4.
カチャカチャと食器が擦れる音がする。キッチンに立ち、ティアナが食後のそれらを洗っている音だ。彼女には普通の人間と少し違う部分がある。それは獣の耳だった。初め正体を知った時は利用できると思っただけだが、今ではピコピコと動かすその耳を気に入っていた。ほら、また動いた。
(どうするか、な)
そんな彼女の後姿をぼーっと眺めながら、意識は全然違う方向へと飛んでいた。
俺の“正体”についてティアナに言うべきか否か。
最近の俺は、そのことで頭がいっぱいだった。
ここにやってきたのはもちろん偶然であった。何か目的があってきたのではなく……いや、実際には目的はあったのだが、それはティアナには関係のないことだった。頬杖をつき、短く息を吐き出す。もしも自分の正体を明かしたら彼女はどんな反応をするのだろうか。ただ驚くだけならいい。驚いて、その後はいつものように笑いかけてくれるのなら。しかし、それが真逆のものだったら俺はショックを受けるだろう。他の者と同じように、彼女にも“そのように”接せられたら……。
(想像だけでこんなにも胸が痛むのだから、現実に起こったら俺は寝込んでしまうかもしれないな)
なんて自嘲気味に笑ってみせる。
自分はいつの間にか彼女にこんなにも心を許していた。そして彼女は、俺に色んな初めてを教えてくれた。あそこにいたら経験できないような、些細なことだが俺にとっては大きな経験を。料理、掃除、洗濯など、今までは誰かがやってくれていたことがこんなにも大変だとは思わなかったし、それについて考えることもなかった。
「……世間知らずもいいところだろ」
ぽつり、呟いた言葉はティアナに聞かれることなく、宙に消え失せたのだった。
最近、ルークの様子がおかしい。深く考え込み、心ここにあらずで、声を掛けても生返事をしたり、時には無視(というか恐らく聞こえていないのだろう)をあいたりと、とにかく様子がおかしかった。
「いっ……!」
短く発せられたルークの声に急いで振り向く。どうやら包丁で指を切ったようだった。
「大変! すぐに水で洗って!」
「このぐらい舐めときゃ治る……」
「だめ! いいから言うことを聞く!」
まだ何か言いたそうなルークだったが、それを無視して棚から塗り薬と包帯(以前買っておいて余ったものだ)を取り出す。この前ルークと月光草を摘んで作ったもので、あの時よりもたっぷりと容器に入っていた。
「指、出して」
「……それ、めちゃくちゃ痛いやつだろ」
「うん」
「やだ」
「子供じゃないんだから。いいから指を出す」
「…………分かったよ」
渋々といった様子のルークの指に薬を塗り込んでいく。上の空なルークに包丁を握らせたことを深く反省しながら。
「いってぇ!!」
「はい、我慢」
「……っ!!」
目に涙を浮かべながら痛みに耐えるルークだったが、次第に落ち着いてきたのか、大きく息を吐き出しながら床に目を向けている。
「包帯を巻いて、っと。うん、これで大丈夫」
「…………」
じっと包帯が巻かれた指を見つめるルークに苦笑する。これはまた何か考えているな。何か悩んでいるなら相談に乗ってあげたいが、今はまだ一人で考えたいのかもしれない。そっとしておくのがいいだろう、と薬を棚に戻そうと手に取った瞬間、彼が私に視線を向けた。
「ティアナ」
「はい?」
「お前に言いたいことが……」
言葉の途中で私は物音に気が付いた。しっ、と自分の口元に人差し指を当てればルークが口を閉じる。集中して音を拾う限り、どうやらビル先生の足音ではなさそうだ。それならば誰だろう、と不思議に思う。私の家を訪ねてくる人なんて思い当たらないからだ。念のため帽子を被るのと同時にドアがノックされた。
「はーい」
出ていこうとするルークを制止して返事をする。少しだけ早くなる心臓を落ち着かせようと深呼吸を繰り返してからドアを開けた。
そこにいたのは大柄の男性で、右の頬に切り傷があり、険しい表情を浮かべていた。一瞬にして汗が噴き出る。もしかして私が獣人だとバレて捕まえに来たのかもしれない、と嫌な想像をしてしまったからだ。
「お嬢さん、失礼する」
しかし彼の口から発せられた言葉は存外柔らかく、そのおかげで張り詰めていた糸が少しだけ緩んだ。
「人を探しているのだが」
「人、ですか?」
「あぁ、このような顔の……」
胸元に手を入れて何かを取り出そうとする男性の目が、部屋の中にいるルークへと向けられる。その瞬間、男性はピタッと動きを止めたのだ。私は視線をルークへと向ける。すると彼もまた、驚いた表情を浮かべて固まっていたのだった。
「え、あの……」
きょろきょろと彼らを交互に見つめていると、男性がいきなり『ルーク様!!』と大声を上げた。それはもう、家が壊れてしまうのではないかという程の大声……って、それはどうでもよくて。未だ頭の奥で男性の声がこだましているが、それよりも驚いたのは彼が泣き出しているということと、ルーク“様”と呼んだことだった。
「良かった……本当に良かった……!」
「お、おいバート、何も泣かなくても」
おいおいと泣いている、バートと呼ばれた男性に中に入ってもらうや否や、彼はルークの前に跪いた。
「やめろ、立て!」
見られてはまずいと思ったのか、ルークがこちらを気にしながらバートさんをなんとか立たせようと奮闘している。しかしバートさんは頑なに立とうとしない。これは私がいない方が話が円滑に進むのではと考え、今朝詰んであった庭の薬草が入ったカゴを手に取った。
「ちょっと出かけてくるね」
「薬草を村に下ろすんだろ。だったら俺も……」
「ルーク様ぁ!!」
「あ、こら! 離せバート!」
行かせまいとするバートさんがルークの足に抱き着く。それを引き剥がそうとするが全然ビクともしない様子だった。
「一人で大丈夫だよ」
心配しないで、という意味を込めて微笑んでみせれば、ルークは渋々と頷いて『気をつけてな』と声を掛けてくれたので、小さく手を振って家を出た。
一人でこの道を歩くのは随分と久しぶりだな、とふと考える。最近はずっとルークと一緒だったので、なんだか右側が寂しい気がした。
「それにしても、ルークを“様付け”で呼ぶなんて……」
もしかしたら彼はどこかの貴族のご子息なのだろうか。考えてみれば思い当たる節はある。やけにきれいな所作で食事をするし、家事についてあまり知識がないのも家に使用人がいて身の回りの世話をしてくれているから……。
「って、詮索するのは良くないよね」
ぶんぶんと頭を振って、頭の中からルークを追い出す。先程のルークは私の目を気にしていたようだし、知られてはまずい何かがあるのかもしれないのだから、あれこれ余計な詮索はしない方がいい。
「よし、とりあえず今は別のことを考えよっと」
自分に言い聞かせるように、私は今日の夕食のメニューについて考えながら足を動かしていく。昨日はシチューだったから今日は鮭のムニエルなんてどうだろう。いや、白身魚のソテーもいいし、お肉料理もいい。
「随分とおいしそうなメニューだね」
「うわっ!」
突然背後から声を掛けられたものだから大きな声を上げてしまった。慌てて振り向けば、そこには薬草を下ろす店の店主がいた。どうやら考え事に集中していたせいで足音に気付かなかったようだ。店主も私と同様に目を丸く見開いている。
「すまない、驚かせてしまったかな」
「い、いえ、こちらこそ」
ドクドクと早鐘打つ心臓を落ち着かせようと数回深呼吸を繰り返す。そして大きく息を吐き出してようやく落ち着いたところで、どうしてここにいるのか尋ねてみた。
「いやぁ、今日はまだティアナが来ないだろうと思って少し用事を済ませようとね。それで帰りに君の姿を見かけたものだから声を掛けてみたんだ」
「そうなんですか」
無意識のうちに帽子を深くかぶり直す。店主はそれを不審に思うことなく、私に手を差し出した。
「うちの店に下ろしてくれる薬草だろう? 持つよ」
「え、ですが……」
「なに、これでもまだまだ現役なんだよ」
にっこりと、目元のシワをより一層深くして微笑む店主の厚意に甘えることにした。少ししわのある店主の手にカゴを渡す。心配ではあったが、彼は軽々とそのカゴを持ち上げたので余計な心配だったなと自嘲した。
結局私は店主について店に向かい、いつものように金銭を受け取って、その足で別のお店へと向かう。夕食のメニューは先程決まった(白身魚のソテーを作ることにした)ので、材料である魚を買うためにだ。
「あ、バートさんも食べていかれるかな」
せっかく家に来てくれたのだからすぐに帰すのは申し訳ない。それならば材料もいつもより多く買わなければ、と思ったところで『おや、ティアナ』と声を掛けられた。
「ビル先生」
「今日は一人なのかい?」
「はい。ルークにお客様がいらしてて」
「そうか。そうだティアナ。ルークに渡してほしい薬があるのだが」
「薬、ですか?」
「あぁ。痛み止めだよ」
ルークの怪我はすっかり良くなった。それなのに痛み止めを飲む必要は果たしてあるのだろうか。なんて考えていることが顔に出ていたのか、先生はいつもの笑顔を浮かべながら口を開く。
「念のためにね。それにこの前診察した時に頭が痛いと言っていたから。遅くなってしまったけど、昨日痛み止めが手に入ったのでね」
「そう、ですか」
「今からうちに来られるかい?」
どうやら今すぐにでも渡したいらしい。それならば魚は帰りに買った方が邪魔にならないだろうと判断した私は、そのままビル先生についていくことにした。
先生の家は村から少しだけ離れた場所にある。村の人からすれば診察をしてもらうには少し不便だと思うのだが、何か理由があってのことなのだろう。古びた家のドアで待とうとしたが、中に入って待っていてほしいと言われたのでお言葉に甘えることにした。
「今お茶を淹れるからね」
「先生、そんな、お気遣いなく」
「いいから」
やんわりと言われてしまっては断れるはずもなく、埃っぽいソファーに座って(少し咳が出てしまった)待っていると、暫くしてお茶を持った先生が戻って来た。
「紅茶に疎くて種類が分からないのだが」
「いえ、ありがとうございます」
せっかく淹れてくれた紅茶に口を付ける。ダージリンの香りが口いっぱいに広がった。
「……ティアナは随分と明るくなったね」
紅茶を飲む私の姿を眺めながら、先生はぽつりと呟いた。
「そうですか?」
「あぁ。この前までは人と話すのも得意ではなかっただろ? それを変えたのはルーク、かな?」
「ルーク……?」
言われてみれば、昔から家族以外の人間と話すのは苦手だった。というのも、子供の頃、獣人族に対する人間の扱いを知ってしまったからだろう。だから人間は苦手だったはず、なのだが、先生の言う通り、ルークが来てから村の人達と普通に会話が出来ているような気がする。先程、薬草を下ろした店主と道中一緒でも、ルーク程ではないが人並みには話せていたし、苦手だという感情もあまりなかった。
「……確かに、そうかもしれません」
ルークと出会って、私は変われたのだと思う。彼と話していくうちに人間に対する見方が変わり、悪い人ばかりではないこと。先入観を取っ払って、実際に話してみて気が付いた。少しは人間に対する恐怖というものが薄れたのだ。
また一口、紅茶を飲む。
そんな私を眺めていた先生は、いつもの優しい笑顔ではなく、にたっと嫌な笑みを浮かべた。
「あぁ、ルークが来てくれたおかげで、私は君を知ることが出来たよ」
ぽつり、ぽつり。呟く言葉はベタベタと湿気を帯びていて、私の肌にまとわりつく。
「せん、せ……?」
「君は本当にいい子だ。作る薬草も素晴らしいし、以前いただいたアップルパイも美味しかった」
「……っ」
なんだか、急に睡魔が襲ってくる。意識を保とうと腕に爪を立ててみるが、効果はまるでない。
「なぁ、ティアナ。世の中は不公平だと思わないか?」
「ふ、こう、へい?」
「王都に住む奴らはこの村なんかより裕福で恵まれている。病気の研究だって出来るし人々から羨望や尊敬の眼差しを向けられる。私だってかつてはそうだった。それなのに少し診療を間違えたせいでヤブ医者だのなんだのとレッテルを貼られ、私より技術の劣る若い医者が優遇されているんだ。おかしい、おかしいよな。なんで私はこんな辺鄙な村で診療しなければならないんだ。莫大な借金を背負わされ、細々と暮らし、たいした人間じゃないやつの診察をする。あの時の金貨でさえ借金返済でなくなったんだ。足りない、金が足りないんだよ」
一気に捲し立てる先生の言葉は、睡魔と戦う私の頭では処理がしきれない。下唇を噛みしめて頭を振ってみせるが、黒い世界が私を引きずり込もうとする。
(寝ちゃ、だめ)
そう理解しているものの、ずぶずぶと体が沈んでいくような感覚が私を襲う。そんな私に、彼は更に嫌な笑みを浮かべていた。
「なぁ、ティアナ。こんな村の医者よりも簡単に儲かるにはどうすればいいと思う?」
だめ。
ここで寝ちゃだめ。
「ルークの金を盗もうかとも考えたが、君の家に忍び込むのは得策ではない。ではどうしたらいいか考えてみたんだよ。そうしたら、とてもいい方法を思いついたんだ。ティアナ、君を……獣人族を、売るんだよ」
先生のシワが入った手が私の帽子を剥ぎ取り、それと共に、ついに意識を手放してしまった。
泣いているバートをなんとか泣き止ませ、いつも俺が座っている席へと座らせた。
「狩りの途中、崖から落ちて怪我をし、歩き回ったところでティアナ様の家にたどり着いて手当をしていただいた、と」
ティアナに教わって淹れられるようになった茶をバートに出す。その様子にとても驚いたようにカップを見つめていたが『冷めないうちに飲め』と声を掛けると、バートはカップを手に取ってゆっくりと傾けた。どうやら気に入ったらしく、やれ美味いだの、やれ香りがいいだのひたすらに褒め、しまいにはおかわりをしていた。
「まあそんなところだ」
これ以上特に言う必要もないので適当に言葉を発し、そして自分もカップに口をつける。我ながら茶を淹れるのが上手くなった。初めのうちは茶葉の量を間違えたり、蒸らす時間を把握できずにいたりと失敗ばかりしていたが、ティアナのおかげでここまで上達した。ふわり、微笑んだ彼女を思い出して自然と口元が緩む。しかしすぐにバートの存在を思い出して咳払いで誤魔化した。
「連絡をしてくださればすぐにでも駆けつけましたのに」
「それに関してはすまなかったと思っている。だが動けるようになったのも最近でな。それにティアナの目を盗んで手紙を書くのがなかなか難しかったんだ」
嘘は言っていない。しかし本心ではなかった。連絡をすれば自分は戻らなければならないと分かっていたから。もう少し一般人としての生活を味わいたかったし、何よりティアナとの生活から離れがたかった。
「ティアナ様はルーク様が王太子殿下だと知っておいでで?」
「まさか。言うわけないだろう」
それこそが俺の最大の悩みだった。俺は身分を明かしていない。この国の王族で、第一王子だということを。その第一王子が暇つぶしの狩りで崖から落ち、そして盗賊に襲われた間抜け話をしたくなかったし、言えなかった。もちろん普段ならそんなことにはならない。戦争において第一線を駆け巡った俺が盗賊にやられるなど。しかし崖から落ちた手負いの人間が盗賊に勝つなんて、そんな夢物語のようなことが起きるはずもないのだ。
そんな情けない俺を彼女には知られたくない。それ以上に自分が王族だと分かればティアナの態度が変わることが怖かった。自分がこの国の王子であると知らないとはいえ、ティアナは普通に接してくれた。自分を普通の人間として接してくれた。それなのに自分の正体を明かして態度が変わってしまったらと考えると怖かった。彼女を信じていないわけではない。しかし、そのように態度を変える人間を数えきれないほど目の当たりにしてきた。だから怖いのだ。
(嫌われたくないのだろうな)
いつまでもティアナの隣にいたいと思えるほど彼女を好きになっている自覚はあるが、自分にはできない。いずれこの国を背負って立つ自分の隣にいてほしいなど、ティアナに言えなかった。
「陛下も王妃様も、それはもう心配なさっておりますよ」
「そういやこの前村に行った時、俺が死んだという噂はなかったな」
「この目でご遺体を確認するまでは、と王妃様が箝口令を」
「だからか」
父上と母上に多大なる迷惑をかけてしまったと胸が痛む。いくらここが国からそこまで離れていないとはいえ、この村にいるなんて想像もしていないだろう。だから俺を捜索する騎士の姿も見なかったのだ。
「城にはもちろん戻る。しかしもう少しだけ時間をくれ」
「ですがルーク様……」
「頼む」
「……はぁ、承知致しました。ただしこのことはきちんとご報告させていただきますからね」
頭に手を当てて息を吐き出すバートは久々に見た。なんだかんだで折れてくれるのはバートの方で。悪いとは思うものの、彼には感謝をするしかなかった。
「夕食、食っていけよ」
「ですがティアナ様に許可を頂かないと」
「アイツならいいって言うだろうよ」
無意識のうちにほころんだ表情をバートがじっと見つめる。
「なんだ」
「いえ、ずいぶん表情が明るくなったと思いまして」
と笑う、というかにやにやとしているバートに『うるさい』と顔を背けて、少しだけ冷めてしまった茶を口に運んだのだった。
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