2.初練習

 翌朝は電池を替えた目覚まし時計がしっかりと鳴ってくれて、寝坊せずに家を出ることができた。校門では担任の本田先生が登校してくる生徒たちを元気よく迎えていた。

「おはようございます!」

「おはよう桜庭。今日は遅刻しなかったな」

「さすがに二日連続はしないですよ」

 先生の横を通り過ぎて下駄箱へ向かう。

 ハルはちゃんと起きれたかな。今日も遅刻して担任のおばちゃん先生に怒られている姿が容易に想像できるけど。

「なに一人で笑ってんのよ」

 靴を履き替えていたら横から話しかけられた。

「光野か。おはよう。石川も」

 昨日同様、石川は光野の後ろに隠れるようにして立っている。体が小さいから最初は気づかなかった。

「おはよう」

 と光野。

「……おはよう」

 石川も小声だけど返してくれた。

「今日は遅刻しなかったわね」

「当たり前だろ。本田先生と同じこと言うなよ」

 靴を履き替えて下駄箱の扉を閉める。

 1年生の教室は三階だ。靴を履き替えた二人と一緒に階段を上がる。

「昨日はあの後テニス部の練習見たの?」

「ううん、俺たちもすぐに帰ったよ。ていうか見るの忘れてた。腹減りすぎて飯のことで頭がいっぱいだったから」

「そう。隣にいた……瀬尾くんだっけ? 仲いいように見えたけど同じ中学なの?」

「いや、昨日が初対面」

「へぇ。他のクラスの子ともう仲よくなるなんて、早いわね」

「まぁ、いろいろあってね」

 相変わらず石川は光野の斜め後ろを着いてくる。人見知りも大変だな。

 三階に着いた。A組は階段を上がってすぐの教室だけど、D組は一番奥の教室だから石川とはここで別れることになる。

「じゃあね優里。また後で」

「うん」

「またね、石川」

 軽く会釈される。俺には返事をしてくれないのかと少しがっかりした。廊下をトボトボ歩いていく小さな背中を見ていると親心のように心配になる。

「アイツ大丈夫か?」

「あの子は大丈夫よ。さっ、私たちも教室へ入りましょ」

 意外とあっさりした回答だな。俺から見れば友達つくれるか心配になるくらいだけど、同じ中学の光野からしたらそんなに心配することでもないのか。

 A組の教室のドアをガラガラと開ける。高橋と堤が既に来ていた。

「おーう、瞬。おはよう」

「おはよう」

 机の脇にカバンをかけて席に座る。

「昨日悪かったな。野球部ずっと見ちゃって」

「いいよいいよ。でもすげぇ見てたよね」

「みんな上手くてさ。びっくりしたよ」

「俺もゴメンな。急にバド部のところ行っちゃって。でも予想通りいい部活だったよ」

 いい部活って、きっと緩かったってことだろうな。

「瞬はどうだったんだよ? 入りたい部活はあったのか?」

「俺はテニス部にするよ」

「へぇ、テニス部か。いいじゃん。お互いがんばろうぜ」

「うん。これでみんな部活決まったし、一件落着だね」

 すると二人がいきなり顔を近づけてきて、周囲に聞こえないくらい小さな声で話し出した。

「そんなことより瞬。さっき光野さんと一緒に来てたけど知り合いなのか?」

「いや、そんなこと――」

『シー!』

 もっと静かに話せと二人からジェスチャーを受ける。

「知り合いっていうか、昨日テニス部の見学へ行った時に少し話しただけで、今朝もたまたま下駄箱で会ったから教室まで一緒に来ただけだけど」

「マジかよ! いいなー!」

 堤が急に大声を出したもんだから三人の輪が一気に大きくなった。また頭を寄せ合い小声に戻る。

「ゴメンゴメン。でも同じ部活とかそれだけで羨ましいよ」

「そうだぞ瞬。あのきれいな長い髪に、目も大きくて、スタイルもいい。このクラスじゃ光野さんがナンバーワンだよ」

 どの女子がかわいいとか、もうそんなの始まってんのか。俺はまだ全員の顔すら覚えてないっていうのに。でもまぁ、確かに光野はかわいいか。かわいいていうよりはどっちかっていうと美人系か? ……って、なにを分析しているんだ、俺は。

「見た感じSっ気ありそうだよな。気の強いお嬢様っていうか」

「まぁ、昨日と今日話しただけでも上から目線なところは少しあったかな。……少しだよ、少し」

「おい! マジかよ!」

 堤がまた大声を発して三人の輪が広がる。

「ゴメンゴメン。でも光野さんSなのかぁ。Mの俺にはたまんねぇな。無慈悲な言葉で罵倒とかされたいぜ」

 エヘッ、エヘヘヘヘ、と堤は気持ち悪い声で笑った。出会ってまだ二日目だというのに軽い性癖を暴露されて――聞いてもいないのに――引きつった顔の高橋と顔を見合わせる。多分俺も引きつってるな。

 キーンコーンカーンコーン。

 チャイムが鳴りみんなが席に座る中、教室横の廊下を、ダダダダダッ、という足音とともに誰かが駆け抜けていった。速くてよく見えなかったけど、あれ絶対ハルだな。俺の直感がそう言った。



 入学してから一週間が経った。今日も授業が終わり――授業といってもまだオリエンテーションばかりだけど――早速体操着に着替えてコートへ向かう。

 今日の昼休みに全部活の先輩たちが1年の各教室の回って部活の紹介をしてくれた。その時に俺はテニス部のキャプテンから入部届をもらった。放課後に初練習をやるとのことで、早速入部届にクラスと名前を記入して持ってきた。

 スー、ハー。コートを一周取り囲むフェンスの前で一度立ち止まって深呼吸をする。今日ここから俺のテニス人生が始まるんだ。どんな三年間になるのか楽しみだな。高まる興奮を抑えるためにもう一度深呼吸をする。

「もしかして入部希望の子かな?」

「は、はい!」

 フェンスの扉が開き、さっき入部届をくれたキャプテンに声をかけられた。慌てて返事をしたもんだからつい声が裏返ってしまった。

「よく来てくれたね。さぁ、入って入って」

 キャプテンに促されるまま俺はフェンスの中へと入った。中は思ったよりも広々としていて、入り口の扉を入ってすぐとその左右に一面ずつ、計三面のコートが並んでいた。

 テニスコートには初めて足を踏み入れたけど、地面――確かサーフェス(コート表面の材質のこと)っていうんだよな――は人工芝で、砂が撒かれている。これがオムニコートってやつか。昨日ネットで少し調べたから予習はできている。テレビで何度かテニスの試合を見た時はサーフェスが全てハードコート(アスファルトに近いコート)だったから、人工芝のコートもあると知ってびっくりした。でも日本じゃこのオムニコートが主流みたい。他にも土でできたクレーコートや、ウィンブルドンで有名な天然芝のコートがある。

「もう少ししたら部の紹介と練習を始めるからね。それまで少し待っててもらえるかな」

「分かりました」

 先輩たちはもちろんのこと、1年生らしき人たちも既に結構集まっていて、その中には光野と石川の姿もあった。光野が俺に気づいてこっちに手を振っている。ハルの姿はまだない。

 二人の近くへ行くと、石川が隣の女子となにやら楽しそうに話していた。この前見せていた奥手な様子からはまるで想像もつかない。

「同じクラスの友達だって。テニス部に入りたいって言うから優里が連れてきたの」

「へぇ」

 石川が連れてきただなんて驚いた。

「だから言ったでしょ。大丈夫だって」

 自信げに言われて頷くしかなかった。

 そこへ慌てた様子でハルがコートに入ってきた。

「ハル!」

「瞬! 来てくれるって信じてたぜ。一緒にがんばろうな!」

「うん! そういえばハル、今日も遅刻してたでしょ?」

「あっ、バレてた? これで三回目。今日もおばちゃん先生に怒られちまったぜ」

 ハルは罪悪感の欠片も感じていないような屈託のない笑顔を見せる。光野は呆れたという表情を浮かべ、さすがの俺も苦笑い。

「あれっ? あそこにいるの堂上どうがみじゃん! マジかよ」

 目をまん丸にして驚いたというようにハルが1年の一人を指差して言った。

「なに? 知り合いなの?」

「知り合いっていうか、俺が一方的に知ってるだけなんだけどね。でも東京の中学でテニスしてたヤツなら堂上を知らないヤツはいないと思うぜ」

「そんなに有名人なの?」

「超がつくほどの有名人だよ!」

 ハルは興奮が収まらないのか、「すげぇすげぇ」と俺の肩を叩いてきた。

「東京は激戦区だから上位に行くのはそれだけですごいことなんだけど、アイツは中1の時からずっとその上位をキープし続けていたんだ。確か3年の時は個人戦で全中ベスト4まで行ってたと思うぜ。あっ、全中っていうのは全国中学校テニス選手権大会のことね。つまり全国大会」

 全国で4位? それってめちゃくちゃ強いってことじゃん!

「堂上の他にも山之辺やまのべや川口みたいな中堅層もいるのか。うん、これはいい学年になるかもな」

 ハルはなぜか満足そうに頷いた。

 そこへキャプテンともう一人女子の先輩がやってきた。

「1年生集合! これからテニス部の紹介を始めます。2、3年生は俺たちの後ろに整列!」

 コートのいたるところにいた先輩たちが瞬時にキャプテンの後ろに列を成す。それを見て俺たち1年も素早くキャプテンの前に集合し整列する。

「新入生の皆さん。まずは皆さんの入部を部員一同心より歓迎します。私は男子テニス部キャプテンの不動です」

「女子テニス部キャプテンの清水です。よろしくお願いします」

 不動先輩と清水先輩に倣って後ろで整列している先輩たちも頭を下げ、俺たちも下げる。

「この後君たちには早速練習に入ってもらうけど、まずはテニス部の紹介をします。昼休みにも軽く紹介はしたけど、時間が短かったからここで詳しくね」

 早速練習は嬉しいけど、俺ラケットの振り方からして分かんないし、ましてやラケットも持ってない……

「あっ、初心者の子たちに関しては別でしっかり教えるから心配しないで。ラケットも貸すから大丈夫」

 よかった。安堵のため息をつく。

「ではまず男子テニス部の説明からしていきます。現在の人数は2、3年合わせて十五名。練習日は月曜日だけ女子と合同で、そこからは火木と一日置きに女子と交互でやっています。土日も午前と午後に分けて女子と交互に練習しています。女子と交互に練習をしているのはなるべくみんながたくさんコートを使えるようにしたいからです。日曜日には練習試合や大会が入ることもあり、試合が入ったら月曜日はオフにしています」

 なるほど。じゃあ練習は通常週に五日間あるってことか。ほぼ毎日練習だけど中学の時もそうだったから別に驚きはしない。むしろやる気が沸々と込み上げてくる。

「もうすぐ都大会が始まりますが、私たちは団体戦でベスト8を目標としています。最近は成績もよく、昨年の都大会はベスト16、私学大会もベスト16で、次こそはベスト8に入るぞと部員全員で意気込んでいます。決して不可能な目標ではないと思っていますし、君たちにも同じ目標を持って練習に取り組んでほしいです」

 最近力をつけてきているチームなのか。そりゃ強いヤツらが集まるわけだ。それにキャプテンの顔には目標を達成できるという強い自信と闘志がみなぎっている。それはキャプテンだけじゃなくて、後ろにいる先輩たちからもビシビシと伝わってくる。

「それから、これは蛇足ですが、今のレギュラーメンバーの中には高校からテニスを始めた者もいます。この三年間で自分がどれくらい上手くなれるのか、強くなれるのかは全て自分次第です。だからがんばって! 男子の紹介はこれで終わります。続いて女子――」

 へぇ、と感心していたらキャプテンとガッチリ目が合ってしまった。キャプテンは俺を見て、ほんの少しだけど口角を上げて笑った。もしかして今の言葉は俺にエールを送ってくれている? ……いやいや、それはないか。

「以上で女子の紹介も終わります」

「よし。男子も女子も紹介が終わったわけだけど、あとは……あっ、来た来た」

『こんちはー!!』

 先輩たちが一斉に扉の方へ向かって声を張り上げたもんだから1年はみんなビクッとした。先輩たちの視線の先を追うと、上下黒ジャージ姿で見るからに怖そうな見た目をした背の高い――身長は本田先生と同じくらいだけど肩幅や他の部位は一回り大きい気がする――男の人がいた。その人が入ってきた途端コート上には一気に緊張感が走り、先輩たちの表情がグッと引き締まるのを感じた。もちろん俺たち1年も自然と表情が引き締まる。

「小田原監督だよ」

 後ろに並んでいたハルがコソッと俺に言った。あれが監督か。正直すげぇ怖そうだ。ゴクリと唾を飲み込む。

「見た目も怖いけど中身もすげぇ怖いんだって」

 だろうね! 言葉には出さなかったけど心の中で叫んでしまった。

 監督は先輩たちの間を通って俺たちの方へと歩いてくる。一歩……一歩……。近づいてくるにつれてその体がますます大きくなっていくのを感じる。単に距離が近くなっているからということもあるけど、監督からにじみ出る威圧感と鋭い眼光がその体をより大きく見せている。俺は一目合っただけで恐怖のあまり体が固まり、指一本すら動かすこともできなかった。熊と遭遇して動けなくなる兎の気分だ。

「部の紹介まで終わりました」

 キャプテンが伝えると監督は頷き、俺たちの前に立った。

「監督の小田原だ」

 腹の奥底まで響いてくる低い声。悪さをしたわけじゃないけど思わず背筋が伸びてしまう。

 監督は腕を組み、仁王立ちのままで続ける。

「ここにいる諸君は今から我がテニス部の部員となるわけだが、皆には入部する前に一つ、私と約束してもらいたいことがある。それは目標を持つことだ。目先のことでも三年間一貫するものでもいい。常に目標を持って毎回の練習に臨んでもらいたい」

 目標か。確かに大事なことだ。これを持っているかいないかで練習に対する意気込みや成長速度に大きな差が出る。でも今の俺は正直……

「そこで今から順に、自己紹介を兼ねて現在の目標を私に宣言してほしい。では一番左前の者から」

 左前……って俺か! やばい、どうしよう。正直なにも考えてなかった。でも監督こっち見てるし、早くなにかしゃべらないと。

「どうした?」

 威圧感のある低い声と鬼のような鋭い眼光が飛んでくる。恐怖で腰が抜けそうになるもなんとか堪える。

「えっと、名前は桜庭瞬といいます。目標は……自分はテニス未経験者ですが、これまでサッカーで鍛えてきた体力と根性を武器に、誰よりも多くボールに食らいついていきたいと思います。それから――」

 しまった! これは別に言おうと思っていなかったことだけど口が勝手に……

「それからなんだ?」

 監督から問い詰められる。――ええい! 一度口に出してしまったものは仕方ない。やけクソでもいいから言ってやる!

「……それから、一日でも早く上手くなって、レギュラーメンバーに選ばれる選手になります!」

 言った途端、先輩や1年たちの視線が俺に集まってくるのを感じた。でも俺はここで目を逸らしたらいけない気がしたから監督の目をずっと見続けた。監督は表情を一切変えなかったけど一度頷き、「次」と隣の光野に視線を移した。

 ふー。なんとか乗りきった。監督の目、超怖かったぁ。あの人にあんな見られたら硬直して体が石にでもなりそうだ。顔には出さないけど一気に体の力が抜けていく。

 監督の隣にいるキャプテンがこっそりと俺にグッドのサインを送ってくれた。完全にさっきキャプテンから言われた言葉に踊らされた気がする。

 その後も順々に監督への自己紹介兼目標の宣言が進んでいく。隣の光野は淡々と答えていてさすがだなと思ったけど、三人目ともなればある程度スラスラと自分の目標を話していく。そりゃ考える時間があったからな。俺だってそのくらいの順番だったら饒舌に話せていたのに。

 途中、石川の番では緊張で震えた小さな声が聞こえてきたもんだから心配になった。あんな見た目が怖い人に凝視されたら無理もない。最後は泣いているんじゃないかと思うような声で話していたけど、ここからじゃ見えなかった。とりあえず石川の番が終わって一安心する。

 これは「常に目標を持っているか」っていう監督からの問いかけなんだろうな。俺も宣言したからにはレギュラーメンバー入りを目指すぞ。でもテニスのレギュラーって何人なんだ?

「次」

 次はハルがさっき指差していたヤツだ。確か名前は……

「堂上拓馬です。自分は昔からイメージし続けている理想のプレースタイルに近づけるよう練習していくだけです」

 堂上は考えるそぶりも見せず一言だけそう言った。よく分かんなかったけど、きっとアイツにはアイツの理想像があるんだろうな。俺には全く想像もつかないけど。

 監督への宣言も、横二列の左前に並んでいた俺からコの字に進んでいき、残すは俺の後ろに並んでいるハルのみとなった。ハルはなんて言うんだろう。

「次」

「はい! 峰川中学出身、瀬尾春人です!」

 元気いいな。でも出身中学なんて誰も言ってなかったぞ。

「目標は……俺はなんとしても全国大会へ行きます。そのためならどんなにつらくきつい練習にも耐えてみせます」

 周囲にどよめきが生じる。先輩たちも、1年も、全員が驚いた顔でハルを見た。もちろん俺も。でもハルはただ一点、小田原監督の目だけを一心に見つめていた。全く曇りのない、固い決意を抱いた目で。ハルは俺みたいに思いつきなんかで言ったんじゃなくて、本気で全国へ行くつもりなんだとすぐに分かった。監督もハルから視線を逸らさず、数秒間時が止まったように感じる。五秒か、十秒か、しばらくしてから監督はハルに頷き、全体へと視線を移した。

「今自分たちが言ったこと、絶対に忘れるな。その目標を達成するために今なにをすべきか、常にそれを意識して練習に臨むように。以上」

『はい!』

「ではこれから練習を始めます。各コートに分かれてアップから。初心者の子たちは別で教えるので一度コートの外へ出てください」

 キャプテンの言う通りコートを出ようとしたけど、みんなの視線はやっぱりハルに集中していた。でも当の本人には注目されているという自覚は全くなく、俺と目が合うとニコッと笑って近づいてきた。

「瞬! レギュラーになるなんてよく言ったぞ!」

「やめてよ、恥ずかしいから」

「なんでだよ。別にいいじゃんか。でも瞬なら絶対なれるよ。俺の勘がそう言ってる」

「なんだよそれ。でもハルの方がびっくりしたよ。全国へ行くなんて」

「うん。〝約束〟があるんだ」

「や――」

「瀬尾! お前はこっちだ!」

 約束? って聞こうとしたけど先輩が叫んだ声にかき消されてしまった。

「今行きます!」

 ハルも行ってしまった。――って俺もこんなところで油を売っている暇なんてなかった。急いでキャプテンの後を追いかけ、「よし、がんばるぞ!」と気合いを入れた。

 俺たち初心者組はフェンスの外に出てグラウンドの隅に集まった。人数は男女それぞれ二人ずつ。キャプテンと清水先輩に教えをいただく。

 キャプテンの背はそんなに高くない。俺と同じくらいだから170センチくらいだ。ただキャプテンという重責を担っているからだろうか、厳格で責任感のあるオーラをまとっている。でも話してみると厳格な感じとかそういうのは全然なくて、俺たち1年にも気さくに話してくれるいい人だ。

「それじゃあ始めるよ。まずはそこにあるラケットを一人一本ずつ取ってね」

 体育の備品だろうか、まだラケットを持っていない俺たちのために用意してくれていた。ハルたちが持っているラケットよりは少しちゃっちい気もするけど、そんな贅沢を言ってちゃダメだよな。

 四人がラケットの元に集まる。どれも一緒に見えたから一番手前にあったものを取った。おぉ、意外と軽いな。それが初めてラケットを手にした感想だった。軽い以外にも持ち手が意外にもプニプニしていて柔らかかったり、上部の丸いところはひんやりしていて冷たい感触があった。それに想像していたよりも大きい。大きいのに重くはないから不思議な感じだ。これからはこいつを使って戦っていくのか。上手く扱えるだろうか。

「最初はラケットの部位から説明していくよ。上から順に、丸い形をした外側の硬い部分、ここはフレーム」

 キャプテンが爪を弾いてカンカンと音を立てる。俺たちもそれを真似る。

「その内側で網状になっていて実際にボールを打つ部分がガット、フレームの下のV字になっている部分がシャフト、そして今みんなが手に持っている部分がグリップ」

 キャプテンが言った部位に合わせて俺たちも同じところを触っていく。

「以降はそれぞれの言葉を使って説明していくからしっかりと覚えるように」

『はい!』

「うん、いい返事だ。次にグリップの持ち方を教えるね。俺の真似をして、利き手の手のひらをガットにピタッとつけてみて」

 キャプテンの見本通り、みんな一斉に同じ動きをする。

「ガットに手のひらをつけたままスーっとグリップまで手を下ろして、そこで握る。そうそう、桜庭いい感じ。これが基本的なラケットの持ち方で、利き手で打つフォアハンドショットのグリップになるからね。あっ遠藤、ラケットは長めに持った方がいいからグリップの下の方を持つといいぞ。そう、そんな感じだ」

 さすがはキャプテン。教えつつも一人ひとりに目が行き届いている。

「今日はこの持ち方でフォアハンドショットの練習をしていくよ。一番基本となるショットだからがんばって」

『はい!』

 一番基本となる練習。なんでも最初はここから始まる。地味で大変だけど、基本こそ一番重要だってことは分かっている。それが試合での堅実なプレーにつながり、自信へと変わるからだ。よーし、がんばるぞ!

「それじゃあ実際にラケットを振ってもらうからみんな広がって」

 軽くラケットを振りながら隣の人と間隔を空けていく。途中ラケット同士がぶつかりそうになり、お互いラケットを少し上げて「ゴメン」といつもなら手でやるところをラケットでやった。なんだかラケットで会話したみたいだ。

「簡単に言うとラケットの振り方は大きな円を描くイメージ。見てて」

 そう言うとキャプテンは実際に振って見せてくれた。バックスイングで大きな円を描くようにラケットを回して、そこから一気に振り抜く。ブンッ! とすごい風切り音がした。

 キャプテンからは他にも、下から上に振ってスピンをかけるだとか、打つ時はボールを押すだとか、野球みたいに腰を回してスイングするだとかいろいろ言われたけど、そんな一遍には覚えられなかったから俺はただひたすらラケットを振り回した。ブンッ、ブンッ、ブンッ、とラケットが風を切る。何周もラケットを回しているとだんだん目も回ってきた。

「そんな力任せに振るだけじゃダメだ。少し手借りるぞ」

 キャプテンは俺の後ろに回って右手で俺のそれを掴んだ。まるで父親が子供に教えるように優しく。キャプテンが手首に着けている赤いリストバンドが目に入った。

「大分肩に力が入っているな。まずは肩の力を抜こうか。深呼吸して」

 少し笑いを含んだ優しい声が耳元で響く。キャプテンの言う通り深呼吸して肩の力を抜こうとするけど、別の意味で力が入りそうだ。

「俺は最初力を入れずに桜庭の手を握っているだけにするから、まずは自分で振ってみて」

「はい」

 さっきキャプテンに見せてもらったスイングを頭に思い浮かべながら体を動かす。大きな円を描くようにバックスイングをして、そこから一気に前へ振り抜く。

「うん。大体いいね。あとは打つ時にもう少し腰が入るといいぞ。じゃあ次は俺が桜庭の手を持って動かしていくからな」

 今度はキャプテンに身を委ね、キャプテンのスイングを体感する。一回、二回、三回。なんかこう、体全体を使ってはいるけど、柔らかくて、全然力みもない。体がしなっているって感じだ。想像していた感覚とは全然違った。上手い人はこんな感じで振っているのか。がんばって体で覚える。

「うん、大分よくなってきたな」

「ホントですか? ありがとうございます」

「よし、ものは試しだ。四人とも、今コートで他の部員たちがやっている球出し練習に混ざってボールを打ってみようか」

「えっ? もうですか?」

 まだラケットを握って十分程度しか経っていない。もう少し素振りをしてフォームを固めてからの方がいいんじゃ……

「実際に打ってみないと感覚は掴めないからな。ほら、行くぞ」

 俺たちは戸惑いながらも、キャプテンに背中を押されてコートへと戻った。

 各コートでは片方のベースライン(コートを上から見た時にネットから一番遠いライン)に二つずつ列ができていて、順番が来たら球出しの人――斜め2メートル前にいる――が手で投げたボールを三球ずつ反対のコートへ打ち返す練習をしていた。その名の通り「手出し」という練習らしい。俺たちも各コートへ散らばって列に入った。

 コートの端から全体を見ると意外と広く感じた。とにかくあっちのコートにボールを入れればいいんだよな。それなら俺にもできそうだ。

 前に並んでいたハルが打ち終わり俺の番が回ってきた。よしっ、記念すべき一球目! ここは一発、豪快に決めてやる! ――が、打ったボールはまさかの大ホームラン。しかも反対側のフェンス頂上にボールがすっぽりと挟まってしまった。これには先輩たちからも大笑いされてしまった。

「ナイスホームランだ!」

「元気はいいぞ!」

 恥ずかしさのあまり顔が真っ赤になるのを自分でも感じる。しまった、力みすぎた。さっきキャプテンにも言われたばかりなのに。

「次いくぞ」

「す、すいません」

 二球目が来る。今度はかっ飛ばさないようにと思って打ったけど、逆にネットにすら届かず手前でバウンドした。三球目はフェンス直撃こそしなかったけど再びアウト。一球も入らなかったことに俺はショックを受け、下を向きながら最後尾に並んだ。

「ドンマイドンマイ。最初はみんなああなるから気にすんなよ」

 前に並んでいたハルに慰められる。でも俺は素直に頷けなかった。

 難しい。ただボールを打つだけのことがこんなにも難しいなんて。これならできそうだと思っていた自分が恥ずかしい。それにすげぇ悔しい。……よし、こうなったらみんなのスイングをとことん見てやろう。どのタイミングで構えて、体のどこからスイングを始めて、どう打っているのか、見るんだ。見て、真似できるところは真似してやる。

 ハルの番が来たから早速じーっと見る。まず構え。膝を曲げて腰を深く落としている。重心を低くして、ボールがどこに来ても即座に反応できるように構えているんだ。そこからスプリットステップ(ボールが出される瞬間に軽くジャンプをして、地面から受ける反動で一歩目を素早く出すためのステップ)で瞬時にボールの後ろに入る。あっ、もうこの時にはラケットを後ろに引いて打つ体勢をつくっているのか。左手を右方向に伸ばし、背中が相手コートに見えるまで上体を捻転させ、体に溜めたパワーを一気にボールにぶつける。ボンッ! 俺がボールを打った時の音とはまるで違う、明らかにボールが潰れている音がした。打球は近くで見ていた俺にまで聞こえるようなうねりを上げ、コート最奥のライン内側ギリギリを打ち抜いた。後からスイングがつくり出した風を感じる。

 す、すげぇ。とにかくすげぇ! 一度にいろんなことがギュッと詰まってて、でも流れるように全ての動きがつながっているからこそあんなにすげぇショットが打てるんだ。はぁあ、俺もあんなショット打ってみてぇなぁ。

「桜庭、ボールいくぞ」

「は、はい!」

 俺もハルみたいに、と意気込んで挑むも、俺のショットは弱々しくネットに吸い込まれるかポーンとアウトをするだけ。クソッ!

 他の人はどうなんだろうと思い見てみる。キャプテンはハルと似ていて流れるようなきれいなスイングをしている。あそこで一番声を出している人――確か副キャプテンの長野先輩だ――はすごいパワフルな感じだ。

 そこでふと堂上が目に入った。驚いたことに堂上の動きはすげぇゆっくりで、まるで堂上の周囲だけ時間が緩やかに流れているような、そんなスイングをしていた。ボールもそんなに速くない。あれで強いっていうんだから不思議だ。想像もつかない。

 俺はみんなを見ながら真似するようにその場で素振りをした。周りを見て思ったけど、やっぱりみんな上手い。でもみんな違う。正解なんてないんだ。だから俺も俺なりのスイングを見つけていけばいいんだ。

 手出しの次は、相手コートからラケットで出されたボールを打ち返す「球出し」練習、そしてラリーの練習と続いた。案の定、俺はネットかアウトをするばかりだった。

 その後は、先輩たちの試合が近いらしく試合形式の練習をするということで、俺たち1年は球拾いを任された。先輩たちの試合を見ているとボールのスピードやスイングの速さが俺とは大違いで、当たり前だけど俺なんてまだまだなんだなって実感させられっぱなしだった。

 それから最後にラインタッチというフィジカルトレーニングをして練習は終わったんだけど、これがまた超きつかった。テニスコートにはネットと垂直に交わるラインが五本あって、一番外側の二本がダブルスサイドライン、その少し内側にある二本がシングルスサイドライン、そして真ん中にあるのがセンターサービスライン(ネットの中心からコート中央にあるサービスラインまで引かれているライン)とそれぞれ呼ばれている。ラインタッチは全員で片方のダブルスサイドラインから横一列でスタートし、すぐ近くのシングルスサイドラインにタッチして元のラインまで戻ってタッチ、次はセンターサービスライン――ベースライン付近を走っていてセンターサービスラインがない人は大体の延長線上――にタッチして再び戻ってタッチ、その次は遠い方のシングルスサイドライン、最後に反対側のダブルスサイドライン、とタッチを繰り返していく練習だ。一回に四往復するわけだけど、それを三回続けて1セット、計10セット行う。もちろんライン間は全力ダッシュだ。

 最初の方は意気揚々と走っていられたけど、ダッシュアンドストップや上下運動の繰り返しから来る体へのダメージは蓄積が異常に早く、1セット目が終わる頃にはもうへとへとになっていた。

「どうした1年!」

「スピードが落ちているぞ!」

「もっと速く走れ!」

 監督からは何度も怒鳴られたけど、意識が朦朧としていたからよく覚えていない。最後は気合いと根性でなんとか走りきり、その場に倒れた。ハルや堂上も同じように倒れていた。体力には自信があったつもりだけどこれはやばい。1年とは対照的に、先輩たちは走り終わった後もみんなピンピンしていたからバケモノかと思った。

 後で聞いた話だとラインタッチは練習の最後に必ずやるみたいで、それを聞いた途端俺はその場で気絶しそうになった。どうやら俺は大変な部活に入ってしまったみたいだ。



 その夜、いつもならリビングでテレビを見ながらゲラゲラ笑っている夕飯後の時間。俺はどうしてもウズウズが止まらなくて外へ出かけることにした。

「ちょっと出かけてくる」

「出かけるってどこによ? もう九時よ?」

「ランニングしてくる。気をつけるから」

 ドアを閉めて夜道へ繰り出した。月が後方から俺の行く手を明るく照らしてくれている。

 練習はきつかったけど、数時間もしたら疲れはどこかへ吹っ飛んでいた。それよりも目の前で見たハルのスイングがどうしても頭から離れなかった。考えれば考えるほど体がウズウズしてきて、居ても立ってもいられず外へ飛び出してきてしまった。

 母さんにはランニングと言って出てきたけど目的は別にあった。そう、素振りだ。素振りといってもまだ自前のラケットは持ってないから代わりにタオルを持ってきた。

 親水公園の広場に到着した。行く先なんて考えてなかったけど足が勝手にここへ連れてきた。首に巻いたタオルを取り、脳裏に強く焼きついているハルのスイングを思い出しながらタオルを振る。俺もいつかはあんなショットを……

 夜の闇に包まれた親水公園からは小川のせせらぎと風を切る俺のタオルの音だけが聞こえてくる。この日から俺の素振りは日課となった。

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