第58話 城壁3

 

【58】城壁3




 ぱちぱちと水分を含んだ薪がはぜる音を聞く。バケツに汲んだ水を引っ被り、戦場で浴びた返り血と臓物を落としたテオは、城壁の裏側に位置する休憩所の焚き火の前で座り込み、濡れた体と服を乾かしていた。


「……く、あ」


 湧き上がる欠伸を噛み殺し、生乾きの髪を散らす様に混ぜたテオは、抱えた大薙刀に擦り寄るように身を預ける。頬に触れる金属の温度は握りっぱなしだったせいか、持ち主の体温に近く、不快な冷たさをもたらすことは無かった。

 長すぎる柄に絡めた腕の先で、円柱状の丸い表面を指先が撫でる。時折爪で叩いては、心地良く響く音を貼り付けた耳で聞いた。


 火の粉を散らして音を鳴らす焚き火の温度が心地よく、眠気を感じて落ちそうになる目蓋を空いた手で擦る。


「まるで恋人みたいね」


 そう頭上からかけられた声に、テオはゆっくりと顔を上げた。綿菓子を噛んだように甘くじゃれつく声の主をテオはよく知っていた。


「久しぶり、ミンディ」

「久しぶり、テオ。眠たそうだね。お疲れなの?」

「暖かいと、眠くならないか」

「ううん。そういうもの? わたし、ちょっとわかんない」


 そう言った少女のように小柄な体をした女性は、テオと同じように汚れを落とすために水を浴びたばかりなのか、ずぶ濡れの姿で笑った。

 水を吸って滴る蜂蜜色のセミロングの髪を揺らしながら首を傾げている。目じりが垂れ下がった瞳は大きく、薄い紅茶のような色素の虹彩がよく見えた。

 背丈は聖骸リリーよりは高く、立てばテオの胸の辺りに頭が来るだろう。しかしふわふわと笑う雰囲気の為か、痩せたように見える体つきの為か、実際の身長よりも余程小さく見えた。


 そのくるりと上がった口角が、どうやら今日は彼女の機嫌が良いことをテオへと教えてくれる。


 ミンディ。この街でソロの冒険者として活動する斥候だ。テオがこの街に来たばかりの頃はまだパーティを組んでいた彼女も、その体質の為に厄介払いをされて今ではソロに落ち着いている。


 爪のように鋭い指先を持つ分厚いガントレットと、踏み付けたもの全てを砕かんとする厳ついブーツ。そして何より、今は腰に下げられているものの、その存在感を主張し続ける牙を剥いた可動式の頬当てが、彼女の最たる武装だ。


 戦場のミンディが魔物共の皮を剥ぎ、肉を毟り取り、骨を噛み砕き、血を浴びて吠える姿をテオは遠目ながら数度ばかり見た事がある。

 体ばかりは小柄でも、彼女を侮れば次に喉笛を失うのは自分になる可能性がある相手であることも、良く理解していた。


 スキップでも始めそうな程に機嫌良くにこりにこりと微笑むミンディを、未だ眠気の覚めない瞳で見上げたテオはゆっくりと口を開いた。


「何か、良い事あったか」

「うん! ここ、空いてる?」

「空いてるよ」

「それでは失礼して」


 そう言ってテオの隣に腰掛けたミンディは、焚き火の熱気に手をかざして暖を取り始めた。

 見知った相手の気配に体の力が抜けきったテオが、更に込み上げる欠伸を飲み込みながら隣に座るミンディの濡れた髪を見詰める。


 焚き火にあたって大分服が乾いたテオと違って、ミンディの装いはまだまだびしょ濡れだった。


 手甲と脛当て以外の防具を身に着けないミンディは、腹部が大きく露出した装備に身を包んでいる。みぞおちの上から、へその下に拳一つ分まで開いた服は、ミンディ曰く腹部を圧迫しなくて着心地が良いらしい。


 テオも出会ったばかりの頃は、腹部を晒した彼女の装いでは体を冷やして腹を下さないか心配になったりもした。戦場に立つ冒険者として、急所を晒す危険性も考えた。


 しかし彼女はその臓腑ですら自分よりもずっと頑丈な体を持っていると気が付いてからは、テオが気に掛けるのは単なる露出度だけだった。


 傷一つ無く、日に晒されたとは思えないほど白く滑らかなミンディの肌は、中々に周囲の目を引く。

 本人が気にしていない様なので、何かとミンディの隣に居ることが多くなったテオも気にしないようにする事にした。しかし、時折至近距離に晒される素肌には驚く事も少なくない。


「テオ、ね、ね」

「はいはい」


 くうくうと腹を鳴らすミンディが、隣に座るテオに撓垂れ掛かる。水気が乾ききっていないミンディの装備は冷たく、テオの背筋を凍らせた。


 テオは運良く返り血と水浴びを免れたウエストポーチから、袋に入った堅焼きのビスケットを取り出した。袋の口を開けると、隣に座るミンディへとそれを差し出す。


 手馴れた様子で袋に手を突っ込んだミンディは、テオに寄りかかったまま、遠慮なく鷲掴みにしたビスケットへと大口を開けてかぶりついた。

 自分も一つビスケットを取り出したテオが、隣で豪快な音を立てながらそこそこ堅いはずの小麦製品を噛み砕く女へと言葉を吐く。


「今日、何食べようか」

「噴水通りを北に行ったところに新しいお店が出来てたよ。かなり盛りがいいらしいとか。行きましょ」

「良いね」


 そう言って手にしたビスケットを口に運ぼうとしたテオの指から、たった一枚きりのそれが奪われる。


 片眉をはね上げてビスケット誘拐犯を見やったテオの視線の先で、テオから攫った一枚を摘んだままのミンディが、いつの間にやらそちらも奪っていたのだろうビスケットの袋を顔の上でひっくり返していた。


 ざらざらと落ちる堅焼きのそれを丸呑みするがごとく平らげたミンディは、最後にテオから奪い取った一枚を堪能するように咀嚼した。


「一枚くらい残してくれよ」

「この一枚が欲しかったから駄目」

「どれも同じじゃないか」

「この一枚が特別良かったから同じじゃないよ」

「……そうか。良かったな」

「うん!」


 押し問答だと諦めたテオの言葉に、ミンディは手のひらのように花弁を開いた向日葵のように輝かしい笑みで応えた。

 よく分からないが嬉しそうで何よりだ、とテオは思わず釣られて笑みがこぼれる。


 テオの体と比べてもあまりに大きな相棒に、ひたりと頬を預けたテオは目を閉じて絶えない眠気に身を預ける。

 焚き火の熱とミンディの装備にこびり付いた水気の冷気に挟まれたテオは、ぼんやりとした意識をそのままに口を開いた。


「どう、したらいいのかな」

「何が?」

「ううん。ええと、いや、まあ。もう、どうにもならないんだけど」

「うん」

「どうにかしたかったなあって、思ってしまって」

「そうなんだね」


 眠気で下がる頭を立てた膝に乗せた腕に埋めたテオは、もごもごとした声で話ともつかない言葉を吐き続ける。


 その丸まった背中にへばり着く様に移動したミンディは膝立ちになり、後頭部を晒すテオの頭にのしかかった。


 かかる重みを無視することにしたのか、対応することも面倒なのか、テオはされるがままに焦げ茶の髪を潰されながら、ぼやぼやと口を開いた。


「どうにもならないんだもんなあ。意味ないなあ」

「ないのねえ」

「本当に何にも無いなら良かったのになあ。どうにも出来ないもんなあ」

「それじゃ困っちゃうねえ」

「困ったなあ。なんか、どうにもしたくないんだ」

「どうにもならないねえ」

「なんねえなあ」


 そう言って更に背中を丸めたテオの腕の中で、重みに負けた大薙刀が傾いた。立てた膝の間にこもる声が、溢れた言葉が外に向くことを邪魔する。


 それでもテオの背中に張り付いたミンディは、まるでテオの焦げ茶頭の中に収まる脳に耳を寄せたように、その言葉を聞き逃さなかった。


「ならご飯を食べましょ。お腹を満たしてまた考えましょ。どうにもならなくても、お腹いっぱいになれたなら、きっと食べた分だけ嬉しい気持ちで生きられるよ」

「……うん、うん」

「ちょっと、テオ寝ないでよ。担いで行くの面倒だよ。起きてほら、ご飯食べるの。ほら、ほら」

「うーん……」


 膝に挟まった頭をぐずる様に振ったテオに、ミンディは小さく溜息を吐いた。ミンディの薄い茶色の瞳が、テオの晒された後頭部とその下に繋がる首筋を見詰める。


 カーキ色の上着のフードがたごまって、その上に焦げ茶の頭が垂れる男の姿を眺めた後、ミンディはとろりと口を開いた。


「……そんなに嫌ならやめちゃえばいいのに。本当、変なの」


 吐き捨てた言葉とは裏腹に、その声音はどこか温かみを帯びていた。


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