4.都大会

 五月中旬。桜も散り、夏へ向けて木々に青葉が茂り始めるこの時期に、全国各地で全国高等学校テニス選手権大会、通称インターハイの予選大会が行われる。

 先週は団体戦のオーダー発表があったけど、都大会では団体戦の他に個人戦もある。実は四月下旬から五月上旬にかけて個人戦は既に実施されていて、吹野崎からは、男子はシングルスでキャプテンがベスト8、ダブルスでは長野先輩と金子先輩のペアがベスト16、女子ではシングルスで馬淵先輩がベスト16という素晴らしい成績を収めていた。

 個人戦は強さだけがものを言う競技だから勝ち上がることはすごく難しいってハルが言っていた。でも同じテニス競技でありながら団体戦は全くの別物らしい。団体戦でカギとなるのはやはりチーム力だ。監督が言っていたチームのために戦う力なんだろうな。

 団体戦の初戦を迎えた俺たち吹野崎高校テニス部の1年は朝早くに自校のコートに集合していた。今日は男子も女子もうちの高校が試合会場になっているからその準備のためだ。

「まだやることあったっけー?」

 ハルが目をこすりながら聞いてくる。

「コート整備したし、ネット上げたし、各高校の待機場所も確保したし、俺たちに割り振られた仕事は終わりかな」

「じゃあ休憩しようぜ。眠いし」

 ハルは大きなあくびをしながら校舎の壁にもたれかかり、俺もそれに続いた。

「ちょっと男子! 休んでる暇があるなら手伝ってよ!」

 通りかかった光野に見つかってしまい、俺たちはすぐに立ち上がった。仕方ない、手伝いに行くか。とハルとアイコンタクトを交わして女子の手伝いに向かう。

 女子の方では光野の指揮の下、受付の設置をしていた。光野はクラスでもクラス委員に指名されるほど優秀で――性格はちょっときついところもあるけど――今日も女子の中心となって準備に貢献していた。俺たちが手伝いに向かうと石川が小柄ながらに両手で椅子を運んでいるところだった。

「手伝うよ」

 ハルが駆け寄って石川に声をかける。

「あっ、えっと……」

「いいから。ほら」

 石川はもじもじしながらもハルに椅子を渡した。

「あ、ありがとうございます」

 近くにいるハルでも聞こえないんじゃないかっていうくらい小さな声で石川はお礼を言った。

「おう。任せとけ」

 ハルはニコッと笑った。俺は光野と机を運んだ。

「運ぶ物はこれで最後ね。二人とも、ありがとう」

 お礼に抜かりがないところもさすがだ。

 準備も終わり休憩していると先輩たちが姿を現した。いの一番に来たのはキャプテンで、来るなり会う1年に「おはよう。朝から準備ありがとう」と声をかけてくれた。

 別の高校も続々と集まってきた。長身の選手や強面の選手とすれ違うとそのいかつさに圧倒される。女子の選手でも俺より背の高い人は少なくない。みんなすげぇ強そうに見える。でもうちの先輩たちはそれ以上に強い。なんてったってあんなに過酷な振り回しを耐え抜いた人たちなんだから。

 テニスの試合は基本トーナメント方式で行われる。今日の都大会ももちろん同じ。負けたら終わりという一発勝負の緊張感は凄まじいに違いない。

 次第に試合開始の時間が迫ってくる。先輩たちもアップを済ませて監督の元へ集合する。

「いよいよ今日から団体戦が始まる。3年生にとっては最後の大会だ。緊張はするかもしれないが焦る必要はない。お前たちは十分に準備をしてきた。迷ったらこれまでの練習を思い出せ」

『はい!』

 部員全員の返事が校舎に響いた。

「最後に全員で円陣を組んで気合いを入れるぞ」

 キャプテンの言葉でコート脇に巨大な円ができる。

「今日から団体戦だ。俺たち3年生にとっては最後の大会になる。今まで苦しかったことやつらかったことは多くあったけど、俺たちはそれらを全てはね返してここまでやってきた。自分たちを信じて戦い抜こう! 勝つぞぉー!」

『オォーー!!』

 都大会の団体戦はダブルス一試合、シングルス二試合の計三試合で勝敗が決まる。試合はダブルス、シングルス1、S2の順に進む。まずは初戦、ダブルスの二人がコートへ入る。長野先輩と金子先輩のペアだ。監督はコート横のベンチに座り、それ以外はフェンスを取り囲む。 

「初戦のダブルスは続く試合の勢いをつくる上で重要な試合なんだ。シングルスにいい流れでつなげられるか」

 隣のハルが教えてくれた。

「先輩たち、きっと勝てるよね?」

「大丈夫。勝てるさ!」

 少し不安になって聞いたけど、ハルがニコッと笑うから本当に大丈夫だと思えてきた。

「長野先輩! 金子先輩! ファイトー!」

「まず先に一本!」

 試合前にも関わらず吹野崎バック――フェンスを取り囲む応援団――からの声援もヒートアップしていく。俺も負けずに応援するぞ!

「ザ・ベスト・オブ・1セットマッチ。吹野崎、サービスプレイ」

 主審のコールとともにサーバーの長野先輩が高々とトスを上げた。ボールが一瞬太陽とかぶり、すぐさま眩しさが戻った次の瞬間、ムチようにしなったきれいなフォームから放たれたボールは一直線に相手コートのセンター――T字のほんの少し内側――を突き刺し、レシーバーが一歩も動けないうちにボールは後ろのフェンスにガシャン! と激突した。

「15―0」

 サービスエース。吹野崎バックからは歓声が上がった。そして俺はその美しいまでの1ポイントに声が出ないくらい感動し、一瞬で強烈な憧れを抱いてしまった。

 テニスの試合をこんな間近で見るのは初めてだ。照りつける日差し、チームメイトの応援、渾身の一打が決まった時に相棒と交わすハイタッチの音。そのどれもがかっこよく、眩しい。

 すげぇ……すげぇ、すげぇ! 今はまだ無理だけど、俺もいつかはあの舞台に……

 再びサーブが放たれた。今度は相手も反応してきたけど長野先輩の高速サーブにラケットを合わせることしかできず、力なく返ってきたボールを前衛の金子先輩がスマッシュで相手ペアの間を切り裂いた。

「30―0」

 俺は応援もそっちのけで、ただひたすらに目の前の光景を目に焼きつけた。そして想像する。いつかの日か俺もあの舞台に立ち、サーブやスマッシュを決める姿を。

 こんなすごいものを見せられて興奮しないはずがない。先輩たちのいるところはまだまだ遠いけど、絶対、絶対同じ場所まで行ってみせる!

 その後も俺は覚えたばかりの興奮を必死に抑えながら、先輩たちの試合をじっと見つめていた。



 一週間を挟んだ大会二日目。初日で快勝を続けた吹野崎は勢いそのままに今日も四、五回戦を勝ち上がり、ベスト16入りまで決めていた。テニスの大会では一日に何試合もやるのが一般的みたい。サッカーの時は基本一日一試合だったから何試合もやると聞いて驚いた。

 でも試合を重ねるごとに先輩たちの動きにはキレが増していってスーパーショットを連発。それらは何度見ても飽きず、むしろ毎回感嘆の息が漏れるほどだった。

 次は六回戦。ここを勝てば先輩たちが目標としていたベスト8だ。ただ……

 今日の試合会場はうちではなく隣町にある白鷹高校のコートだ。驚いたことにコート数はうちの倍もある六面。ハルが言っていたけど、そのコート数の多さが物語るように白鷹は東京の中でも随一の強豪校で、今大会も第1シードに名を連ねている。そもそも東京地区自体が激戦区で、白鷹以外にも多くの強豪がひしめき合っている。各大会では優勝する高校もバラバラなことから、巷では戦国時代なんて呼ばれているらしい。そんな中で白鷹は今大会第1シードで出場しているわけだけど、第1シードってすごくないか。一番強いってことだし。そしてなにより、俺たちの次の相手がこの白鷹高校になりそうなのだ。

「白鷹、第1シードってことはスーパーシードか」

「そうだね。ちょうど今頃初戦やってるんじゃないか? 勝ったら俺たちとだし、見に行く?」

 ハルと南の会話に太一が割って入る。

「おいおい、その『スーパーシード』ってなんだよ?」

 俺も気になったワードだったから耳をそば立てる。

「あぁ、スーパーシードってのは第1シードから第8シードまでのことを指すんだけど、それに入るとドローで優遇があるんだ。具体的に言うとスーパーシードは五回戦からの出場になる。もっともシード順位は前年の都大会の順位で決まるんだけどね」

「五回戦からの出場? そんなに試合をスキップできるのか? それってずるくね?」

 太一は少し怒ったように唇をすぼめてみせる。確かに俺も、シードって一回戦か多くても二回戦を免除されるくらいが普通だと思っていたから太一の気持ちは分かる。

「確かにずるいって思うかもしれないけど、そうとも限らないんだぜ。シードじゃないチームはスーパーシードと当たるまで少なくとも三試合はできることになるから、試合勘を養えたりチームに勢いをつけることができる。一発勝負のトーナメントでそれらは大きなアドバンテージになるんだ。まぁ、疲れは溜まるけどね」

 なるほど。試合勘や勢いを取るか、体力温存を取るか。まぁ俺たちに選べる権利はないんだけどね。

「それにシードじゃない方がいっぱい試合できるしね」

「それは勝ち上がればの話だろ」

「まぁね」

 太一のツッコミに当たり前のように答えるハル。ホント試合に勝つことしか考えてないんだから。

「ちょっと俺トイレ行ってくる」

 五回戦が終わり次の試合を待つ間、俺はトイレへ行っておこうと思い探すけど、初めて来た場所に迷っているっていうのと白鷹の敷地が広いっていうのとで中々見つからない。やばい、漏れそう……

 そんな時、コートから一際大きな歓声が聞こえてきたもんだからつい近寄ってみる。すごい数の人がフェンスを取り囲んでいて中の選手へ声援を送っている。応援団の隙間からかろうじて見えた試合ではシングルスが行われていて、体格の大きい選手がバンバンエースを取っていた。すげぇパワーだ。その豪快なプレースタイルからか応援も更に盛り上がる。

 ふと目に留まったその巨人のウェアに書かれている『白鷹』の文字。この人が俺たちの次の相手か……ってやばい、膀胱が限界だ! 急いでトイレを探さないと。

 トイレを済ませて吹野崎の待機場所へ戻ると、先輩たちがなにやら慌てて走っていく姿が見えた。先輩たちの後を追う太一を捕まえてわけを聞く。

「どうしたの? みんな焦って」

「女子がやばいらしいんだ」

 今日も女子は男子と同じ会場で試合がある。ちょうど今、男子より一足先に六回戦を戦っているらしく俺も先輩たちに着いていく。

 コートでは清水先輩がS2の試合をしているところだった。スコアボードを見るとダブルスが4―6と惜敗、S1が6―2で勝利を収め、S2は……2―5。あと1ゲーム取られたら敗退が決まる。清水先輩の頬には大量の汗が流れていて、苦しそうに呼吸をしている。でもまだ目は死んでいない。諦めずに前を見ている。

 隣では女子部員たちが必死に声援を送っている。清水先輩と同じくらい汗を流しながら。一緒に戦っているんだ。光野や石川も口を大きく開けて叫んでいる。石川なんてその小さい体を目いっぱい使って、今まで聞いたこともないくらい大きな声を出している。

 男子の応援が加わったからか、清水先輩が徐々に息を吹き返してきた。サービスゲームを最後はフォアのダウン・ザ・ラインでウィナー(ラリー中にボールを相手に触れさせずに決めるショット)を決め3―5と食い下がる。まだ分からない。

 清水先輩はリストバンドで額の汗を拭い、フーっと大きく一回深呼吸をしてからリターンに立った。みんなの期待や願いを一身に背負っている背中はいつもより大きく見えた。

 プレーでも粘り強く相手の力のあるショットを返し続ける。見るからに相手の方が背も高くパワーも強い。でも気力か、執念か、体はふらふらなのに清水先輩は恐るべき粘りを見せる。おそらく相手も恐怖を抱いているに違いない。限界に近いはずなのに倒れるどころか逆に少しでも気を抜いたらこっちが食われてしまう。そう意識させるほどの驚異的なプレーだ。でも――

 ちょうど十回目のマッチポイントを迎えた時だった。そのポイントだけは清水先輩の方が押していて、相手を左右に振り回していた。先輩の勢いに押された相手が放ったボールはネットの白帯に当たり、空中へ高く舞い上がった。全員がボールを見つめ体が固まる中、清水先輩だけは反応よく飛び出した。でも、足が絡まりラケットを放り投げるようにして転んでしまった。コードボールは無情にも転んだ先輩の目の前に落ち、コロコロと横を転がっていく。

 歓声が沸き上がる相手バック。泣き崩れる吹野崎バック。互いの健闘を称えて握手を交わすコート上の二人に大きな拍手が送られる。

 清水先輩は堂々と胸を張って帰ってきた。膝にはさっき転んだ時の砂がまだついている。ラケットを持つ手は……震えていた。コートから出た先輩を囲むように女子部員たちが駆け寄る。

「ゴメン、負けちゃっ――」

 堪えきれなかった。つくり笑顔が泣き顔でくしゃくしゃになる。右手にラケット、左手に水筒を持っていたから顔を覆うことができず、涙をぽたぽたと地面へ垂らす。そんな先輩を女子部員たちが抱き締める。

「もっと……もっとみんなと戦いたかった。テニスしたかったよぉ!」

 周りの人も、男子部員も、その光景を見ていた者は目に涙を浮かべ、しばらく時が流れた。不意に清水先輩の目がキャプテンの姿を捉え、女子の輪から一歩抜け出す。先輩はキャプテンの前に立つと右手で拳をつくって突き出した。

「あとは任せた。応援行くからね」

 がんばってつくったであろう笑顔。細くなった目からは涙が弾け飛んだ。

「おう!」

 キャプテンは力強く答えると、清水先輩が突き出した拳に同じように拳を合わせた。


 吹野崎高校女子テニス部 東京都高等学校テニス選手権大会 団体の部 ベスト16



 女子の敗退から一時間後、男子も運命の六回戦を迎えた。勝てば目標としているベスト8進出、負ければ3年生は引退だ。この試合に懸ける3年生たちの気迫がビシビシと伝わってくる。

「吹野崎ぃー! ファイトー!」

『オォーー!』

 試合前に円陣を組んで気合いを入れる。円陣には応援に駆けつけてくれた女子の姿もあった。

 行ってこい! というようにダブルス二人の背中をキャプテンが叩く。長野先輩と金子先輩は自らを鼓舞するように雄たけびを上げてコートへ入った。

 五月とは思えないほどの暑さの中、本日三試合目が始まる。普通の人ならとっくにバテている気温と試合数だけど、先輩たちに関してはなにも心配していない。先輩たちのスタミナが半端じゃないってことは俺たち後輩が一番よく知っているから。

 応援のためにフェンス際まで行くと隣には清水先輩がいた。ふと目が合うもさっきまで泣いていた先輩の姿が頭をよぎり、なんて声をかけたらいいのか分からなかった。先輩とは最初の練習――キャプテンと一緒にスイングから教えてもらった時――から話す機会も多くて、とても優しい人だからいつもはつい俺から話しかけちゃうんだけど。

「桜庭くん、さっきの私の試合見てくれた?」

 俺がもじもじしていたもんだから先輩の方から話しかけてくれた。なんか申し訳ない。

「も、もちろんです。……すげぇかっこよかったです」

「ホントに? ありがとう!」

 笑う目元にはまだ少し腫れが残っている。

「私もね、今までで一番かっこいいテニスができたと思うんだ。かっこいいっていうよりは泥臭い感じだったけどね。でも相手がホントに強くてさ、こりゃ今までで一番のプレーをしなきゃ勝てないな、って無我夢中だった。まぁ負けちゃったけどね」

 身振り手振りを交えつつ最初は楽しそうに話していたけど、「負けた」という単語を発した途端先輩の顔に悲しみが帯びたように見えた。やっぱり気にしているんだよな。なにか言葉をかけてあげたいとは思うけど、なにを言ったらいいのか分からず、口だけがパクパクする。

「ベスト8まではあと一歩だった。だから正直に言うと後悔はあるかな」

 先輩は笑みを浮かべているけど、それがつくり笑いだってことは俺にだって分かる。

「不動たちには私のように後悔だけはしてほしくないな。アイツらはもっと上へ行けるはずだから。でも最初はみんなダメダメだったんだけどね」

 昔のことを思い出しているのか、清水先輩はクスクスと笑っている。

「入部当初ね、当たり前のことだけど今の3年生たちも最後まで練習に着いていける人なんて誰もいなくて、監督によく怒られてたんだ。それでもみんなは毎日毎日必死に食らいついてた。特に不動はね。ちなみに不動は高校からテニスを始めたんだよ。桜庭くんと同じだね」

「えっ、そうなんですか!?」

「うん!」

 あのキャプテンもテニスを始めたのは高校から。これには腰を抜かすくらい驚いた。最初の練習でキャプテンが言っていた「レギュラーメンバーの中には高校から始めた人もいる」っていう言葉、あれはキャプテン自身のことだったんだ。果たして俺はキャプテンみたいに強くなれるのだろうか……

『白鷹! 白鷹!』

 急に地鳴りのように轟く応援が始まったもんだからビクッとした。さっき少しだけ白鷹の試合を見た時もその応援の凄まじさは感じたけど、いざ対戦相手として向かい合うと圧倒されてしまう。『吹野崎ファイトー!』と俺たちも声を揃えるけど、延々と続く白鷹コールと間に挟まれるリズミカルな手拍子にかき消されてしまう。でも俺たちは叫び続ける。この声はきっと先輩たちに届くと信じて。

「ザ・ベスト・オブ・1セットマッチ。吹野崎、サービスプレイ」

 吹野崎のサーブはいつものように長野先輩から始まった。ボールを数回地面についてから高々とトスを上げる。打つ瞬間に「アッ!」と声を漏らしながら素早く振られたラケットに押され、ボールはセンターを射抜く。初戦ではエースになっていたコースだ。でも今日は返される。第1シードの白鷹でレギュラーに選ばれるほどの選手だ。やはり簡単にはポイントを取らせてもらえない。それでもサーブでつくった優位な状況を更にストロークで押していき、甘くなった相手の返球を前衛の金子先輩がポーチ(後衛同士のラリーに前衛が割って入りボレーで打ち返すこと)に出て決めた。

「15―0」

 吹野崎バックから歓声が上がる。長野先輩のサーブとストロークで押していき、最後は金子先輩が決める。このペアが得意とするポイントの取り方だ。二人は渾身のガッツポーズを決め、パンッと力強いハイタッチを交わした。

「すごいな。今日も勝っちゃうかも、あの二人」

 清水先輩が言った。

「今日ですか?」

「うん。去年の私学大会であの二人は白鷹の一番ペアに見事勝利を収めたんだよ。全体では2―3で負けちゃったんだけどね。でも今日の相手ペアはその時と同じみたいだし、二人も調子よさそうだから今日も勝てるかも!」

 すぐに次のトスが上がった。それにしても長野先輩のサーブフォームは何回見ても美しいと思う。ゆったりと体を柔らかくしならせたと思ったら、そこから一気にラケットを振り抜いて鋭く速いサーブを打ちつける。相手もよく返しているけど、甘くなったところを金子先輩が見逃さずにしっかりとポイントにつなげている。

「ゲーム吹野崎。ゲームスカウント1―0」

 相手に1ポイントも与えないラブゲームキープ。最高の立ち上がりだ。二人は俺たちバックに向かってガッツポーズをしてくれた。

 俺たちの応援は確かに先輩たちへ届いている。先輩たちの背中を押しているに違いない。数の多さ、声の大きさでは劣っているかもしれないけど、それでも全力で叫ぶんだ。少しでも先輩たちの力になるために。

『白鷹! 白鷹!』

 コートチェンジを済ませ相手のサービスゲームになる。相手のサーバーも地面に数回ボールをついてからトスを上げた。すると驚いたことに、相手のサーバーはサーブを打ったと同時にそのまま前へ走ってきて長野先輩のリターンをボレーで返してきた。意表を突かれた長野先輩はかろうじてボールに触りはしたけど、打ち返したボールはネットに阻まれてしまった。

「15―0」

 決まった! とばかりに相手のペアは『よっしゃ!』と吠えてハイタッチを交わした。白鷹バックもそれに呼応するように威勢を増す。

 次のポイントも相手はサーブを打つと同時に前へ出てきては金子先輩のリターンをボレーで返した。今度は吹野崎側もなんとか相手コートへボールを返したけど、そのボールもまたボレーで打ち返され、どんどん金子先輩の体勢が崩されていく。最後は金子先輩の返球が甘くなったところを相手の片割れに決められてしまった。

「30―0」

「並行陣か」

 白鷹の応援が鳴り響く中、清水先輩とは反対隣にいたハルが呟いた。結局そのゲームは相手のペースのまま進み、サービスゲームをキープされてしまった。

「並行陣ってなに?」

 相手のサービスゲームが終わったところで俺はすかさずハルに聞いた。

「並行陣っていうのは、さっき相手にやられたように後衛も前に出てきて二人で前衛することだよ。ダブルスでは強いプレースタイルって言われているんだ。プロではよく使われる戦法だけど、高校生がやってるところは見たことなかった」

 ダブルスではペアが前衛と後衛に分かれて戦う雁行陣がんこうじんという形が一般的だ。後衛がラリーをつないでチャンスをつくり、甘くなったところを前衛がポーチに出て決めるという戦法だ。長野先輩と金子先輩もこの雁行陣を使っている。でも並行陣……こんな形もあるのか。ハルでさえ見たことないって言っていたし、俺が知るはずもないか。

 その後も相手は並行陣を使い続け、長野先輩と金子先輩を苦しめた。普通に返せばボレーでいなされるだけだから先輩たちもロブ(相手の頭上を抜くショット)を打ったりといろいろ試してはいたけど、そのことごとくを返される。二人で前に陣取り、来るボールを全てはね返す様はまるで壁そのものに見えた。打っても打っても崩れることのない鉄壁。ボールをはね返しているラケットが太陽の光を反射させて度々俺を眩しくさせた。

 素人の俺から見ても先輩たちが押されていることくらいは分かる。ゲームスカウントも2―5と、あと1ゲーム取られたら負けが決まる。

「先輩」

 ハルがおもむろに清水先輩を呼んだ。先輩はハルの方を振り向く。でもハルの視線はコートへ向いたままだ。真剣なまなざしで相手ペアを見つめている。

「さっき、長野先輩たちは去年の私学大会で相手ペアに勝ったことがあるって言ってましたよね。その時も相手は並行陣でしたか?」

「ううん、違かったと思うよ」

「やっぱりそうですか」

 予想が当たったのにハルは浮かない顔をしている。

「相手のペア、その敗戦が相当悔しかったんでしょうね。そこから長野先輩たちを研究したんだと思いますよ。そして勝つために難しいと言われる並行陣を選択して、必死で練習した。確かにダブルスは二人とも前で戦った方が強いし、相手の強力なストロークもボレーでなら抑えることができる。そうは言っても並行陣は簡単に習得できるものじゃないし、挑戦したって必ず習得できるとは限らない。でも今の相手はハッキリ言って完璧です。つけ入る隙がない。強豪が強豪のプライドを捨て、相手を研究し、勝つためにプレースタイルも変えてきた。この試合、チャレンジャーという気持ちで来ているのは相手の方かもしれませんね」

 続くゲームも俺たちの期待とは裏腹に相手のペースで進んでいった。白鷹コールもゲームが進むにつれて更に勢いを増していく。それでも俺たちは少しでも先輩たちに声を届けようと全力で叫び続けた。

「瞬」

 両チームの声援が飛び交う中、ハルが俺を呼んだ。

「この試合、よく覚えておくといいぞ。この先きっと役に立つ。俺にとってもな」

 ハルがなぜそんなことを言ったのか分からなかったけど、俺はただ「分かった」とだけ返事をした。同時にゲームセットの主審コールがコートに響き渡った。選手たちは健闘を称え合い握手を交わす。両チームとも声援を受けながらダブルスの選手たちはコートを去った。

「すまん」

 すれ違いざまに長野先輩がキャプテンに謝る。

「大丈夫だ。あとは俺たちに任せろ」

 キャプテンは長野先輩の肩を叩くとコートへ向かった。長野先輩はそのままどこかへ行ってしまい、金子先輩は俯きながら仲間の元へ歩いていく。

「さっ、応援するぞ」

 バックの3年生が金子先輩の肩に手を回して励ます。金子先輩は顔を上げて静かに頷いた。

 二試合目はキャプテンのS1だ。吹野崎バックからの声援とともにキャプテンがコートへ入る。その背中は決して大きくはないけど、「任せろ、絶対に勝ってやる」と俺たちに言ってくれているように感じる。すごい安心感だ。

 キャプテンに少し遅れて相手の選手も錆びれたフェンスの扉を開けた。さっき見た人だ。近くで見ると想像以上に大きい。フェンスの扉は190センチくらいあると思うけどそれを屈んで入ろうとしているくらいだ。その巨体から繰り出されるショットはとても速くて、俺が見た試合では相手から何本もエースやウィナーを奪っていた。そんな人とキャプテンは一体どうやって戦うのだろう。

熊谷くまがい? 熊谷じゃないか!」

 急にハルがフェンスに手をかけて大男に呼びかけた。ソイツはゆっくりとこちらへ振り返ると近寄ってきた。

「瀬尾か。久しぶりだな」

 目の前で見降ろされながら、しかも見た目通りの低い声で話しかけられたもんだから俺は少したじろいでしまった。でもハルは久しぶりに会った友達なのかとても嬉しそうにしている。

「お前白鷹に行ってたんだな。知らなかったよ」

「お前もテニス続けていたんだな。よかったよ。藤野の件は残念だったな」

「まぁね……。試合、がんばれよ」

「おう」

 そう言うと大男は踵を返してコートへ向かっていった。短い時間だったけど二人がただならぬ関係だということは分かった。

「大きい人だね。知り合いなの?」

「小学校の時から通ってたテニススクールの友達なんだ」

「そうだったんだ。俺、さっきあの人が試合してるところちょっとだけ見たんだけど、すげぇ打球速かったよ」

「瞬が驚くのも無理はないよ。確かアイツが中2の時にはもう高校生と打ち合うほどだったからな。それを見た時には俺もさすがにコイツには勝てねぇって思ったよ。堂上と肩を並べてよく全国にも行ってたしな」

 そんなに強いヤツだったのか。確かにあのガタイだしな。持っているラケットがオモチャみたいに小さく見える。ていうか熊谷と肩を並べる堂上ってホント何者? それにハルだって、同じテニススクールだったということは一緒に練習してたってことだよな。さっきも仲よさそう話していたし。時々ハルもどこか遠い存在のように感じてしまう。

「でもテニスは打球の速さで勝負するもんじゃない。見てれば分かるよ。きっとキャプテンが証明してくれる」

 ボールスピードが速い方が有利じゃないのか、とは思ったけど、ハルが自信満々に言いきるもんだからなにも言い返そうとは思わなかった。

「ザ・ベスト・オブ・1セットマッチ。白鷹、サービスプレイ」

 熊谷は主審コールが終わるやいなやすぐにトスを上げた。推定250センチの高さから繰り出される弾丸サーブはセンターを打ち抜き、キャプテンが伸ばしたラケットの先を悠々と通り過ぎて俺たちの目の前のフェンスに激突した。

「15―0」

 白鷹バックから歓声が上がる。でも熊谷はそんなことなどお構いなしにさっさと次のサーブを打った。今度はキャプテンもかろうじて返しはしたけど、次のショットでウィナーを決められてしまった。

「30―0」

 その後もサービスエースを一本と、キャプテンがかろうじて返したボールをウィナーで決められ、最初のゲームはあっさりと献上してしまった。

 もしこの試合を落としてしまったら吹野崎の敗退が決定してしまう。焦るあまり俺は周りをキョロキョロ見回すけど、先輩たちは黙ってキャプテンを見つめている。アイツなら大丈夫だ。そう言われている気がしたから俺も視線を戻した。

 でも俺の期待とは裏腹に続く第2、第3ゲームもキャプテンは熊谷に押され続け、気づけば0―3と大きく差が開いていた。熊谷の打球は速いだけでなく重さもあるのか、キャプテンの返すボールが全て浅くなってしまいそれを決められる展開が多い。

 コートチェンジになりキャプテンは一度ベンチへ戻る。キャプテンはベンチに座るとすぐに頭からタオルをかけ、そこから微動だにしなかった。俺は大丈夫かとキャプテンを見つめるも、頭からかかったタオルでその表情はよく見えない。隣に座っている監督も特に言葉をかけることはなく、キャプテンはコートチェンジの間ずっとその体勢から動かなかった。

「タイム」

 主審のコールがかかるとキャプテンは勢いよくタオルを取り、「よしっ!」と自らを鼓舞するように叫んだ。集中力が極限まで高められた目には熱く燃えたぎる闘志がみなぎっていた。と同時に劣勢なこの状況を分析している冷静さも宿っているように見えた。

 次のゲームはキャプテンのサービスゲームだ。キャプテンはいつもより多くボールをついて自分のペースをつくる。吹野崎バックも、白鷹バックも、熊谷も、いつトスが上がるのかとキャプテンの手元を凝視する。

 ポイントを決めたのか隣のコートから歓声が上がり、無音のコートに響いてくる。これまで白鷹コールにかき消され、決して聞こえてこなかった歓声だ。

 歓声が止むと同時にキャプテンがトスを上げた。「アッ!」と声を漏らしながら熊谷のバックハンドめがけてサーブを打ち込む。リターンは返ってきたけど浅い。再び熊谷のバックハンド方向へ深いアプローチショット(ネットプレーに持ち込むために敵陣の深くへ打つショット)を打ち込む。熊谷もギリギリ追いつき返してきたけど、最後は前に詰めていたキャプテンがボレーで決めた。

「15―0」

「ナイスボレー、不動!」

 キャプテンは俺たちに向かって頷くとすぐにコートへ向き直り、今度は熊谷に時間を取らせないよう素早くサーブを打った。

「自分のペースでできてる。さっきまでは完全に熊谷のペースだったけどしっかり修正してる。さすがキャプテンだ」

 ハルが感心する。ポイント間は二十秒あるけど、それを長く使うか短く使うかはプレーヤー次第だ。1ポイント目はキャプテン自身が落ち着くためにいつもより多くボールをついて時間をつくっていたけど、さっきはその逆で休んだり考える時間を熊谷に与えないよう素早くサーブを打ったんだ。

「30―0」

 でもその権利はサーバー側だけではなくレシーバー側にもある。次のポイントを早く始められないように熊谷もラケットのガットをいじって時間をつくる。

 熊谷のストロングポイントはなんといってもフォアハンドから繰り出される強烈な一撃だ。これまでの3ゲームはその一撃に苦しまされた。だからキャプテンはこのゲーム、熊谷のバックハンドにボールを上手く集めている。熊谷もバックハンドでは強打ができないのか今までのように一撃で終わることは少なくなり、ラリーになる展開が増えてきた。バックハンドのラリーではキャプテンの方が一枚上手なのかポイントを奪う回数も徐々に増えていき――

「ゲーム吹野崎。ゲームスカウント1―3」

 遂に1ゲームを奪った。吹野崎バックから歓声が上がる。

「やりましたね、清水先輩!」

「そうだね! このまま逆転だ!」

 そこからは互いにサービスゲームをキープする展開が続いた。両者一歩も譲らぬ互角の勝負。キャプテンのサーブは熊谷みたいにエースは取れないけど、その後のラリーではスライスやスピードを落としたスピンボールも時折混ぜながら、熊谷の得意なリズムで打たせないようにしている。熊谷のサーブに対してもその速さに慣れてきたのか返す回数も増えてきた。サーブの後に来る強力なフォアハンドにも、走って、返して、走って、返して、簡単には決めさせない。俺は以前に遠坂先輩がキャプテンのことを「執念の鬼」と言っていたことを思い出していた。

『キャプテンと試合すると、どんなにいいショットを打っても追いつかれて返されるんだ。フットワークが軽いっていうのもあるけど、それだけじゃない。一球一球に対するあの人の執念が体を動かしているんだ。あの人は執念の鬼だよ』

 まるで遠坂先輩が言っていた通りの試合展開だ。中々ショットが決まらない展開に熊谷も苛立ちを覚えたのか、強引に決めにいこうとしてアウトやネットのミスが出始めている。でも残念ながらまだ熊谷のサービスゲームをブレークするには至ってない。そしてゲームスカウントは3―5を迎えた。

「問題は次のゲームだな」

 また真剣なまなざしを浮かべてハルが言った。普段はだらしなさが目立つハルだけど、テニスのこととなると途端に真剣な表情に変わる。それだけテニスに対しては真面目ということなんだろうけど、いつもとのギャップに俺は驚かされている。

『白鷹! 白鷹!』

 次のゲームは熊谷のサービスゲーム。つまりここをブレークしなければ負けが決まる。今が互角の展開なだけに、第2ゲームでキャプテンのサービスゲームをブレークされたことがここへ来て大きく響いている。

「テニスっていうのはどうしてもサーバー側が有利なようにできているスポーツなんだ。でも不思議なことに、どこかでブレークしないと試合には勝てないようにもできている。しかも先に相手にブレークを許したらその倍のブレークを奪わなくちゃいけない。たとえ相手が熊谷のようなビッグサーバーでも」

 あんな桁違いに速くて強力なサーブ、一体どうすればブレークできるんだ。勝利を目前に盛り上がる白鷹バックとは反対に、吹野崎バックに不安が立ち込める。

「大丈夫だよ!」

 重い空気を吹き飛ばすかのような明るい声が聞こえた。清水先輩だった。

「だって試合してるのはあの不動だもん!」

「そうだよ! アイツならやってくれる! なぁ?」

「そうだそうだ!」

「アイツなら大丈夫だ!」

 清水先輩の言葉で先輩たちも元気を取り戻した。劣勢な状況に変わりはないけど、キャプテンへの信頼がバック中に伝染していってなぜだか少し盛り上がった。奥の方からも「心配すんなぁ! 後輩のお前らはただ見ていればいいんだぁ!」と叫ぶ声が聞こえてきて、どっと笑い声が溢れた。

「そうだ。アイツなら絶対大丈夫だ」

 戻ってきた長野先輩が俺とハルの間に入って肩を組んできた。見ると目の周りが赤く、少し腫れている。

「こんな状況、アイツは何度もひっくり返してきたんだ。俺たちもそれを知っている。だからお前たちは安心して見ていればいい」

 そうか。三年間一緒にテニスをしてきて、苦楽をともにしてきて、この人たちは本当にキャプテンのことを信頼しているんだ。それくらいキャプテンの強さを知っていて、負けているこの状況でも逆転を信じて見守っているんだ。

 キャプテンがリターンの位置につき、熊谷のサーブを待ち構える。ここは熊谷も時間を取る。アイツもここがターニングポイントになると踏んでいるんだろう。このゲームを取れば勝ちとはいえ、ここでブレークを許したら一気に試合の流れが変わる可能性もある。そうはさせないと熊谷はキャプテンを睨む。

 ファーストサーブはセンターに来た。スピードは衰えちゃいない。でもキャプテンはコースを読んでいたのか素早くセンターへ飛び込むと、バックハンドでスパン! と高速サーブを打ち返した。サーブスピードが速い分、それを打ち返した時のボールスピードも自然と速くなる。キャプテンが放ったリターンに熊谷は一歩も動けず、ボールは熊谷の1メートル横を通り過ぎていった。

「0―15」

 リターンエース。吹野崎バックは一気に盛り上がり、白鷹バックは静まり返る。これまでの試合ではこんなに鮮やかなリターンエースを決められたことがなかったのだろう。白鷹バックは驚きを隠せないでいる。

 でも周りが思っている以上にコート上の二人の勢力図は大きく変わっていた。明らかに熊谷は動揺し出し、ファーストサーブの確率が一気に落ち始めた。おそらくさっきのリターンエースが頭にあるせいで、更に際どいコースを狙わなければ、という思考に陥っているんだろう。際どいコースを狙えばそれだけフォルトになる確率も上がる。ファーストサーブがフォルトになれば次のセカンドサーブを入れにくるのは必然だ。スピンをかけて入れにくるセカンドサーブはキャプテンにとってさほど脅威ではなく、落ち着いて熊谷のバック側に返すとそのままバックハンドのラリーに持ち込んでポイントを重ねていく。

「15―30」

 流れが大きくキャプテンに傾き始め、それを表すかのように両チームの応援の勢いも逆転する。もはや白鷹コールは聞こえない。心なしかキャプテンから溢れ出る気迫がいつも以上にキャプテンの体を大きく見せ、対照的に熊谷が小さくなったように見える。

「30―40」

 熊谷も意地を見せる。しかし一度傾いた流れを引き戻すのは熊谷でも難しく、遂にこの試合初のブレークポイントが巡ってきた。大きな大きなポイントだ。

 キャプテンのプレッシャーに気圧されたのか、次に熊谷が放ったサーブは二本ともネットにかかり、キャプテンのコートへ落ちることはなかった。

「ダブルフォルト。ゲーム吹野崎。ゲームスカウント4―5」

 バチンッ!

 吹野崎バックが歓声に沸く中で、なにかが勢いよく破裂したようなけたたましい音がコートに響いた。驚いて静まり返る両チーム。吹野崎バックでは「なんの音だ?」と辺りを見回す者もいるけど、俺は全部を見ていたからなにが起きたのかは分かっていた。

 セカンドサーブをネットにかけた直後のことだった。熊谷が自分のラケットを地面に叩きつけたのだ。コートに転がったラケットは見るも無残に折れ曲がってしまっている。でも当の本人は周囲の様子などまるで気にすることもなく、折れ曲がったラケットを拾ってスタスタとベンチへ戻っていく。

「アイツの短気さ、相変わらずだな」

 自分のラケットを投げるなんて、とびっくりしている人が多い中、ハルだけはやれやれというように両手の手のひらを天に向けて呆れたように笑った。

「昔からああだったの?」

「そう、あんな感じ。ほらアイツ、歳のわりに打球速いし豪快なプレーするだろ。大概の相手には力押しで勝っちゃうんだけど、キャプテンみたいに『決まった!』と思った球を拾われて何回もつなげてくる相手には弱いんだ。ラリーも長くなってくると無理に決めにいこうとするし。それが決まる時はいいんだけど、普通はアウトとかネットとかすることの方が多い。まぁそこまでアイツと張り合える相手はそういないんだけどね。スクールのコーチにもよく言われてたよ。『その短期な性格を直せ』って。でも性格って中々変えられないんだけどね」

 フッとハルが鼻で笑った。

「もったいないよな。あんなに強いのに自分で自分を苦しめてる」

 なるほど。意外にも熊谷の弱点は自らの性格にあったわけだ。メンタルスポーツって言われるテニスにおいて性格がプレーに及ぼす影響は大きい。確かに思い返してみれば、試合開始の時も熊谷は待ちきれないとばかりに主審コールの直後にサーブを打っていたし、キャプテンとの長いラリーを嫌って無理に決めにいくシーンもあった。もしかしてキャプテンはそれを見てわざと長期戦に持ち込んで熊谷の苛立ちを誘った? ……さすがにそれは考えすぎか。

「だから言ったろ。テニスは打球の速さで勝負するもんじゃないって」

 ハルはニコッと笑った。

 サッカーと違ってテニスは試合の途中で選手の交替ができない。当たり前だけど、最初から最後まで自分一人の力で戦い抜く必要がある。だからたとえ試合中に壁にぶち当たったとしても、それは自分の力で乗り越えていかなければならないんだ。肉体的にも精神的にも本当にタフなスポーツだ。

 4―5になってからもキャプテンの動きは変わらず、逆に熊谷は疲れてきたのか序盤ほどのキレはなくなっていた。結果、熊谷からもう1ブレークを奪い、ゲームスカウント7―5の大逆転勝利を収めた。完全にキャプテンの走り勝ちだった。「お前より二年も多くきつい練習に耐えてきたんだ。負けるはずがない」。そう背中が語っていた。

「キャプテンはなんていうか、こう……勝負強いな。俺、正直キャプテンと熊谷は熊谷の方が強いって思ってたけど、その考えはあっさりと打ち破られたよ。それほどまでに今日のキャプテンは強かった。〝上手い〟じゃなくて〝強い〟」

 対戦者同士握手を交わし、俺たちの方へ帰ってくるキャプテン。

「お疲れ!」

「さすが不動!」

 祝福の声が投げかけられ、拍手で迎えられる。

「みんな応援ありがとう」

 手を挙げて答えるキャプテンはまだまだ動けそうに見えた。バケモノか、鉄人か。

「お疲れ」

 長野先輩が差し出した拳にキャプテンも拳で応える。

『キャプテン、お疲れ様です!』

「応援ありがとな」

 後輩にも優しく答えてくれるところはホントにかっこいい。

「どうだったよ?」

 まだベンチで監督と話している――おそらく怒られている――熊谷を見ながら長野先輩が聞いた。

「いやぁ、強かったよ。最初は本当に負けるかと思ったね。でも相手がまだ子供でよかったよ。子供だましでなんとか勝てた」

 キャプテンは笑顔で答える。キャプテンでも「負けるかも」って思うことはあるんだ。どんな相手にも勝ちそうなのに。実際まだ負けたところは見てないし。

「冷静にそんなこと言えるなんてまだまだ余裕そうじゃねぇか、このヤロウ」

 長野先輩がキャプテンの肩に手を回した。

「そんなことないよ」

「いいや、お前が本当にきつい時は試合終わった後に一言も話さない時だからな」

「確かにそうだな」

 キャプテンは笑うと、俺とハルを交互に見てきた。

「でもアイツはきっとこれから強くなる。最大のライバルになってお前たちの前に立ちはだかるかもな」

 ハルは分かるけど、俺も? 俺もそこまで行けるだろうか。強くなれるだろうか。

「たとえアイツが俺たちの壁になろうとも、必ず勝ちますよ! なぁ?」

「は、はい!」

 ハルが俺の顔を見て言うもんだからつられて返事をしてしまった。

「頼もしいな」

 先輩二人はコートの方へ視線を戻した。コートではS2、遠坂先輩の試合が始まろうとしていた。

「もしこれで負けたら俺のせいだ。その時は俺を恨んでくれ」

 長野先輩が小さく呟いた。

「バカ言うな。誰のせいとか、そんなもんねぇよ。チームなんだから。くよくよしてる暇があったら声出すぞ」

 今度はキャプテンが長野先輩の肩に手を回した。

「おう」

 長野先輩は頷き、俺たちは応援へと戻った。



「ほら、もう泣くな遠坂」

 試合が終わってからも長い間号泣している遠坂先輩をキャプテンが慰める。スコアボードの6―7という結果が激戦を物語っていた。

「お前は本当によくやったよ。どっちが勝ったっておかしくない試合だった」

 一勝一敗で迎えた運命の三試合目。「絶対に俺が勝って吹野崎を勝たせるんだ!」と気合いの入った遠坂先輩は、その言葉通り気迫のこもったプレーで白鷹の主将と互角に渡り合った。サービスゲームをブレークされたら次のゲームですぐさまブレークバックし、エースを決められたらドロップショットを決め返し、試合は両者一歩も引かぬままタイブレークへと突入した。

 タイブレークに入っても互いの気迫は衰えなかった。そんな中最初にマッチポイントを握ったのは遠坂先輩だった。でも先にマッチポイントを握って安心してしまったのか、続くサーブをダブルフォルトしてしまった。

 ……やってしまった。

 動揺を隠しきれなかった。最後の最後、極限まで張りつめられた緊張の糸が切れるのは一瞬のことだった。「遠坂ぁ! 切り替えろぉ!」とキャプテンが叫んだ声は先輩の耳には入らなかった。

 それでも同期の金子先輩曰く、遠坂先輩は今までの試合で一番いい試合をしていたという。

「俺があそこでぇ……ダブルフォルトしなければぁ……。ひくっ。俺のせいで先輩たちの大会がぁ……」

 負けた時点で3年生は引退を迎えることになる。まだ季節は夏が始まる前の五月。他の部活に比べると少々早いのかもしれない。

「顔を上げてくれ、遠坂。俺だって負けたんだから。お前だけのせいじゃない。お前が泣くことはないんだよ」

 長野先輩は目に涙を浮かべながら遠坂先輩の横にしゃがんで肩に手をかけた。

「そうだ。さっきも言ったが俺たちはチームで戦ったんだ。決してお前一人の責任じゃない。だから顔を上げろ、遠坂」

 キャプテン……。人一倍悔しいはずなのに、涙一つ見せずに後輩たちの面倒を最後まで見てくれている。

「きゃぷてぇん……」

 遠坂先輩はくしゃくしゃになった顔をやっと上げた。その目からは大粒の涙が絶え間なくこぼれ落ちていた。

「悔しいか、遠坂?」

「悔しいです……めっちゃ悔しいです!」

「それなら大丈夫だ。お前はもっと強くなれる。今のその気持ち、決して忘れるなよ」

「はい!」

「それから……俺たちのために泣いてくれて、ありがとう」

「きゃぷてん……」

 つくり笑顔だって分かってはいるけど、それを感じさせないくらい満面の笑みをキャプテンは見せてくれた。なんだか心が絞めつけられる。

「後輩にそんな大声で泣かれたら先輩の俺たちは泣けねぇっつーの」

 両目の涙を払いながら長野先輩が言った。

「泣いてるヤツがよく言うよ」

「うるせぇ」

 長野先輩は肘でキャプテンを小突いた。

 少し離れたところで三人の様子を見ていた金子先輩が遠坂先輩の元に来て手を差し出した。

「これからは俺たちがこのチームを強くしていこう」

「あぁ」

 遠坂先輩は金子先輩の手を取り立ち上がった。そこへ審判と相手チームにあいさつを終えた小田原監督が戻ってきた。1、2年生には片づけの指示を出し、「3年生はこっちへ来てくれ」と先輩たちとともにどこかへ行ってしまった。女子が敗退した時もそうだったけど、最後の大会で負けた直後、監督は3年生たちを呼んでどこかへ連れていく。監督からの〝最後の言葉〟を送るためだ。毎年の恒例らしく、先輩たちの顔も引き締まる。

 俺たちはというと、片づけをするといっても特にやることはなく、かといって他校の構内でうるさくするわけにもいかないからおとなしく待っている。ただこんな時にも尿意が……。今日はトイレが近い。しかもここからだとトイレ遠いんだよな。でも仕方ないから歩いて向かう。

「ハー、スッキリした。……ってあれ? そういえばここまでどうやって来たんだっけ?」

 間に合ったことはよかったものの、広大な白鷹の敷地で来た道を忘れてしまった。さっきも同じトイレに来たはずだけど……って、なんか景色が違う。もしかして別の方に来ちゃったのかも。この学校でかすぎる。

 白鷹高校は中学と一貫になっているだけあって、敷地面積が東京ドームくらいあるんじゃないかと思うほど広い。校舎もうちとは全然違ってガラス張りのビルが何棟も点在している。とても高校にいるようには思えない。正直どの建物も同じように見えるから、歩いていても堂々巡りしている錯覚に陥る。……錯覚だよな?

 ガラス張りの校舎が傾いた太陽を反射させる。空の色も徐々に茜色へと変わっていく。

 とにかく早く戻ろうと思い広い構内を縦横無尽に駆け回る。次第に見覚えのある景色に変わってきて一安心するも、ハッとすぐさま建物の陰に隠れた。監督と3年生たちがいるところに偶然出くわしてしまったのだ。いくらか距離があった分、こっちには気づかれていないみたい。ふぅ、と一息つく。

 ……分かっている。わざわざ監督が3年生だけを連れ出しているんだ。見ない方がいいのは分かっている。でも……

 建物の陰からこっそりと様子を伺う。3年生はいつもみたいに監督の前で整列していて、監督に一人ずつ呼ばれては前に出ている。監督は一人ひとりに言葉をかけていき、言葉をかけられた先輩はみんな涙を流す。最後に監督と固い握手を交わして別の先輩と交代する。

 一人、また一人と、監督からの最後の言葉を受け取っていく。長野先輩は監督の前で号泣し顔を上げられずにいたけど、監督から語りかけられたことにはしきりに頷いていた。

 そして最後、キャプテンの番が回ってきた。キャプテンは他の先輩たちとは違ってすごく落ち着いていて、監督に語りかけられたことに笑顔で答えている。でも次の瞬間、その頬に一筋の涙が伝うのを俺は見た。キャプテンの口元は徐々に固く真一文字に結ばれていき、呼吸につれて肩も上下する。そして監督が肩に手をかけた瞬間、キャプテンの目からは大量の涙がこぼれ落ちた。それは今までキャプテンとしてチームを引っ張ってきて、つらかった時も、苦しかった時も、試合に負けて悔しかった時も、決して流すことのなかった涙だった。そんなキャプテンの姿を見て監督も言葉に熱が入る。キャプテンは口を固く結んではいるものの、一度出た涙は止まらなかった。止めることなんてできなかった。今まで自身の中に溜め込んできた全ての感情が一気に解き放たれる。キャプテンの責務を全うした者だけが流すことの許される涙だった。三年間一緒にがんばってきた同期に見守られながら、この空間だからこそ流すことのできる涙だった。キャプテンの涙する姿を見て、後ろの3年生たちも一緒になって涙を流している。

 俺は静かにその場を離れた。

 キャプテンの涙を初めて見た。キャプテンは泣かない人だと思っていた。とても強い人だと。

 白鷹戦の敗北が決まった瞬間、誰もが泣き崩れる中でただ一人、キャプテンだけは部員全員に労いの言葉をかけていた。遠坂先輩が立ち上がれないほど号泣していた時も近寄って優しい言葉をかけていた。どんなにつらい状況でもキャプテンだけは涙を流さずにチームを支えていた。

 でも違った。キャプテンだって本当は悔しかったんだ。あの時だって泣きたかったんだ。悔しい気持ちをみんなと分かち合いながら涙を流したかったんだ。それを必死になって堪えていただけだったんだ。

 下を向いて歩いていたらいつの間にか待機場所へと戻っていた。

「瞬、どこ行ってたんだよ」

 太一に声をかけられるも胸がいっぱいで返事なんてできなかった。俺が冴えない反応を見せたからかハルも近寄ってきた。

「どうした?」

 なんて答えればいいのか分からなかった。分からなかったけど俺の心の中は静かに、熱く、燃えていた。

「俺、がんばるよ。キャプテンたちみたいに強くなれるかは分からないけど、がんばる」

「……うん。がんばろう」

 なんの脈絡もなく唐突に発した言葉だったけど、ハルはなにも聞かずに頷いてくれた。

 数分後、話を終えた監督と3年生が戻ってきた。3年生はみんな目の周りを赤くしていたけど、どこか清々しい顔をしている。

「集合!」

 キャプテンの声とともに素早く整列する。でも3年生は俺たちの前にではなく、監督の両脇に並び俺たちの方を向いていた。3年生とはもう同じ方向を向いて並ぶことはできないんだ。そう思うと心の底から悲しくなる。偉大な背中を失って新チームの人数は人数以上に少なく見えた。

「俺たち3年は今日をもって引退する」

 後輩全員の顔を見渡し、おもむろにキャプテンが話し始めた。キャプテンとしての最後の言葉だ。俺たち後輩はそれを分かっているから真剣なまなざしでキャプテンを見つめ、キャプテンが発する一言一言を噛み締めながら胸へ刻んでいく。

 3年生が引退するなんて。頭では分かっていても気持ちが追い着かない。これからも3年生はテニス部にいて、これまで通り優しく教えてくれて、準備や片づけをしている俺たち1年にも「ありがとう」と微笑んでくれる。俺にはそう思えてならなかった。

「――金子。明日からはお前がキャプテンだ。男子テニス部を頼んだぞ」

「はいっ! ……来年こそは、必ず先輩たちの悲願を達成させてみせます!」

 金子先輩は涙を流しながらも力強く答えた。キャプテンは満足そうに頷いた。金子先輩の言葉は新チーム全員の胸を奮わせ、引退していく3年生たちにも負けないチームをつくってやると、全員がそう思った。

 沈みかける夕日に照らされながら、夏の始まりを告げるように青葉が空高く舞っていく。


 吹野崎高校男子テニス部 東京都高等学校テニス選手権大会 団体の部 ベスト16

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る