王の帰還

平嶋 勇希

王の帰還


王の帰還


 街中の空気を震わせるような鐘の音が響いていた。

 鈍い音だが胸の奥に届く音だったことを覚えている。けどそれはおぼろげで、箒で掃いてしまえばさっと消えるような記憶。その鐘の音は誰かが生まれたことを祝福する音だったらしい。

 そうか。であれば、僕が生まれた時にその鐘は鳴らなかったのだろう。












――





 草原の草花が揺れて、陽の光で煌めく。空には雲一つなく、今日もよく晴れている。

 草原の真ん中で、焦げ茶の馬が口をむしゃむしゃさせながら草を食べている。そのすぐ近くで白と黒の2頭の牛がぼぉっと遠くを見つめている。いつものことだ。だが何を見つめているのだろう。その視線の先には澄み切った空と変わることのない山々の表情があるだけだ。


 遠くに視線を向ける。草原の端に僕が住む家。家の前には簡単な柵がある。その内側で母さんが洗濯物を干しているのが見える。濡れた洗濯物がそよ風で揺れている。

 僕は草原の少し盛り上がった丘に座り込み、いつもの穏やかな風景を眺めるのが好きだった。まるでこの時間が永遠に続きそうなほど、ゆっくりと時間が過ぎる。


 「待たせたな、いくか」


 そんな時間の流れを遮るように、後ろから声がかかった。僕に話かけたのは20代の青年。振り向くといつもの笑顔で僕の方を見下ろしていた。

 彼の名はトニー。顔立ちもよく、さわやかな彼が好きだった。いつも遊んでくれるし優しい。母も、いつも僕と遊んでくれてありがとうとお礼を言っていた。もう数年の付き合いになる。――トニーは害のない優しい人だ。

 僕はうなずいて立ち上がり、森の中へ行く彼の後ろをついて行った。





 帰ってきたのは夕方だった。腕も足ももう動かない。疲れた。

 彼と一緒に、育てている芋の様子を見に行っていた。家から20分ほど山を登ったところに、トニーと一緒に使っている畑がある。

 トニーは僕に畑仕事を教えてくれた。芋を作れるようになればお母さんも喜ぶぞと言われて、重たい鍬を振って、トニーがくれた種芋を植えて、事あるごとに様子を見に行くようにしていた。「そんなに毎日見に行く必要もないんだぞ」とトニーには笑われた。芋は放っておいても勝手に大きくなると彼は言っていたから、他の野菜よりも育てるのは簡単なのだろう。

 でも僕には時間がたくさんあって持て余していたから、畑仕事を続けるのはそこまで苦ではなかった。

 今日はトニーと一緒に草むしりをした。徹底的にだ。畑仕事を続けるのは苦ではないけども草むしりは別だ。知らず知らずのうちに足も手も疲れてきて単純な作業でつまらない。終わったと思っても、トニーが雑草を見つけてはここも残ってるぞと言ってくる。自分が抜いてくれればいいのにと文句を言いながら僕は手を動かした。 

 僕の小さな畑は緑と茶だけで色に乏しかったが、トニーの畑は色とりどりの野菜が実りつつあった。緑、紫、黄色、赤。畑に飾りをつけているみたいだった。野菜だけでなく、畑の端には花が植えてあった。白い花だ。まっすぐに伸びた茎。その先にふわりと柔らかく膨れた綺麗な花が咲いている。僕は「芋だけじゃなくあの花の作り方も教えてよ」と伝えるとトニーは作業しながら、「また今度な」と答えた。


 「今日もありがとう」

 夕日に照らされているトニーにいつものようにお礼を言った。「今日はかくれんぼしないのか」と彼は意地悪な笑顔で返した。僕は畑仕事をしても時間を持て余している。トニーと一緒に畑に行ったあとは大体二人でかくれんぼ――見つかったら逃げるのでほぼ鬼ごっこだが――をするのだが、今日はもうへとへとで動けない。

 「い、いや今日は」

 僕が目を瞑りながら首を振ると、「まだまだだなぁ」と彼は笑った。

 トニーがまたなと一言言って、ひらりと手を振り帰っていった。僕も母さんが待つ家に帰ることにした。










――

「今日は、学校に行かないの?」

 母さんは、寝ぼけまなこで朝ご飯を食べる僕にそう言った。心配するような口調ではなかった。さらりと日常の何気ない会話のひとつに思える。だけど僕は本能的に身をぶるりと震わせた。母さんは自分の食事も準備しながら僕の返答を待った。僕は「うん」と、その二文字を頼りなく発することしかできなかった。

 心配するような口調ではなかったが、実際のところ母さんはどう思っているのだろう。僕の歳くらいになると他の子どもたちはみんな、街の学校に通っている。簡単な勉強をして、あとは友達を作って遊ぶ。どちらかというと後者がメインかもしれない。だけど僕は学校には通っていない。行ったことはある。けどもう半年以上は休んでいる。他の子どもの親から噂されたりしているのだろうか。あそこの子供は学校にも通っていない。親はどんな教育をしているのかと。母が僕のせいでそんな風に噂されているかもしれない、陰口を言われているかもしれないと考えたこともある。けど僕はそれでも学校に行こうとは思わなかった。怖かった。そして怖がっている自分が嫌で、その循環が続いて、あの場所に行ってもいいことなんて起こらないと思うようになった。


 窓の外を見る。そこには草原と空しかなかったのに、自然と学校での記憶が浮かんできた。

 僕の性格を表すなら、考え込みやすく、傷つきやすい。そういう表現がぴったりだと思う。それはたった数週間の学校生活を通して感じた。

 

 1年ほど前、僕は母さんに連れられて学校に行った。突然のことで驚いた。これからはここに通うのよと言われて困惑した。ここに通ってなにをするのか。できれば今までのように母さんと二人で過ごしながら、馬と牛の世話を静かにしていたいと思っていた。


 学校はにぎやかだった。僕と同じ年代の子たちがたくさんいた。先生と呼ばれる人に教えてもらって勉強したり、多くの時間は自由な時間だから、校庭と呼ばれる、僕の家の草原と同じくらい大きな広場で遊んだりしていた。僕は何をしていいかわからずただ立ち尽くしていた。知らない子に話しかけるのは怖かったし、遊ぶと言っても一人で遊んだことしかなかったから、体が固まるのを感じながらただ他の子が笑顔で走り回る姿を見ていた。

 その日はそうやって終わった。ただ立っていただけだったけど、帰ったら足や首が緊張で疲れていることに気付いて、すぐに眠ってしまった。

 その次の日も母さんに連れられて学校に行った。その日も同じように立ち尽くしていただけだった。

 なにが楽しいのかわからなかった。なぜここにきているのかもわからなくて、僕はだんだんこの時間が嫌になってきた。次の日も同じように過ごした。また次の日も同じ。けど少しずつ変わっていったのは、僕を見る目が増えたということ。立ち尽くす僕に話しかけはしないが好奇の目で見る子が増えた。その突き刺すような視線が嫌だった。なにもしていないことが悪いことだとその目に言われているような気がした。


 母さんは学校での様子を聞いてきた。僕は楽しくないと答えた。勉強も周りより理解できていなかったし、苦痛でしかなかった。「大変だと思うけど、時間が経てば友達もできるし勉強も理解できるようになる。そうなったら楽しいよ」と笑顔で言った。その言葉はなかなか信用できなかった。母さんは僕が邪魔だから学校に行かせているのかなとそんな嫌な考えが浮かんでしまった。

 そうして数週間が経ったある日、一人の男の子が、いつものように立ち尽くしている僕に話しかけてきた。

 「いつもなにをしているの」

 僕はその声に驚いて思わず身じろぎした。トイレに逃げようと思ったがその子の目を見たら体が動かなかった。

 「なにもしてないよ」

 絞り出すように声を出してそう答えた。

 「じゃあ来てよ、かくれんぼしよう、二人で」

 「かくれんぼ?」

 「知らないのかい?」

 その子は僕にかくれんぼというものを教えてくれた。勉強を理解できない僕でもわかるような簡単な遊びだった。家にいる馬や牛とは到底できない遊びだった。僕はその子の言う通りに物陰に身を隠した。「簡単だよ」と男の子は言って、僕はすぐに見つかった。どこに隠れればいいかなんてわからなかったからしょうがない。今度は逆に僕が探す側になった。広場の物陰や、学校の花壇の裏なんかを探し見たけど見つからなかった。なんだかまた一人になった気がしたから、それが嫌で、僕は懸命に男の子を探した。男の子は広場の隅にある木箱の中に隠れていた。「見つかっちゃった」と男の子は笑っていたけど僕は泣いてしまった。ひとりぼっちになったと思ったから。置いていかれたと思ったから。男の子は心配そうな顔をして木箱から身を乗り出した。「どうしたの」と問いかけられたけど、僕は涙を止めようと必死で声が出せなかった。

 「ケビン、何その子?仲良いの?」

 女の子の声がした。

 「いまかくれんぼしてたんだよ」

 「へぇ」

 ケビンと呼ばれた木箱の中の男の子が返事をした。女の子は納得したようなしてないような声を出した。ぼやけた視界で女の子の方を見ると、その子の後ろには3人の女の子がいた。

 「最近入ってきた子でしょ」

 僕は突然話しかけられたことに驚いて、言葉を喉の奥から引っ張り出せなかった。

 「なんでいつもあそこで突っ立てるの?」

 その女の子の咎めるような口調に押されて、僕の心はつぶれそうになっていた。

 「まだ入ったばかりだから何もわからないんだよ」

 ケビンが木箱から出ながら僕をかばうように言った。

 「ふぅん、でもなんか気持ち悪い。ずっと立ってるだけで何考えてるかわかんないし」

 女の子はそう言うと、僕の奇異の目で見てから、振り向いて去っていった。

 「感じ悪いよね、ルーシーっていうんだよあの子」

 「何も気にしなくていいよ、ああいう子だから」

 ケビンはそう言ってくれたが、僕の心の中のもやもやは色濃くなっていった。

 

 僕は帰ってそのことを母さんに話した。母さんは「友達ができてよかったね」と言った。よかったのだろうか。ルーシーという女の子の言葉がとげとなって、胸に刺さり抜けない。母さんに話したらこのとげを抜いてくれるかと思ったけど違った。母さんはケビンが僕と遊んでくれたことに安心していたみたいだった。僕は、母さんの安心をそのままにしておきたくて、胸の痛みについて詳しく話すことができなかった。

 

 次の日から僕は学校には行かなかった。あの程度のことで傷ついて、立ち直れなくなったと言われればそれまでだし、僕もそれを認めるしかない。別にそれを誰かから言われて、僕自身を完全に否定した人がいるわけでもない。けどもう学校には行きたくなかった。なんとなく、言葉にするのは難しいけど気づいた。あそこに行っても楽しいことはない。あそこでうまくやっていける自信がない。

 「ケビンが待ってるんじゃない?」と母はさびしそうな笑顔で言ったが、僕は何も返事をしなかった。







――


 今日もトニーと畑に行って帰ってきた。

 今日は一段と熱く、そろそろ夏が来るのだとわかった。気温だけじゃなく周りの木々の緑色や、野菜のみずみずしい色がそれを告げている、とトニーが言っていた。

 汗だくになったから水浴びを長めにして、いつものように夕飯を食べた。

 この後はやることがない。普段は、小屋に戻した馬と牛の様子を見に行ったり、母さんの縫物の邪魔をしてみたりする。今日は鉛筆で絵を描いていた。一向にうまくならないが構わない。ただ紙に線を描いて落書きをしているだけで時間はつぶれた。

 母さんは洗い物を終えてから、僕と同じように水浴びをした。昔は母さんと一緒に水浴びをしていたが今はなんだか恥ずかしい。僕もそういう年頃とやらになったのだと思う。母さんは水浴中、僕に背を向けない。背中に大きな傷があるらしく、それを見せたくないと言っていた。

 母さんは水浴びを終えると髪を乾かしてから、窓際に椅子を置いて新聞を読んでいた。ゆらゆらと椅子を揺らして表情を変えずにページをゆっくりめくっている。

 「何を読んでいるの?」

 僕は母さんの隣に行って新聞と母さんの間に顔を出してみた。

 「ちょっと難しいことを勉強してるの」と母さんは穏やかに笑った。

 「難しい?」

 「そうでもないよ、世界の情勢がわかるの」

 「情勢?」

 「そう」

 母さんは情勢という言葉について教えてくれた。いまどんな風になっているのかという意味らしい。世界の情勢と言ったら、いまこの世界がどんな風になっているのかということだ。なぜ情勢を勉強しているのか訊いてみた。今この国や他の国、あるいはこの町がどんなことになっているのかがわかれば、次に自分が何をするべきかわかると母さんは答えた。難しくてよくわからなかったけど、僕はちんぷんかんぷんという表情をなるべく出さないようにして「ふぅん」と相槌をうった。

 「いまとなりのI国は、戦争をしているの。I国の中でね。いろんな人が死んでいる。怖いでしょ?だから今はなるべくI国に近づいてはいけないの。もしこれを知らずにI国行こうとしたら危険な目に遭う。もしかしたら銃で撃たれて死んじゃうかも。それは嫌でしょう?でもそれをあらかじめ知っておけばそれを避けられる」

 母さんの説明でようやく意味が分かった。

 「私はいま新聞を読んで勉強したけど、勉強はいろいろなところでできるのよ。」

 「学校とか?」

 僕は恐る恐る訊いてみた。

 「そうね。それもそうだけどもっといろんなところできるし、ジャックもすでにいっぱい勉強してるのよ」

 「僕が?」

 「そう」

 母さんは笑顔でうなずいた。

 「勉強は学校でやるものだけじゃない。新聞でも自分が知らない色んなことを学べる。本を読んでも同じようにいろんなことを勉強できるね。あとジャックはトニーから畑仕事を教わってるでしょ」

 「うん」

 「あれも勉強よ。こういう風にすれば野菜は育つんだ、これをしたら駄目なんだ、これをしないと野菜は育たないんだってトニーからいろいろなことを教わってるでしょ」

 「うん」

 「だからジャックはすでにいっぱい勉強できてるのよ」

 ピンと来ていない顔をしていたと思う。けど母さんはそんな僕の顔を見ながら自信をもってうなずきながら話してくれた。

 「でも勉強でなんですると思う?」

 僕はしばらく考えてみたけど納得する答えを出せなかった。

 「勉強したことを活かしてやりたいことをやるためなのよ」

 その言葉もピンとこなかったが、僕は母さんの言葉を一言一句聞き逃さないよう耳を傾けた。

 「勉強して色々なことを学んで知識を蓄えるだけじゃだめ。ジャックはトニーと一緒に野菜を育ててる。それを食べるためにね。野菜を育てるために育てる方法を勉強する。けど畑がなかったらそれを実践できないし、畑があってもやろうとしなかったら、もちろん野菜は育たないし食べれない。勉強したことはどこかで活かさないとだめなの。ジャックはトニーから色々なことを教えてもらいながら野菜を育ててる。だからそれでオッケーなの。活さないとだめだけど、自分が学んだことを活かせたら何だってできるのよ」

 「何だってできるの?」

 何だってできるってどういうことだろう。何もかもってこと?それってどこからどこまで?

 疑問が浮かんできて止まらなかったから質問もすぐに口に出た。

 「そうよ。ジャックは将来何になりたい?」

 僕は質問の答えが率直に母さんの口から出てこなくて困惑した。

 「突然言われてもあまり思い浮かばない」

 少し時間をかけて考えてみたけど、どう答えればいいかわからなかったからそんな言葉を口にした。

 「そうね、いきなり言われても難しいよね。だったら、どういう風に暮らしていけたら幸せ?」

 沈黙が続いた。僕はそれなら答えられそうだと、時間をかけて考えた。

 「ここで母さんと一緒に馬と牛の世話をしながら生活していきたい、あとトニーと一緒に野菜と、あと花も育てたい」

 「花?トニーは花も育ててるの?」

 母さんは興味津々に訊いてきた。

 「うん、白い花だった。とても綺麗だから僕もやってみたいなって」

 「素敵ね、とっても」

 母さんが目じりにしわをよせて笑った。

 「馬と牛の世話は私から色々教わってできるようになった。それはジャックがお世話の仕方を私から勉強して毎日実践してるから。トニーとの野菜作りもさっき言ったようにトニーから勉強してできるようになった。花も同じようにできるよ思う。」

 母さんはそこで言葉を止めると、窓の外に目を向けた。さみしく揺れる草原と星が散りばめられた空を見ているようだった。

 「例えば、これはもしもの話よジャック。もしも、この家の前の草原にお花畑が作れたら、この草原全部が花になったらとっても綺麗じゃない?」

 そう言いながら母さんは僕の目を見た。そのきらきらした目を見つめるとその瞳の奥には僕が映っていた。

 僕は少しだけ上を向いて想像してみた。

 広大な花畑。白い花、真っ白な一面。小さな虫や鳥が白い花の蜜をすすりに来る。トニーがその花畑をほめてくれる。母さんと一緒にその花畑を見ながら丘の上でご飯を食べる。心地よい風を受けて、花のほのかな甘い香りが鼻をくすぐる。そんな晴れた日に外で昼寝をする。

 「最高だね」

 僕は顔がほころぶのを感じながらそんな言葉を漏らした。

 「でしょう?そうなったらとても素敵だよね。いまトニーは畑で花を育ててるのかな。そしたらその花を育てるには種の植え方や水やりのことについて勉強すればいい。簡単だけどそれで育つのはその畑でだけだし、いっぱいは育てられない。けどこの草原で育てられたら。いま想像したようにとっても素敵な景色が見れると思う。でもそんなの無理だよって思うかもしれない。けどね、例えば、この草原の土が花を育てるのに向いているのか、向いていなかったらどうするればいいのか勉強する。花をたくさん咲かせるにはどうしたらいいのか、どういう風に種を植えればいいのか。一つの花を育てるのと、たくさん育てるのではどう違うのか。水やりも変わってくるのか。そういうことを一つ一つ勉強すれば、できなさそうなことでもできるようになるのよ」

 不可能に思えたけど母さんの言葉を聞くと、なんだかできそうな気がしてきた。なんだってできるってそういうことなのか。

 「口があいてるよ」

 そう言って母さんは僕のあごにそっと手を添えた。考えるあまりぼおっとしていたらしい。

 母さんが何を考えているかなんて想像したこともなかったけど、母さんの口から出てくる言葉を聞いて、心の底からすごいなと思った。僕の知らないことをたくさん知っている。僕ができない考え方をたくさん知っている。学校なんかに行くより、母さんからもっともっといろんなことを勉強したいと思った。








――




 今日もいつもと同じ一日だった。トニーと一緒に畑に行って夕方手前くらいの時間に帰ってきた。今日は草むしりもなく、水やりをしたりなど簡単な作業だったから体もまだ疲れていない。森の近くでトニーとかくれんぼをして過ごした。トニーは見つけるのがへたくそだった。もしくは僕が隠れるのが上手くなったのかもしれない。森の中の草むらにの中に伏せていて、トニーは「どこだジャック」と声を上げながらすぐ近くを歩いたが全然気づいていなかった。僕の勝ちだ。


 空がオレンジ色に染まる。気温も下がり、半そでには丁度いい風が吹く。

 僕はいつものようにトニーに声をかけた。

 「明日も畑行く?」

 それに対するトニーの答えは、「いくよ、一緒に行くかい?」「いや明日は行かないよ」のどちらかだ。今日は「いや明日は行かないよ」と笑顔で答えた。僕は「じゃあまた」と声をかけて家に向かって歩き出す。けどトニーが不意に僕に声をかけた。「ちょっとお母さんに用事があるんだ、一緒に行くよ」と言った。いつもとは違うやりとりだった。


 「あら、おかえり。久しぶりに顔を見た気がするねトニー」

 僕が母さんを呼ぶと牛舎の方から声がした。馬と牛を牛舎に戻していた母さんが出てきた。

 「えぇ、少し伝えたいことがありまして」

 トニーはそう言うと、携えていた鍬を置いて胸に右手を当てた。背筋を伸ばしびくともしない。目つきも鋭く、唇をキッと結び、重たい表情を浮かべている。僕と話していた時とは違う、毅然とした態度でトニーは言葉を続けた。

 「私の名はコーリアス。光芒のコーリアスと申します。王の命によりお迎えに上がりました」

 その声が耳に入ってから、誰もしゃべらなかった。沈黙が続いた。

 コーリアスって言った?

 いったい誰のこと?母さんからそんな名前は聞いたことはない。

 僕は全く状況が理解できず、母さんとトニーを交互に見ていた。

 そよ風が吹いて耳の奥で空気がうごめく音がした。

 母さんの顔をあらためて見た。頭に浮かんだ戸惑いが顔にそのまま貼り付いているようだった。口だけが小さく動く。けど何も言葉にできていない。

 「ネル様。私の言葉の意味については御理解いただけていると思います」

 「えぇ」

 息を吐くように母さんが返事をした。その瞳に表情はなかった。灰色になった瞳は、母さんの思考がストップしてしまったことを示しているようだった。

 「トニー、一体どういうこと?」  

 僕は母さんの困った表情を見るのに耐えかねて、トニーに質問した。「すべて説明させていただきます」と硬い言葉を言って彼は語り始めた。






――




 「私は光芒のコーリアス。I国の騎士であり、I国のアンヴィル王の命により参りました。数年前よりこの地に身を移し、トニーという偽名を使いあなた達親子に接触しました。最終的な目的はジャック、あなたをI国に帰還させることであります。そしてその後、現アンヴィル王の後継として王となっていただく。

 

 あなたの名前はジャックではありません。あなたはレスター・アンヴィル。現アンヴィル王の3人目の子供であり第4順位の継続権を持っています。アンヴィル王には4人の子供がおります。あなたはそこのネル様の第一子、アンヴィル王の3人目の子として生まれました。しかし非嫡出子であります。あなたは、当時、王城の使用人であったネル様との間に生まれた子であり、その存在は公にされないまま、ここF国の田舎にネル様と移されたのです。


 現在I国は内乱状態にあります。貴族が大半を占める王政派と反王政派の対立です。この内乱は8年前、あなたが生まれた頃より続き、首都グリーンは壊滅状態にあります。あなたとネル様はアンヴィル王の計らいによりこちらF国に疎開していました。私は数年前にこちらに派遣され、王よりある命を受けております。内乱によりあなたの兄と姉、弟である皇子、皇女が3人とも殺害されてしまい、王権継承者が不在という状況下に陥った場合、あなたを連れ戻すようにと。I国の王政派は現在、反王政派の激しい抵抗を受け厳しい状態にあります。先日私のもとにアンヴィル王の最後の皇子が殺害されたという報告が届きました。病に伏せている王に代わりレスター皇子、あなたには王になっていただく。そして反王政派に対抗し、I国を導いていただく。」


 そこにトニーという青年の面影は一切なかった。彼の瞳の色もまた灰色だった。彼は僕の疑問を一切無視して話を続けた。難しい言葉も出てきて状況が理解できなかった。ただ、僕にわかったのはトニーが、いなくなってしまったということだ。

 母さんの顔も見た。僕と同じようにコーリアスの話を黙って聞いていた。ただ僕とは違ってその状況を全て理解しているようだった。理解したうえで、絶望の表情を浮かべていた。母さんの顔は畑で見た花のように白くなっていた。


 



――





 コーリアスは僕と母さんに「また答えを聞きに参ります」と言っていた。それはどういう意味だろうか。行くか行かないかの返答を聞きにくるということなのだろうか。それともいつ発つか、その日時の返答を聞きにくるのだろうか。僕はパンクしそうな頭を抱えた。その間にコーリアスは姿を消していた。

 母さんはずっと隣にいた。立ち尽くしていた。遠くの空を見つめて黙り込んでいる。

 僕はどうしていいかわからなかったから、学校に行った時と同じように母さんの隣で立ち尽くしていた。そうして数分経ったあとに母さんがいつもの笑顔を顔に貼り付けて、「ご飯にしようか」と言った。


 その日のごはんは思い出せない。味がしなかったから記憶に残っていない。

 





――




 次の日、目が覚めた。母さんが隣で僕のベッドに座っていた。優しくおはようと声をかけてくれる。僕は顔を洗いに行って、いつものように朝ご飯を食べた。

 その日、母さんが僕を連れ出してくれた。僕を馬のサニーの背に乗せた。母さんも後からサニーに乗り手綱を握る。母さんの腕に包まれるような形になり、なんだか安心した。母さんがゆるく手綱を揺らすとサニーはゆっくりと歩き出した。

 長い時間乗っていた。サニーの歩みはゆっくりとしていて、ゆらゆらと揺れる彼女の背中でリラックスできた。草原をのんびり散歩して、森の中に入った。川の近くで少し休んで、また草原に戻ってきて母さんの作った弁当を食べた。サニーはそれを欲しそうに見ていたが、母さんが与える気がないのを感じたのか草原の草をむしゃむしゃと口に入れていた。

 僕も母さんもあまりしゃべらなかった。昨日のことは一切に口に出さなかった。僕はなにを聞けばいいかわからないほど、コーリアスの話を理解できていなかったし、母さんはあまり口に出したくなさそうだった。

 僕は弁当を食べると眠たくなって、ひんやりとした草の上に体を大の字に投げ出した。サニーが僕の顔に近づいて、くんくんとにおいを嗅ぎ、べろりと僕の顔をなめた。思わず声を出して起き上がった。母さんは笑いながらハンカチを出して僕の顔を拭いてくれた。その手は柔らかくて優しかった。


 昼寝をして、起きると夕方になっていた。母さんも隣で寝転んで、僕の顔を見ていた。目に力が入っていないから母さんも先ほどまで寝ていたのだろう。

 母さんは立ち上がり、まだ寝足りない僕を無理やり起こすとまたサニーの背に乗せた。僕たちは色を変えた夕方の草原をまた散歩した。


 「母さん、僕は、」

 サニーの背中の上で揺られている僕は母さんに質問してみることにした。けど言葉を止めた。その後になんと言葉を紡げばいいかわからない。けど頭の中に一番最初にでた疑問を口に出してみた。


 「僕は、行かないといけないの?」

 母さんは何も言わなかった。

 僕はなにか悪いことを言ったのかもしれない。そう思ってどきどきした。そして母さんの表情を窺うように顔を上げようとした。

 けど母さんの手が優しく僕の頭に乗るほうが早かった。母さんはゆっくりと僕の頭を撫でた。

 さらさらと流れるその手が気持ちよかった。


 「そうよ、あなたは行かないといけないの。それがお父さんとの約束だから」

 「お父さんって、アンヴィル王?」

 「そうよ」

 母さんは話しながら、僕の頭を撫で続けた。僕は後ろにいる母さんの顔を見ることはできず、サニーの背とその向こうの草原と夕焼けを見ながら話した。

 「僕は帰ってこれるの?」

 その言葉が不意に口から漏れた。自分で言ったその言葉を耳に入れた瞬間、背中がぞわりとした。

 「ううん、戻ってこれない」

 「えっ」

 母さんがすぅっと深呼吸したのがわかった。

 「もう会えないと思う」

 頭が真っ白になった。

 目の前のサニーの背も、夕焼けも、僕の頭をなでる母さんの手すら、どうでもよくなった。

 「なんで」

 息を漏らすような声で言った。風に負けないようにしっかり声を出したつもりだったけど、そんな声しか出なかった。

 「あなたは、王にならないといけないから」

 母さんの声は震えていた。

 「王になるって何?」

 僕の声も震えていたと思う。目から涙があふれてきてうまく息が吸えなくなってくる。

 「I国の人たちを幸せにするってこと」

 「できないよ」

 母さんの呼吸が荒くなった。その呼吸は震えていた。息が上手く吸えていないとようだった。今の僕と同じように。

 「それとも勉強すればできるようになるの?」

 前に母さんと話した時のことを思い出した。母さんは勉強すればなんだってできるってそんなことを言っていた。

 「きっと、できるよ」

 母さんは、言葉の一つ一つを何とか紡いで僕に返答した。鼻水のずるずるという音が後ろから聞こえる。母さんも僕と同じように泣いているようだった。けど僕を撫でるその手が止まることはなかった。

 「怖いよ、母さん。だって、僕、学校にも、いけなかったし」

 僕も母さんと同じように必死で言葉をつないだ。胸の中にある思いが涙と言葉になって溢れ始めている。

 「大丈夫だよ、あなたは優しい子だしトニーもついてるから」

 「トニーは、もういないでしょ、あの人はコーリアス」

 「そうね、けど、あなたを守ってくれる」

 涙が止まらない。どうやったら止まるのか。

 この胸の中にある思いを口に出さずにはいられない。けどそうする度に、思いを口にするごとに、さらりと涙が流れてくる。

 「I国で静かに暮らせるのかな」

 「それは、たぶん、無理」

 「どうして?」

 母さんは言葉を止めた。鼻で息を吸う音が聞こえる。そのたびに背中にある母さんの胸が少しだけ上下するのがわかる。

 「I国は戦争をしているの。人が人を殺して、血が流れてる。お互いにこういう国にしたいっていう思いが強すぎて、話し合いだけじゃ解決できなくなってしまって。そして、恐らくジャックの前でも人が殺されると思う。あなたはその場面を見なきゃいけないと思う。辛くて苦しいと思う。だから穏やかに暮らすのは無理だと思う」

 母さんは僕に説明してくれた。そのあとで付け加えるよう小さくつぶやいた。ごめんねと。

 「どうして行かないといけないの?どうして僕なの?」

 聞いたとしてもその理由を理解できるはずない。けど聞かずにはいられなかった。

 「私のせいなの。ごめんね」

 謝ってほしくなかった。母さんを困らせるために質問したわけじゃなかった。僕は母さんの呼吸が荒くなっているのを感じて思わず後ろを振り向いた。

 母さんの目は真っ赤になっていた。そして同じように鼻先と頬も赤くなっていた。夕日に照らされているからじゃない。僕と同じように思いが溢れ出して涙を止められなくて泣いている。

 「顔が真っ赤だよ」

 母さんが先に言った。僕の顔に優しく手を置いて。きらきらした瞳を僕に向けて。

 僕は初めて、泣いている母さんを見て、見てはいけないものを見た気分になり前を向きなおした。

 「私は、アンヴィル王を愛してしまった」

 「あの人との子供が、あなたが欲しいって思った、心の底から」

 母さんは僕の問いに答え始めた。

 「この前ジャックは私と静かに暮らしたいって言ってくれたよね。私もジャックと同じように、あの人と、ジャックと三人で静かに暮らせたらいいなって思ってた。私はその夢を抱いてあなたを生んだのよ」

 「けどI国がそのあと戦争になってしまった。私の夢の為に、あなたに重荷を背負わせることになってしまった」

 「ごめんね」

 母さんの説明を聞いても、僕がI国に行かないといけない理由はよくわからなかった。ただ、謝らないでほしかった。謝ることなんて何もない。

 「僕は母さんと一緒だから幸せだよ」

 自然とそんな言葉が出てきた。

 母さんはどう思ったのだろう。僕の言葉のあとに何も言わなかった。

 けど、僕を後ろから優しく抱きしめてくれた。

 花のような香りが僕の体の中に入る。その香りがじんわりと僕の体を暖めてくれるのを感じて、僕は目を瞑った。



――




 視界は真っ暗なはずなのに、瞼の裏にはおぼろげな記憶が映し出されていた。

 恐怖を感じた時の記憶だ。

 母さんが僕を思いきり抱き締めて何かを叫んでいる。僕以外の誰かに何かを懇願するように声を張り上げている。

 その数秒後、ドンっという音と衝撃が響く。母さんがうめき声をあげる。僕を抱き締める腕はがくがくと震えている。まるでなにか痛みに耐えるかのように。

 そのあとの記憶はない。もう覚えていない。僕が今よりも小さいときの記憶の一部だから完全には思い出せない。時々思い出すこの記憶が何が起こった時のものかわからなかった。けど、今はわかる。母さんは何かから僕を守ってくれた。

 









――






 私は、妬ましいくらいに綺麗な夜空を見上げていた。まだ夜というには少しだけ早い。夕日が沈んで夕方と夜の間の時間。その時間の空が一番好きだった。紺色と青色の間の色に黄色と白の小さな点が浮かび始めている。私は、馬車が行った道の果てを見つめていた。その先から夜が訪れを感じる。


 あの子が行ってしまった。

 私の全てだったあの子が。

 この時が来るのは覚悟していた。

 

 幸せな時をあの子がくれた。I国での辛い出来事をすべて忘れさせてくれた。あの子が育てたのは野菜だけじゃない。花を育てる方法を教えてもらうって言ってたけど、もう知っているはず。私の中で、あなたの思い出という花を綺麗に咲かせてくれたのだから。

 昼過ぎの晴れた空の下、あの子は発った。あの子の顔を見て涙を流した。笑顔で手を振ったつもりだったが顔はくしゃくしゃだったかもしれない。あの子は案の定、出発する前、不安そうな顔を浮かべていたのに、馬車の窓から身を乗り出して、私に手を振るその顔は穏やかな笑顔だった。

 どうしたらそんな顔ができるの?不安で怖くて仕方ないはずなのに。心に余裕がなくて、誰かに抱きついてすがりたいはずなのに。今すぐ馬車から飛び出して逃げ出したいはずなのに。どうして?

 なんとなく答えは分かっていた。

 あの子は、私が泣いたり、不安な顔をしたりするところを見たくなかったのだ。嫌な気持ちになっている私を心配していた。自分がこれからとてつもない困難に向けて歩き出すことも理解しながら、人のことを思いやることのできる子なんだ。

 優しい。人を優しく包み込める子。

 でも優しすぎる。いつかその優しさが原因で傷ついてしまうかもしれない。だからいつまでもそばにいてあげたい。私だってついていきたい。私の命を投げうってでもあの子を守りたい。けどそれは叶わない。許されるのは王の帰還だけだと、コーリアスは言っていた。


 私は家の中に戻った。がらんと寂しくなった部屋を呆然と眺めた。

 あの子が座っていた椅子を見つめる。もう少ししたら帰ってくるのではないかとそんな考え頭をよぎる。私はそれを否定するようにゆっくりと頭を振る。

 ふと、机の上に何かがあることに気付いた。

 それは手紙だった。

 

 私は、それを手に取った。震える手で封を開けた。

 

 「母さんへ」


 その字は、まだ歩き方がおぼつかない子供のような頼りない字だった。あの子はまだ少ししか字を書けないはず。

 その書き出しを見ただけで、もう涙が止まらなかった。もともとあの子の前でも我慢できずに泣いてしまっていた。けど今は、声を上げて泣いてしまった。

 「母さんは、幸せになってね

 母さんと会えなくなるのは悲しいけど、元気に頑張ります

 ありがとう、優しい母さんが、大好きだよ」


 紙の真ん中にあの子の思いが書かれていた。

 視界がぼやけて見えなかった。けどそれでも目を開いて、あの子が書いてくれたこのメッセージを心の中にしまうように、声を出して文を何度も何度も読んだ。


 

 熱くなった涙がぼたぼたと紙に落ちた。その雫がゆっくりと手紙に染み込んでいき、じんわりと文字を滲ませた。





















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王の帰還 平嶋 勇希 @Hirashima

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