第2話 今は釣り

 車に揺られるなずなは、高ぶる気持ちが表に出ているとサイドミラー越しの自分の顔を見て思った。自然と口角が上がっている。

 気持ちは顔だけに表れてはいなかった。神戸市の小学生が必ず遠足で行くであろう、どこにどの展示があるのかを知り尽くしている水族園も、生まれた時から既に身近にあり、強く吹く風に混じった潮風の磯臭さを運んでくるそれが当たり前な海の景色も。

 すべてが初めて見るようだった。

 父には悟られぬように首の角度を90度にして窓の外を見つめる。

海釣り公園と壁に大きく書かれたえんじ色の三角屋根が特徴的な小屋を少し過ぎて、最寄りの駐車場のある須磨浦公園へと交差点を右折する。そろそろ気持ちを落ち着かせようと頭を前へと向けた時、なずなは気付く。

 水族園を通り過ぎて海を眺めている間、なずなのおでこは窓にずっとくっついていた。


 車を駐車場に入れ、後部座席に置いていたクーラーボックスと釣竿を父と一緒に取り出し準備をした。

 なずなは初心者でも手軽に釣れると言われたサビキ釣りを、父は大物狙いのルアー釣りを。なずなも本当はルアー釣りをしてみたかったが、父に強く止められた。


 経験のないことは教えてもらいながら実践してきたなずなだが、小さな子供連れやベテランの様な釣り人に混じり、父の大物狙いの隣で小さな竿を扱うのにはどうにも恰好が悪いと思い、中学卒業と同時に買ってもらったスマホを、体の一部として使用する女子高生よろしく、調べながら一人で悠々自適に釣りをすると決めていた。

 「釣り人はアタリがない時間を楽しみ、獲物が食いつくその瞬間に生きている。なずなにもこの気持ちがわかってくれるといいが」。

 家を出る前に父が呟いた言葉を思い出した。

 「すぐにわかるよ。だってそれが趣味だもん」。

 声にすらならなかったその言葉は、まるで自分に言い聞かせている様だった。


 駐車場のある須磨浦公園は鉢伏山と名のついた低山の登山口でもある。

 山陽電鉄本線須磨浦公園駅直結のロープウェイもあり、朝の早いこの時間には登山者も多くみられた。   

 なずなはそれほど大きくないカメの水槽程度のクーラーボックスを肩にかけ、登山者を横目で見つめた。

 あんな大荷物で坂なんて歩きたくない。坂なんて毎日登っているけど楽しいことなんて一つもない。そんな風に他人の「趣味」に口をだしていた。


 車で通ってきた国道2号線を須磨浦公園から続く階段を利用してくぐりぬけ、海釣り公園の小屋へと向かうなずなは、車で見た小屋よりも、車から小さく見えていた釣台も、地面に立って初めてわかるその大きさに、釣りという「趣味」のスケールの大きさに気付いた。

 自然相手に、ましてやそれが海だというのだから、にやけずにはいられなかった。


 釣りをするための受付は何度も来たことがあるという父に任せた。慣れた足取りで海釣り公園の中を歩く父の後ろにつき、その挙動を見逃さないようにした。

 次は一人で来ることになる。

 これから先も。

 そのための予行演習。


 釣台の周辺には管理の人たちが漁礁を作っていて、どこの場所をとっても釣れるポイントだと聞き、だったら先の先で釣りをしてみたいと思ったなずなは海の上を400mほど歩くという不思議な経験をした。

 海の磯臭さを好いていないなずなだが、釣竿を持っている間は気にならなかった。  

 釣り人になっていると実感していた。


 結局朝から基本料金内である4時間ほど釣りを楽しんでいた。

 父の釣果は片手で数えるほどで、なずなは上々の釣果であった。小さいものを入れると片手では収まりきらず、小さなクーラーボックスには満足するほどの出来栄えであった。お昼は塩焼きで夕飯は煮つけだろうと勝手に想像する。

 お世辞にも良い釣果とは言えない父が満足そうな顔をしているのを見たなずなは、自分はこんな表情をしていたのかと疑問に思った。

 

 まだ釣りを始めた初日。

 

 来週の土曜日にはもう夏休みが始まっている。

 

 その次の週は街も夏休みに染まっているだろう。

  

 その次の週はどうなっているのだろう。

 

 考えるだけで心臓の位置が鮮明にわかる。

 

 次はどこへ釣りに行こうか。

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