した。

 ただし、これには条件がついた。元・配偶者と我が子には二度と合わないこと。特に自らの血を分けた娘には。


 母と娘は疎遠な親戚を頼り、東京の立川へ引っ越した。そこで新しい生活を始めることにしたが、それは陽々璃にとって新たな地獄の始まりにしか過ぎなかった。

 このような結果になったのには裏がある。友梨佳の虐待で生じた足の骨折を、夫の暴力によるものだと証言しなすりつけたのだ。被害者でもある母親・友梨佳によるこの証言が証拠として採用されてしまったのだ。

 その一点さえ崩されなければ、親戚の援助と母親の立場をフル活用してほぼ働かずして生活が出来、手厚くはないが毎日のパチンコ代には事欠かない。邪魔な陽々璃は子供好きの親戚が居るだろうからそいつにでも預けてしまえば好きに遊び回れる、という算段だった。


 しかし、世の中そう思うようにうまく動くことは稀だ。

 親戚が彼女たちに与えた恩恵は、一族の一人が経営しているアパートの空き室を無償で提供するのみだった。当面の生活費は最低限出すが、早く仕事を見つけて働きなさい。それが親戚一同の総意であると。友梨佳の目論みはいとも容易く崩れ去った。

 その不満は親戚たちへ一切向けられず、陽々璃が被ることになる。理由は簡単だ。不満を言えば唯一の援助である住居を取り上げられてしまうから。

 ある日、憂さ晴らしのために娘をサンドバッグにしていたが、それをアパートの住人に密告され、親戚たちに呼び出されると


「「自分の娘を痛めつけているなら、すぐにでも今の部屋から出ていってもらう。そもそも曽祖父の時代に不義理を働かれ、親戚付き合いはとうの昔に断絶している。しかし、子どもを持つ母親を見捨てたとなると世間様から何を言われるか。一族の恥にならぬよう、面倒を見てやっているだけだ」」


 この施しは自分たちの世間体を取り繕うために行っているだけと言い放たれたのだ。

 それでも忠告があってか陽々璃への身体的な虐待はその後影を潜めた。しかし、育児放棄と心理的虐待はより一層、陽々璃を苦しめる事となる。

 女が一人で暮らすのもやっとというご時世だからか、母子家庭には公的支援はあるものの、友梨佳が思い描く生活には金が全くといっていいほど足りない。

 とにかく子どもには手間と時間と金が掛かる。


 ではどうするか。


 答えは単純で且つ明快だった。今まで通り、陽々璃のために行政から支給された金銭のほぼ全てを己の為に使うことにしたのだ。友梨佳が娘に対して情を掛けているのは大概が己のためで、目的や念願が成就すれば辛うじて命をつなぐ分だけの残飯のような食材を少量だけ渡し、調理の経験すら無い陽々璃自身に任せることにした。


 なぜここまで陽々璃に辛く当たることが出来たのか。それは辰吾と友梨佳はいわゆる『デキ婚』だったせいでもある。互いに一夜限りのロマンスを求めただけだが、結果に大喜びし婚姻届に判子を押したのは辰吾だけで、友梨佳は親友や両親にさえも話せないまま安全に堕胎させおろせる月齢を過ぎてしまっていたため、やむなく辰吾と籍を同じくすることにした。

 しかし、入籍直後から辰吾の酒癖の悪さと稼ぎを呑み代やギャンブルでほぼ使い切ってしまう生活が続く中で、友梨佳の腹の中に居た時から” 子 ”に対する愛情は全て枯れ果ててしまう。

 母親は生まれてきた娘を無条件に愛することをとうの昔に放棄していたのである。


 そのような母娘の暮らしが2年ほど続いたとある蒸し暑い夏の日、思いもよらぬことが起こった。

 陽々璃と友梨佳親子が暮らしているアパートのすぐ近くで白昼堂々、事件が起きたのである。


 ***


 一軒家から響いた怒号の後に続いて鳴り響く4発の銃声。白い制服の袖が破け、血で染まった警官と犯人と思しき男が玄関からもみくちゃになって転がり出てきた。

 警官はなんとか立ち上がると外で待機していた同僚に半ば信じられないような状況を説明する。


「コイツ、イシイの腕を喰い千切りやがった!!サクライは、く、首を噛まれてまだ家の中に……畜生ぉ!!!」


 住居から出てきた警官はかなり動揺し混乱していた。服の上からとはいえ人とは思えない顎の力で同僚の腕の肉を制服ごと噛みちぎったのだから仕方ない。

 室内で3発、更に玄関前で混乱している警官によって銃弾を足と胴体に3発喰らっているにも関わらず、男はゆっくりと立ち上がるとガヤガヤと騒ぐ野次馬の方へ足を向ける。衣服には銃弾が撃ち込まれた場所を中心に赤茶色の血液のようなものが滲み出している。それは野次馬たちに一瞬の沈黙を与えたが、次の瞬間、スマホで動画を撮影することに夢中になっている十数人を除いて蜘蛛の子を散らすように逃げていった。


「おい!!君たち!!スマホなんかで撮ってないで早く、早く逃げなさい!!!」


 ギリギリまで撮影していたスマホ組はパトカーの拡声器から怒鳴られ、やっと己の危険を理解して先に逃げていった野次馬たちを追うものの、そのうち幾人かはスマホを現場に向けたまま後向きに走って逃げていた。だが、そのうちの一人は足がもつれて受け身も取れず派手に転び、駆け寄ってきた警官に脇を捕まれ立ち上がりやっと先達に追いつく。


「立川02から本局。現場住居の向かい、日峰ビルにて作業をしていた通報者の清掃業男性が様子を見に行ったところ、突然右手を噛まれ負傷したとのこと。容疑者確保の際、警告の後に発砲したものの……制圧には及ばず。警官2名負傷。繰り返す、清掃業の男性1名と警官2名負傷。未だ制圧には及ばず!至急応援を願う!!」

『本局から立川02、応援のPC2台が今そちらに向かっている。現場にいる人員だけで食い止められるか?』

「む、無理です!一人は左腕を噛まれ出血、もう一人は首を噛まれて現場で倒れています!野次馬の数が多く、呼びかけに応じない者が数人……」

『……本局から立川02。本局から救急に応援を要請した。救急車がスムーズ到着できるよう、引き続き現場の安全確保を保て。以上』


 雑音とともに聞こえる声は全く状況を把握していない。安全な所からの傷害事件を扱うかのように無線で司令を出している故だろう。己の血ではないが、警視庁のパッチを際立たせるかのように真っ赤な血しぶきで染まった制服警官は口角を引きつらせながら無言で無線を切ると、既に失血死をしていてもおかしくない犯人の確保へと向かった。


 ***


 聞き慣れない破裂音で目が覚めた友梨佳は窓からその様子を伺っていた。何やら大変な事が起きていることは把握出来たが、詳しい状況は部屋の窓からでは確認できない。

 興味をそそられた友梨佳はつっかけサンダルを履きドアノブへと手をやる。


『鍵が開いてる?……アイツ、また図書館にでも行ったか』


 夏休みの間、学校という逃げ場がない陽々璃が身を寄せていたのは主に図書館だった。

 暑い最中でも図書館は涼しく、喉が渇けば水を飲むことが出来、現実逃避を楽しむ本たちに囲まれる幸せを求めるため、ほぼ毎日図書館へ行くようになっていた。

 しかし、この日だけは違った。転校生という理由だけで陽々璃をいじめていた女子グループが図書館に集まり、宿題をするでもなく司書の目が届かない幼児連れの大人が本を楽しめるようにと配慮され設置されたキッズルームに禁止されている菓子やジュースを持ち込み、蔵書のライトノベルを菓子で汚れた手のまま乱雑に扱っていた現場を見てしまった。

 ”チクったら図書館にも学校にも居られないようにしてやる”と脅された陽々璃は図書館にはほんの1時間ほどしか居られなかったのだった。


 直接家に帰りたくなかった陽々璃は少しでも家にいる時間を削ろうと、小さな足取りでとぼとぼと家の近所にある公園を目指していた。が、運悪くを見に来ていた野次馬たちが道を塞ぎ、なかなか先に進めない状態に陥ってしまった。


「お嬢ちゃん。そっちへ行くのかい?」


 見知らぬ老人に声を掛けられた陽々璃は小さく頷く。

 老人はその場で彼女の目線までしゃがむと少々困ったような顔色で


「さっきな、ここらへんの家で人殺しが出たんだよ。それで、今な、お巡りさんがその人殺しを捕まえようとしてるから、これ以上は進まないほうがいい」

「ひと……ごろし?」

「そう。人殺し。怪我した男の人がこの近くの公園にお巡りさんと一緒にいるから、そこで待ってているといいよ」

「私も公園に行こうと思ってたの。おじさん、一緒に連れてってくれる?」

「確かにこの人混みじゃ一人で行けないよな。よーし、おじさんに任せとけ!」


 老人は孫と手を繋ぐかのように陽々璃の手を優しく握る。陽々璃はそれに応えて少しだけ強く握り返す。


「すいませ~ん、ちょっと!通してもらえませんか!?孫と公園に行きたいんですがー!!」


 老人の声だけでは人の壁はびくともしなかった。ただ、壁のうち幾人かは声に反応して振り返ったが、老人と子どもが道を開けてほしいと懇願していることを理解するとまた人の壁へと溶け込んでしまった。


「参ったなぁ。こりゃビクともせんか」

「おじちゃん。私、回り道してもいいよ」

「お?お嬢ちゃん頭いいな。もしかしたら将来は謎解きクリエイターかな?」

「お医者さんがいい。他の人だけじゃなくて、自分で自分のお怪我治せるようなお医者さんがいい」

「うん?自分の怪我を治せる……看護師さんじゃなくて?」

「そう、お医者さん。陽々璃はお医者さんになって、いじめられたりしてけがをして、悲しい気持ちになってるみんなが笑って生きられる様になるために助けてあげるの」

「うーん、そうか、お医者さんか……」


 見た目は幼稚園の年長組ほどの背丈だが、イジメ等で怪我を負った人を助けたくて医者になると言う彼女を老人は不思議な面持ちで見つめていた。

 ” この子は見た目より年齢が上かもしれない。 ”


「おじちゃん、早く、公園行こ」

「あっ、あぁ。そうだね。……ところで、こんなことを可愛くて立派なレディに聞くのは失礼なんだが、お年はおいくつなのかな?」

「陽々璃は今年で9歳になるの。まだ8歳だけど」


 年齢を訊かれニコニコと答える少女。

 最初のうちはたまに居る、年齢の割に身長が伸びない子だと彼はそう簡単に思っていたが、腕や脚、首の不自然なまでの細さに些かいささかの疑問を感じた。


「そうだ。おじさんちょっとお腹が空いてきたから、回り道の途中にあるコンビニでおにぎりを買って食べてもいいかい?」

「?いいよ!でも公園に行くお約束はまもってね。」

「じゃあ、公園で一緒におにぎり食べようか」

「えっ、おにぎり……一緒に食べていいの?」

「あぁ、いいよ。一人でご飯を食べるのはおじさんだって寂しいからね。ひよりちゃんも好きなもの選んで一緒に食べよう。お金はおじさんが出すから、心配しなくていいからね?」

「ありがとうございます!でも……お母さんには絶対内緒にしてくれる?」

「?」


 急にうつむき出した少女。

 彼はその原因は彼女の” 母 ”にあるということをそれとなく悟った。

 少女を心配させないように念を押すかの様に答える。


「勿論、内緒にするよ。お母さんが心配しちゃうもんね」

「……」

「どうしたのかな?おじさん、なんか、悪いこと言っちゃったかな??」

「なんでもないです。心配させてごめんなさい」


『この一時しか助けられないかもしれないが、この子がこの一瞬でも幸せになれれば。虐待は絶対あってはならん。公園には警察も居るはず。場合によっては警察彼らにこの子を委ねよう』


 老人は自分の正義を貫き通すために公園に向かうことを決めると陽々璃に笑顔で話しかける。


「よし、じゃあまずはコンビニに行こうか」


 コンビニ経由の公園行きの回り道に二人は足を運び始めた。

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